沙羅双樹の帳尻 ―幕末洛中記―

@owl_key_note

第1話 心配いらない

 梅雨の夜は、湿った帳を町に垂らしていた。

 遠くで半鐘が響き、火消したちの掛け声が雨雲に溶けていく。だが勘定方の屋敷までは火の手は届かず、木戸を閉ざした家々の間に、ただ水気を帯びた静けさが沈んでいた。


 滝川澄弥たきがわ すみやは、不意に目を覚ました。

 十四の少年。背丈は伸びはじめ、あどけなさの影に、青年の輪郭がうっすらと浮かびつつある。濃茶の髪は肩の上で整えられ、灰がかった瞳は、光を含むと測りかねるように揺らいだ。


 襖を抜けると、畳に残る香の余韻が鼻をくすぐった。高価な沈香でも伽羅でもない。ただ、滝川の家で長年焚かれてきた、馴染み深い匂いだった。――家に帰ってきたときの安心と、算木を指で弾くときの落ち着きが同じ場所にある。


 廊下は冷えて、板間が足裏にしっとり貼りつく。襖の向こうから、女中が布団を蹴った気配がわずかに伝わった。寝返りひとつにすぎない。それでも澄弥はほっとした。

 ――誰かが眠っている音があるだけで、世界は少し穏やかになる。


 縁側に出ると、湿り気を帯びた夜気が頬を撫でた。庭の池を月が照らし、景石や石灯籠、飛石を白く濡らしている。沙羅双樹が咲いていた。夏椿の白――朝には落ちる一日花。夜露を吸って咲いた花は、すでにいくつも水面に散っていた。


 澄弥は腰を下ろし、視線をさまよわせる。

 数える。

 ひとつ、ふたつ、三つ。……十六、四十八。

 石灯籠も、飛石も、花の数も。目に映れば即座に数字が浮かぶ。止められない癖だった。


 (……十六か。帳面に載せるには、少し端数が多いな)

 口に出さず、小さく笑みを洩らす。数字に遊びを見いだせるのは、真面目さの副作用か、それとも小さな救いか。


 そのとき、雲が月を覆った。

 池の水面がざわめき、闇が底からせり上がるように広がる。――鯉か、と澄弥は思った。数えるには少し動きが速い。鯉まできちんと勘定できれば、今夜は満点だと冗談めかし、縁を降りて数歩進む。


 けれど、沙羅双樹の影の向こうにあったのは、鯉ではなかった。

 白い人影。上半身を裸にし、水に腕を沈め、揺らしている。


 澄弥は息を呑んだ。

 「……時雨しぐれ、兄さん?」

 数年前に養子として迎えられた仮の兄の名が、自然と口をついた。


 美しい。

 いや、美しすぎて、どこか怖い。

 月光に浮かぶその姿に、胸が妙に高鳴る。


 白い人影は、こちらを覗き込むと動きを止めた。

 遠くで半鐘がまた鳴る。なぜか炭のような焦げた匂いが空気に混じり、澄弥の背筋に冷たいものが走った。


 ――戻れ。そう思う心がある。

 けれど足は、なお前へと進んでしまう。


 長い黒髪が月光を吸い、流れ落ちるたびに赤黒い雫が弾け、白い腕を線のように走った。

 滴は水にも似て、ひととき幻のように美しかった。

 けれど、確かにそれは血であり、鉄の匂いが夜気を満たしていく。


 その腕は、闇にただひとつ浮かぶ形となり、手のひらから伸びた指先が澄弥へと迫っていた。

 美しい――そう思った瞬間に、胸の奥が氷のように凍りつく。


 澄弥は息を呑み、立ち尽くした。

 滝川時雨は、ぎこちない笑みを浮かべていた。


 「……心配いらない」


 唇が震え、澄弥は数を刻もうとした。

 「一つ……一つ……」

 それが花なのか、滴る赤なのか、自分でも分からない。数は途切れ、絡まり、いまだ遠くで鳴り響く半鐘の音ともに、闇に沈んでいった。


──後年の記録に曰く。


 文久元年六月二十四日、津藩城下・松ヶ瀬まつがせ屋敷において放火殺戮の惨事あり。

 主犯は本名柊時雨ひいらぎ•しぐれなる者、滝川家に養子として入りしものと認む。


 一、柊時雨、火を放ち、同屋敷に集っていた藩士ならびに小者・下男ら十余名を惨殺せり。

 一、女中ただ一人が生き残り、証言を以てこれを告発す。

 一、同屋敷より数名の行方不明者あり、消息は未だ知れず。

 一、滝川家はその養子を監督せず、藩士の体面を汚したる責により、勘定方の職を剥奪し、家禄を削ぐ。

 一、嫡子・澄弥は年少につき罪を免ず。ただし以後、監督を厳とし、外聞を憚るべし。

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