死亡したら天国だった件

哀野めめ

第0話 憧れ

 初めて死に触れたのは幼稚園の頃だった。

 父親が俺を喜ばそうとして買ってきてくれたカブトムシを、小さいながら一生懸命育てたのを覚えている。毎日欠かさず餌をやり、無駄な刺激を与えないよう気をつけていたつもりだ。1時間以上ずっと眺めている日もあった。


 それでも九月に入るころには少しずつ元気をなくし、ある朝、餌を替えようと覗くと、仰向けにひっくり返って動かなくなっていた。

両親に伝えると、それが“死んだ”ということなのだと教えられた。よく分からないまま公園に連れて行かれ、土に埋めたことだけは鮮明に覚えている。


 しばらくして、どうしても気になってしまい、ひとりで埋めた場所を掘り返した。

しかし、そこには何もなかった。掘っても掘っても土が出てくるばかりで、カブトムシがまた動き出してどこかへ行ったのだと思った。


 小学生になってから祖父が亡くなった。

「おじいちゃんはどこに行ったの?」と尋ねると、両親は「天国に行ったんだよ」と教えてくれた。

そのとき初めて、あのカブトムシも天国に行ったのだと理解した。


 中学生になると、祖母が亡くなった。

 このときにはもう“死”というものをある程度分かっていたから、ただただ悲しみだけが残った。涙が止まらず、もう一度会いたいと願っても、願いは届かないのだと知った。


 天国はどんなところなのだろう。

 カブトムシも祖父も祖母も、今頃は楽しく過ごしているのだろうか。死んだ先にそんな場所があるのなら自分もいずれはそこに行きたい、と天国への憧れを抱くようになった。


 けれど、時が経つにつれ、その憧れは少しずつ形を変えていった。

 生きるというのは苦痛を伴う。努力すること、人と関わること、期待に応えること、未来を考えること。生きるというのは苦痛の連続であることを知った。これが大人になる、ということなのだろう。


 そしてもう一度考える。

 天国は本当に楽しい場所なのだろうか。死んでなお“生きている”ような感覚に陥る天国は、果たして素晴らしいところなのだろうか。むしろ、天国よりもただ静かで、何もない“無”のほうがよっぽど幸せなのではないか。



 天国への憧れはいつのまにか“無”への憧れに変わっていた。

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