泥の中の光

サンキュー@よろしく

【三題噺】「自然」「渦」「身分」

 じっとりとした湿気が、肌にまとわりつく。

 八月の太陽は容赦なくアスファルトを炙り、立ち上る陽炎の向こうで、ひしゃげたガードレールが歪んで見えた。鼻をつくのは、乾き始めた泥と、生活が腐敗していく匂い。数日前にこの町を襲った豪雨の爪痕は、あまりにも生々しかった。


「休憩! 一〇分休憩にしましょう! 水分、塩分、しっかり摂ってください!」


 メガホンを持ったリーダーの声が響く。僕はスコップを地面に突き刺し、泥と汗まみれの軍手を外してから、深く息を吐きだした。

 隣で同じように土砂をかき出していた彼女も、動きを止めて額の汗を腕で拭った。僕と同じ、週末だけ参加しているボランティアのはずだ。ショートカットの髪は泥で少し固まり、頬にも土が跳ねている。それでも、不思議と彼女の周りだけ空気が澄んでいるように見えた。


「どうぞ」


動くのも億劫で、ただじっと休んでいた僕に彼女が差し出されたのは、冷えたペットボトルのスポーツドリンクだった。キャップには、まだ泥がついていない。


「あ、すみません、ありがとうございます」


 受け取ると、その冷たさが火照った手のひらに心地よかった。


「いえ。……すごい泥ですね。掘っても掘っても、なくならない」

「本当に。泥って、ただの土と水じゃないんですね。なんていうか、意志を持ってるみたいに重たい」

「意志、ですか?」


 彼女が少しだけ笑った気配がした。


「ええと、前に何かで読んだんですけど、こういう泥濘地の泥って、粘土鉱物っていう微粒子が水を大量に吸って、分子レベルでがっちり結びついちゃうらしいんです。だから見た目以上に重くて、粘りつく。ただの濡れた土砂とは違うんだって」

「へえ……詳しいんですね。なんだか、悲しみを全部吸い込んで重たくなったみたい」


 彼女のその言葉に、僕は何も返せなかった。まさにその通りだと思ったからだ。この泥の下には、誰かの日常が、笑顔が、当たり前だったはずの毎日が埋まっている。その重さなのだと、妙に納得してしまった。


 僕たちは無言で並んで座り、それぞれのペットボトルに口をつけた。周りを見渡すと、様々な人間がいることに改めて気づく。いかにも人の良さそうな大学生のグループ。明らかに高価そうなアウトドアウェアに身を包んだ、日に焼けていない中年男性。金髪にピアスの、普段なら少し距離を取ってしまいそうな若者。地元のおばちゃんたちが炊き出しの準備をしている。

 ここに来るまで、僕は彼らとすれ違うことさえなかっただろう。住む世界が違う。価値観が違う。見ているものが違う。社会が暗黙のうちに定めた、見えない線引き。


「不思議な光景ですね」


 先に口を開いたのは彼女だった。


「普段なら、絶対に交わらないような人たちが、みんな同じビブスを着て、同じ泥にまみれてる」

「……ですね。ここでは、会社の役職も、学歴も関係ない。ただの『一人の人間』だ」


 僕は大手と呼ばれる企業で、小さな歯車として働いている。そこには厳然とした階級があった。正社員と非正規。総合職と一般職。役職という名の、現代の「身分」制度。僕はその中で、上手く立ち回ることもできず、かといって抗うこともできず、ただ息苦しさを感じていた。ニュースでこの町の惨状を見たとき、何かに突き動かされるように、週末のボランティアに申し込んでいた。偽善だと言われても構わなかった。ただ、息がしたかった。


「うわっ!」


 休憩を終え、作業を再開した直後だった。瓦礫をどかそうとしていた若者の一人が、短い悲鳴をあげた。コンクリートの塊を持ち上げようとした拍子に、その下から突き出ていた鋭利な破片が、厚手の軍手を貫いてしまったのだ。幸い深くは刺さらず軽症で済んだが、軍手を外した手のひらには、じわりと血が滲む擦り傷ができていた。


「大丈夫か! すぐ水で洗って!」


 リーダーが駆け寄り、彼の傷口をペットボトルの水で洗い流し、手際よく消毒して絆創膏を貼る。


「みんなも気をつけてくれ! 土の中には破傷風菌がいるからな。錆びた釘を踏んだ時だけじゃないぞ、あいつらはどこにでもいる菌だ。ほんの小さな傷でも、命取りになることがあるんだからな!」


 破傷風。名前は知っているが、そんな身近なものだとは思わなかった。見えない脅威は、濁流だけではない。この災害が残したものは、あらゆる場所に牙を剥いて潜んでいる。


 その日の午後、僕たちは一軒の家の庭先に溜まった土砂を撤去することになった。家は半壊し、家財道具が泥水と共に流れ出して、めちゃくちゃに散乱している。言葉を失う光景だった。持ち主であろう老夫婦が、茫然と立ち尽くしていた。


 どこから手をつければいいのかもわからない。それでも、僕たちは黙々とスコップを泥に突き刺し、土嚢袋に詰めては運び出す作業を繰り返した。汗が目に入ってしみる。泥の重みで腰が悲鳴をあげる。それでも、誰も手を止めなかった。


 作業が少し進み、少しだけ地面が見えてきた頃。僕たちは少し離れた高台に上がり、自分たちが作業した場所を、そして町全体を見下ろした。


「……ひどい」


 彼女がぽつりと呟いた。

 川は元の流れを取り戻しているように見える。だが、その周囲に広がる茶色の景色は、まるで巨大な獣が暴れ回ったかのようだ。家々が流され、道がえぐられ、田畑が湖の底のようになっている。その爪痕は、巨大な「渦」を描いているように見えた。


「すべてを巻き込んで、めちゃくちゃにしていく……。濁流の『渦』ですね」

「ええ……。抗いようのない、絶望の渦。私たち人間なんて、なんて無力なんだろうって、思い知らされる」


 彼女の声には、諦めにも似た響きがあった。僕も同じ気持ちだった。僕たちが一日かけて運び出した土砂なんて、この惨状の前では砂漠の一粒にも満たない。この無力感が、心を蝕んでいく。


 その時だった。


「あった……! あったわ……!」


 下から、しわがれた歓声が聞こえた。

 見ると、土砂の中から何かを取り出そうとしている学生ボランティアと、それを見守る家の主の老婆の姿があった。僕たちも急いで駆け寄る。


 学生が泥の中から慎重に引き上げたのは、分厚いアルバムだった。表紙は見るも無残に汚れ、ページは水を吸って膨れ上がっている。だが、それは確かに、誰かの思い出が詰まったアルバムだった。


「ああ……よかった、よかった……」


 老婆はそれを受け取ると、泥だらけの表紙を震える手で何度も撫でた。そして、崩れ落ちるようにその場に座り込むと、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……。家も、家財も、全部流されてしもうたけど……これだけは、これだけはって……。思い出まで、流されなくてよかった……」


 老婆は僕たち一人一人の顔を見て、何度も何度も頭を下げた。その姿に、周りにいた誰もが言葉を失い、ただ静かに涙ぐんでいた。金髪の若者が、そっと自分のタオルを老婆に差し出している。高そうなウェアの男性は、黙って土嚢袋を運び続けている。


 僕の隣で、彼女が鼻をすする音が聞こえた。


「絶望の『渦』の中にも、こういう、光みたいなものが、ちゃんと残るんですね」

「……ええ。僕たちがやっていることは、もしかしたら、ただの土砂の撤去じゃないのかもしれない」


 アルバム一枚で、何が変わるわけでもない。家が元に戻るわけでも、失われた日常が返ってくるわけでもない。でも、確かに僕たちは、泥の中に埋もれていた「光」を掘り出したのだ。


 夕暮れが近づき、一日の作業終了が告げられる。泥だらけの僕たちは、疲労困憊の体を引きずって集合場所へと戻った。


「災害という『自然』の脅威は、本当に容赦がないですね」


 帰り支度をしながら、彼女が空を見上げて言った。茜色に染まる空は、まるで嘘のように美しかった。


「でも、皮肉なものです。その抗いようのない力が、私たちの間にある見えない壁……さっき話した『身分』みたいなものを、全部洗い流してしまうなんて」


 彼女の言葉が、すとんと胸に落ちてきた。

 そうだ。僕たちは今日一日、会社の歯車でも、社会の駒でもなかった。ただ、誰かのために汗を流す人間だった。泥にまみれ、同じ痛みを分かち合い、小さな光に共に涙した。そこには、何の垣根もなかった。巨大で無慈悲な自然の力が、逆説的に、僕たちを最も原始的で、最も純粋な「人間」の姿に戻してくれたのかもしれない。


「また、来週も?」

「ええ、来られる限りは」


 僕たちはそれだけを交わし、それぞれの帰りのバスへと向かった。

 結局、僕たちは互いの名前も、連絡先も聞かなかった。明日になれば、彼女は彼女の日常に、僕は僕の息苦しい日常に戻る。もう二度と会うことはないかもしれない。

 それでも、よかった。

 バスの窓から、遠ざかっていく被災地の景色を眺める。今日ここで出会った人たちの顔を、泥の中で見たあの光景を、そして彼女の言葉を、僕はきっと忘れないだろう。

 泥の中に確かにあった、あの温かい光を胸に抱いていれば、明日からの日常も、もう少しだけ、上手く息ができるような気がした。

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