死際(全編)

武内明人

死際

「あと少しで俺の人生が終わる。今まで生きた期間は58年11ヶ月23日と3時間。今ある現実が消えてしまうのだろうか。この病室にある物品を認識できなくなるのか。若い看護師を抱いてみたいと思うことももうないのか。そもそも死とはなんなんだ。生きている間に考えていることだろう。死んだ人間がわざわざ自分の現状を考えるか?いや、死体は考えたりするのか?医学書をいくつか読んだが死体は何をしているのか書いていない。死体がこういう状態だと生きてる側が考えているだけだ。怖い、いやそれも違う。死ぬことは怖いのか?誰が立証するんだ。死んだ人間がこうだと誰かに証明したのか?馬鹿げた考えだ。素直に死ねばいい。死んで見れば分かることだ。」和丘遥佑(かずおかゆうすけ)は、御瀧(おたき)総合病院のICUのベッドの上で昏睡状態が続いていた。


56歳誕生日、遥佑は自慢の車に自慢の美女を乗せ、これまた自慢の別荘へと車を走らせていた。立ち上げた高齢者介護事業と障害者支援施設が全国展開した。民間で2つの福祉事業を行う事は不可能だと周囲は反対した。しかし、父親から受け継いだ建設会社を母体に次々と奇跡を起こしていった。事業所内の作業に現場作業の一部を当て部品などの製造を受注しそれを高齢者や障害者に作業させることで、考えたり手や指のリハビリになるとした。使い物にならない商品は分解し簡易な建物の建築部品として再利用した。介護職員、施設職員に対してシフトを組み建設現場に社員として雇用する。男性は職人として、女性は事務員として採用する事で低賃金と言われる福祉職員の給料を高い現場賃で補うことできた。給料に対する不満を解消できた事が規模の拡大に繋がった。民間で行うため、雇入れについて行政のメスは極力抑える事が出来た。

「ああ、見えたよ。あそこだよ。俺の別荘。豪邸だろう。」古別荘を2件買い取りそれを潰して建て直した。建設会社らしくデザインから図面設計、建築まで自社で行った。勿論シフト該当の職員も携わっている。「凄い自動。」隣の美女が自動門扉に感動しているのを薄笑いで見つめる。「此処から車で2分で到着。」遥佑ぼ弾む口調に心を躍らせる女。車は樫の木に覆われた舗装路を20キロの低速で走る。勿論、彼女に自分が庭師に植えさせた樫の木並木を見せつけるためだ。建物正面に車を着ける。正面には玄関と呼ぶには余りにも崇高で和風ホテルのエントランスと見間違えるほどの入り口がある。この建物の顔に彼女は相応しいと自画自賛した。玄関ドアはオートロックになっていて暗証番号をタッチするか専用カードキーでないと開かない。遥佑はカードキーを使ってロックを外した。「さあ、入ろう」彼女の背中に手をやり並んで室内へと入る。正面に二人の立ち姿が鮮明に映る鏡に向かって遥佑はナルシチズムなポーズを彼女に見せつけるようにとった。美女はクスリと笑い遥佑の左肩に凭れ掛かる。彼は美女の身体を両腕で抱き抱え大理石が敷き詰められたリビングのソファーにゆっくり寝かせる。上から覆い被さろうとする彼に美女は腕で防いで「お酒飲みたい。」と焦らしてきた。「酒なら何でもある。好みは?」「FWラングート・エルベン」美女はスパークリングワインを指定した。「じゃぁ、金箔入りで。」遥佑はゴールド リーフNV をワインセラーから取り出しワイングラスに注ぐ。弾ける音と共に美女も彼を見つめながら淫らな本性を表した。

 その夜は遥佑にとっての至福の時となった。いつまでも続くと思った。幸せという言葉は自分を例えている気がしていた。金、女、人生が思い通りに進む。自分が意図するもの全てを手にした。命も永遠にあると思っていた。不老不死だと思い込んだ。それが、あの日人間ドックで針の穴が開いた。

「悪性腫瘍のようです。摘出が必要です。」

医者は嫌いだ。言葉に人間の情というものを感じない。無機質に症状を報告し挙句の果てには手術するという。まるで手術をすれば責任が回避されるかのように。

 「然し、私には大切な仕事があります。沢山の従業員を路頭に迷わすわけには行きません。」遥佑の邪心が彼に囁く。「嘘を言うな。お前仕事全然してないだろう。金に物を言わせて、できる人間を雇いそれに甘えてるだけだろう。入院して看護師と毎晩やっちまえ。」魔の囁きはあっという間に彼を飲み込んだ。「和丘さん、身体あっての人生ですよ。少し休んでまた始めればいい。」

 医者はいい、休暇を取ろうと首になろうと世の中に病気がある限り向こうから客が来る。「クソみたいな医者だ。」そう心のなかで呟いたが「まぁ、看護師とシケ込むのもいい。」と入院を承諾した。

 入院の準備に一日を要した。下着、パジャマ、ガウン、コンドーム。面白半分に女性用の大人の玩具も購入した。荷物運びを社員にさせ2倍の日当を払った。


 入院初日から遥佑は運に恵まれた。担当の看護師が自分の好みだったのと同時に少々の淫乱さがある。その夜にセックスができた。しかし、自分の満足感とは裏腹に彼女は「早すぎ。」と不満を漏らし以降その看護師とは身体を合わせなくなった。男の自信を無くした。何故か辛くなった。今までそんな言葉を自らに浴びせた人間はいなかった。「俺の女遍歴は慰めのもとに成り立っていたのか?そんなこと絶対に認められない。そんな馬鹿なことがあるか。」遥佑の尊厳に影がさした。「設計の甘い建築物は後々後悔をする。だから設計段階では余計なことをするくらいでいい。」なくなった父がよく言ってた言葉だ。「お前は何時も詰めが甘い。」自分の心が泣いている。彼の中にある邪心に冷水が浴びせられ体の芯から意識という意識を目覚めさせた。正気に戻った気がした。「今まで俺は欲という湖沼に沈み溺れていることさえ分からない状態だった。何もなかった。手にしたものなど人生に必要のないガラクタばかりだ。これから俺は、人間にとって大切なものを探す。それはなんだ。まぁいい。手術が終わってゆっくり探すさ。」遥佑はそのまま微睡みに沈んでいった。


 和丘遥佑にとって悪性腫瘍は大いに気になってはいる事であるがそれ以上に大切な何かを探すことに生きがいを感じていた。担当医の西木野章(にしきのあきら)が、「早すぎ。」の看護師とともに回診に来た。「和丘さん、明日検査をしますね。今日は採血と検尿です。和田くん頼むよ。」調子のいい喋り方に反吐が出そうだ。看護師の和田も検尿に反応して笑いやがる。糞ばかりだと吐き捨てる。「そんなことよりも俺にはやることがあるんだ。とっとと悪い虫を退治しろ。」遥佑の脳裏にはもう女々しさは消えていた。「人にとって大切なもの。」只其れだけを探し求めていた。


 死とはどういうものだろう。古人は天国と地獄という別世界を想像した。今の時代ならばバーチャルワールドといったところか。然し、現実的に亡くなる人間は衛生面から焼かれ骨と化しその姿は生きている者たちが目の当たりにする。世界に目を向けると棺に納められ土と化す。ZOМBIE伝説もエンターテインメントの世界でしか通じない。では死というものは永遠に生きているものが知ることはできないのか?嫌、そうではない。生死を別世界と考えなければ我々の人生の中で最後に知る真実であるということが分かる。いずれ分かる。そんな自問自答をしながら、生きている間に出来る大切なもの探しを病室のベッドで遥佑は続けた。

「それでは手術は来週の月曜日と言う事でいいですね。心の準備をしておいてください。」けっ、結局来週になっちまった。それまで俺は生きがいを持てないってことか。心の準備だと。死ぬわけでもあるまいし。待てよ、心の準備をすると言う事は、死も考えろって事か。それじゃぁ、俺はこんなところで終るってことか。大切なもの探しはどうなるんだ。やっと見つけた正しい人生は訪れる事無く終わりって。馬鹿言うな。俺はこの病院でセックスもしてるんだ。元気な人間が来週死ぬ。あほらしい。用心しろって先生、あんたが正確な手術を心掛ければ何も準備はいらない。いや、あんたが準備してくれよ。


 病室に戻るとシーツ交換の時間だった。和田看護師が素早くシーツを取り換えた。その様子に遥佑は、病院の白いシーツはこれから俺がゼロからスタートすると言うしるしだと思った。何故白がゼロなのか。色がないとたとえられるが、白と言う色に染められているではないか。じゃぁ、色がないってどんな色なのか。透明だ。然し、シーツが透明の場合、患者の寝姿は丸出しだ。悪い事は出来ない。「それにしても転移したとなるとまた入院が長引くなぁ。暇を持て余す。何か時間を忘れられるようなことがないか。」大切なもの探しをするには自分にとっての大切なものは何かを考える事だと遥佑は考えた。「俺の今大事にしている物は別荘、車、後は遊ぶための女。駄目だ。これじゃぁ、今までと何ら変わりがないじゃないかあ。もっと、世界に貢献するような人が涙を流して喜ぶような物。そうだ。俺の会社は、福祉だ。ちゃんと世間に貢献してる。でも待て、あれを実際に運営しているのは専務の一条だ。俺じゃない。じゃぁ、何があるんだ。」遥佑は、中々大切なものが浮かばなかった。二日経ち、彼は誰かに聞く事にした。「分からない事は誰かに聞く。これ基本中の基本だよ。」まず、身近にいる人間からと和田看護師に聞いてみた。彼女はこう言った。「私にとっての大事な物はもちろん子どもですよ。」いとも簡単に言い切った。「お前子持ちか。」てっきり、独り者のやりまんだと思っていた遥佑は、面喰って大事な事を聞きそびれた。

とはいえ、あどけない顔をして複数の子供がいるなんて話は昭和の時代からよくある話だ。自分がいかに舞い上がっていたか証明されたという事だ。「そうか、そうだよな。子供がいれば当然その子を思う母親の心情ってやつだな。もしかすると人によって大切な物は違うのかもしれないな。だとすると人に聞くまでも無い。自分の事だ。自分で考えるか。」遥佑は再び、ベッドに横になり思考を始める。


 「俺にとっては、家族と言っても親父とおふくろ、兄貴。」首を振り、「どうでもいいやつばかりだ。」親父は、自分の事ばかり考えておふくろと俺ら兄弟をないがしろにした。毎日のように銀座通い。帰ったかと思ったらクラブの女をつれこんで家でセックス三昧。おふくろも罪は無いが親父に触発されたのか、不倫に走って家に帰らない。兄貴も兄貴だ。くそ親父に媚振って自分だけ海外に会社を立てて日本に一度も帰ってこない。俺が雇ってくれと頼んでも知らないの一点張り。おかげで俺が親父の会社を継がなきゃいけない羽目になった。どいつもこいつも人間の屑だ。それが大切なものに当たる訳がない。「じゃぁ、何だ。俺の命か。俺にとって俺の命は大切なものだ。そうだ、それだ。」口元が緩みにやけ顔になった「待てよ。それってなんかむなしくないか。こんなに頑張って生きて来て、得た物が生まれた時の命だけって。そんな、小さな物しか俺にはないのか。俺は大金持ちだ。小市民みたいに命あっての何て考える人間じゃないぞ。きっと、見えないだけだ。俺には、もっと大きな人には手に出来ないような大切なものがある。」何度も思考を繰り返すうちに、自分の考えている事に意味を感じなくなっていった。大切な物を探して俺はどうしたいんだ。彼は深い思考に落ちた。無の中から得られる考えを一生懸命に探した。


 手術当日。「これから手術台に載りますからね。」聞いた事のない看護師の声が聞こえたかと思うと眠りに落ちた。今回、腫瘍の大きい部分の切除が行われ、放射線はその後となる。まだ30代で体力的にもしっかりしている事が理由らしい。今回の手術に関して、予定を3時間も超過し、大手術となった。眠りに落ちている遥佑はそんな時間も萱の外だった。

あれから、思考を重ねたが、大切な物を自分がどうしたいのかは分からないままだった。。微睡みの中で遥佑は地平線をめがけて泳いでいた。必ず自分には見つかると幾ら泳いでも見えない陸を探した。腕がもう上がらない。足が動かない。もうここまででいい。陸なんかないんだ。前も後ろも海水に包まれた地球。今の時代には陸などない。海だけが只広がっている。俺は溺れて死ぬのか。もしかしたら足が届くか。「ごほっ。」届かない。駄目だ。溺死だ。誰か、助けてくれ。

 目を開こうとした時、「目を覚まされましたね。手術は成功ですが、これから放射線治療に頑張りましょう。」見たくも無い西木野医師の顔が近くにあった。「近いよ。」心の呟きを咀嚼しながら遥佑は目を覚ました。


 「俺はもしかするといつまでも尽きることのない堂々巡りの中にいるのか?大切なものを探しているうちに現実の大事なものを見失ってしまっているのか。」手術室から、高い料金を払って借りている特別室に戻ると遥佑はベッドから見上げた病室の白い天井に自分の今を投影していた。「この白い天井が物語っている。何もないところには何も有りはしない。俺はやり方はどうあれ形あるものを作ってきたんだ。それには俺の命が入り込んでいる。良いか悪いかは他人に決めさせるものじゃない。自分がそれで良しとした物は良い物であって大切にしなきゃいけないんだ。それが俺にとっての大切な物になるんだ。そうだ、探すんじゃない、見つける事だ。俺にはたくさんの大切な物があるはずだ。」そう考え、過去をこの機会に振り返る事にした。生まれた場所、東京から。 遥佑は生まれた時から恵まれた環境にあった。父親の格巳(かくみ)は腕一本で今の建設会社の前身である工務店を立ち上げ職人3人で東京で一番の工務店にのし上がった。技量、人格、才能とも周りとはかけ離れた能力を発揮した。使う職人もずば抜けた技術を要し何度かのヘッドハンティングにも団結心で乗り越えて来た。最初は知り合い、ご近所から始めた事業も何時しか国の委託事業を請け負うまでになった。


 当然、遥佑の家庭は裕福で、お金持ちのボンボンと呼ばれていた。気に入らない事に対しても、父親を鼻にかけ学校関係者への根回しをするなど抜け目がなかった。父親が息子達二人を溺愛していたことが理由にある。仕事で帰れない日々が続いたが息子達を思う気持ちは母親以上だった。然し、それが逆に息子達の反感を買う。中学あたりから兄の翔が悪い友達と遊びまわって家に帰らなくなり、父、格巳は初めて手を挙げた。その時から、翔は海外の会社へと思いを馳せるようになった。


 遥佑は、頭がいいというか要領がいい子供で自分に被害が及ばないよう用心を重ねていった。父親はそんな性格の遥佑を嫌っていたが、兄が海外へと思いを馳せた為、次男の遥佑に期待せざるを得なかった。然し、格巳の考える経営方法は遥佑には荷が重く、要領よく自分に負担のかから無い経営方法を格巳は煙たがっている。


 父は兄が海外へ行ってしまった頃から銀座通いが激しくなった。最初は遊んで帰るだけだった。然し、のめり込んでいくうち家も外も見境がなくなり母がいるのに女を連れ込み母子の目の前で情事に耽る様になった。遥佑はそんな姿を見る事に嫌気がさし、母と一緒に家を出てマンションを借りた。然し、その母も父と同じように年齢関係なく男を連れ込み何時しか遥佑を置いてどこかに消えてしまった。兄と連絡を取り、家の様子を伝えると兄のポケットマネーから住まいを維持する為の生活費を送ってくれた。 


 格巳は、突然会社を引退すると言いだし、海外で成功している兄では無く、遥佑を社長にすると言いだした。「自分にはできない。」と何度言っても父は拳を振り上げ自分の思い通りに2代目の椅子に座らせた。今までいた職人たちは既に父の会社は終わったと考え、ヘッドハンティングの誘いに乗って、今もライバル会社で職人を続けている。


 残された遥佑は何もできないまま、父、格巳が連れて来た御田原(おだわら)と言う経営のプロが遥佑の横に居座り実質その御田原が、会社を動かす形で今の全国展開がある。遥佑は、父親の名前を活かす目的としてトップの地位にあった。お飾り社長だ。「誰が何と言おうが俺は経営者だ。とやかく言うやつは跳ねればいい。」その思いとは裏腹にいつ自分が会社を追われても経営に露ほどにも困ることがないことは自覚している

 「会社は親父の創作物だ。俺には関係がない。その仕事の利益で買った別荘や車も元を辿れば親父だ。じゃぁ何がある?俺自身の作り上げた栄光ある大切なもの。」彼の自己に対するストイシズムは周囲の喧騒をよそに自らの半生を振り返ることに止まない。ストイックとは虚栄心のない個人主義者に現れる。外界をシャットダウンし内なる本能に燃える。彼は常に自分の中に自らを立たせた。


 「俺には女がいっぱいいる。其奴らは俺にとってどうなんだ。まてよ、あの看護師のように全員が全員同じ事を思っているわけがない。中には、いや、他の女はきっと俺に惚れてる。俺なしでは生きていけないと思っているに違いない。現に誘えば必ずついてくるじゃないか。」遥佑の自己陶酔は手術の痛みを緩和するほどだ。

「いや待て。やつらのうち一人も見舞いに来ないじゃないか。」心は気が気じゃない。「あっ、そうだ。まだ誰にも入院のこと言ってない。あはは、俺はなんて抜けてるんだ。そうだ連絡しよう。ええっとスマホはどこだ。」ベッドの枕の下に隠し持っているiPhoneの最新モデルを取り出し画面をタップし電話アプリを開くとほぼ飲食業界の人物達が現れる。「どれにしようかな?未夢(みむ)に当たった。」スマホをタップする。「スピーカーはまずいから。こんな時のために。ブルートゥースを繋げて。」ワイヤレスのイヤフォンで会話をしようとしたその時、「和丘さん、尿の量を見せてくださいね。」と和田看護師が突如現れた。慌てふためき何とかスマホを枕下に耳のイヤホンを布団の中で両手に握って隠した。和田は、抵抗もなく導尿バッグを指で摘み「順調ですね。」と囁いた。

手術後、遥佑の尿路に管が入れられている。寝ながら用が足せることにはいたれりつくせりだが、大便はかなり恥ずかしくずっと我慢をしている。然し、看護師は来るたびに「おむつしてますから我慢せずにしてください。」と言うセリフに遥佑のナイーブさは崩壊しそうだ。。和田看護師が遥佑の隠していたスマホに気付いた。「それ、駄目ですよ。病院内は。」遥佑は何故わかったのかが分からず枕あたりを左手で触ると、スマホの半分が枕からはみ出ていた。「いや、これは置いてるだけだよ。スマホは個人情報が入っている大事なものだろ。家に置いとけ無くて。其れに独身だから預けられないから。」自分では完璧な言い訳で多分和田はそういうことだと思い込んだだろうと思った。しかし、丁度その時スマホは通話中の画面表示だった。


 「それにしてもスマホを取りあげるなんてやりすぎだろう。」和田看護師は私が管理すると言いながら和丘のスマホを取り上げた。「彼奴はは意外と俺に気があるのかもな。」遥佑は懲りるという言葉を知らない。


 世の中で一番怖いものは「孤独と死だ。」死というものを考えた時、そのものに恐怖があるかと問えばそれはないと言えるだろう。それに付随するもの、たとえば息が絶えるときの苦しみ。然し、其れは生きている状態のときだけと考えられる。死者は、生有るもののようには息をしないというのが前提だが。また、今まで話していた誰かと永遠にお別れとなる。死体が生きている人の考える骨という物体であることを前提とするが。もう一つ言えば焼かれる恐怖も皮膚感覚がないとするならばどうであろうか?死に恐怖はつきものではなくなる。死に恐怖を感じるのは生きているからと言える。死はその後のことだ。孤独は一人では感じず、集団の中で生じる。田舎よりも都会で強い孤独感を味わうのだ。死と孤独は自己の感覚という面で似ているのかもしれない。遥佑も孤独と死から逃げようと必死なのだ。

 だからよってくる人間はどんな人だろうと拒むことがない。お金持ちのぼんぼんであることから嫉妬されても其れは相手に個性も自信もないからだと思って「可愛そうなやつだ」と金を渡すこともある。本心かどうかはわからないが媚を降るように「有難う御座いました。」と感謝される。「俺の創作物には俺自身も含まれることになるなぁ。俺の大切なものは俺自身。それなら考えやすい。」そうして彼の大切なもの探しは続いた。「俺の体の何処が大切か。そりゃぁ。」と考え付いたのは自らの全てだった。「簡単すぎる。どうしよう。そうだ、一番大切なものにするか。」こうして遥佑は一番大切なもの探しにシフトチェンジした。


「それでは抗癌剤治療を始めます。」西木野医師がAIのような無機質さで遥佑に語り掛ける。彼としては精一杯の優しい声かけだろう。「なんか馴染めない男だな。」人には人種があるように同じ日本人であってもひと括りにはできない。

 遥佑はレントゲン機材やМRI装置のようなものを想像した抗癌剤治療だが、飲み薬と点滴だと言われ拍子が抜けた。和田看護師がテキパキと点滴をセットすると西木野医師が「これは抗がん性抗生物質です。飲んでください。がん細胞を破壊し癌のDNA細胞が出来にくくなります。」遥佑は西木野の言われるままにコップの水で自らの一気コールの中、飲み干した。確認した西木野は「通常、数日から数週間の間に副作用があります。」遥佑は「先に言えよ。」と心でキレた。それをよそに西木野医師は「稀に1ヶ月後に副作用が出る場合が有るので、倦怠感、吐き気、便秘、頭髪が抜けたりする場合は看護師に仰ってください。じゃぁ、これで。頑張って下さい。」遥佑は頭を抱えた。「坊主だけは嫌だ」と。


慣れとは恐ろしく副作用に関して何時しか習慣として受け入れていた。順応性が高い人間であると西木野医師は、和田の報告に頷いた。吐き気が催す中でも遥佑はストイックに一番大切なもの探しを続けた。「こう身体が弱ってくると身体よりも命が大切になってくる。部分で言えば心臓だな。とすれば俺のいちばん大切なものは心臓だ。やったぁ~、堂々巡りもこれで。」ふと大学時代に講義で習った哲学を思い出した。死とは脳と身体が自分を認識できなくなったときだと言っていた。詰まり心臓が動いていても俺が俺でなくなったら俺は死んでいる。だったら身体のすべてが大切になり又一番大切なものが分からなくなる。終わると思った無限ループはまた初めから回り始めた。じゃぁ、死んだらそれでもう何もかもが終わりか?こんなに頑張って生きてきて心臓一つが止まれば終わりだなんて。「何て儚いんだ。俺という一つの生命はこの地上界に素晴らしい功績を果たしてきた。その創造主が消える?そんな馬鹿なことがあるか?」自分は神だと思うことで自尊心を維持したかった。


 「絶対に俺は完治する。あのやぶ医者が駄目でも世界一の名医に頼んで直してやる。待てよ、俺は何でこんなチンケな病院にいるんだ。もっと立派な病院があっただろう。誰が入院手続きした?あっ、俺だ。周囲の連中に美女が多いと唆されたんだ。あちゃぁ。」彼はただ単に看護師とのセックスだけに期待してこの病院に入院した自分が可愛そうだと思ってやまない。

 命あっての身体、身体あっての自分それに気付いたときには癌であったのだ。正に天国と地獄の境に立つ犍陀多(かんだた)のような心境だ。「だとするとお釈迦様はあのやぶ医者か?」きっとぷつんと切れてしまうだろうと諦めた遥佑は針の山を歩く自分を想像した。「縁起でもねぇ、俺は福祉をやってるんだ、当然天国だろう。いやいやいや、俺は死なない、絶対に死にはしない。死にたくなんかない。まだ、結婚も子供も、もっとセックスもしたい。」性癖というものは死を迎えるまで変わることはないのかもしれない。


「副作用は辛くないですか?」西木野医師の機械仕掛けの声に辟易しながらも遥佑は副作用に関して何ら感じているものはなかった。日々、自らの思考と戦い疲れ果て寝てしまう。良いことなのか悪い事なのかわからず「毎日苦しくて辛いです。」はっきりと嘘をついた。いやこの場合副作用を本人が認識できていないだけで身体は悲鳴をあげているはずだ。そう遥佑の脳細胞は伝えていた。「仮に一番大切なものが見つかってそれをどうにかできて俺はそれでなにか得られるのか?失う命を取り返せるのか?そうだ、大切なもの、癌を治す方法だ。それがあれば失うものはなにもないし、今までどおりの生活ができるじゃないか。何だ、そんなことだったのか。馬鹿だなぁ、目の前のことに気が付かないなんて。まあ、うっかりするときもあるさ。」その日、西木野医師に余命3ヶ月と告げられた。「嫌だぁ、死にたくない。何とかしなければ」


 「それは抗癌剤の副作用ですね。」遥佑はこのところ口の中が爛れ食欲はあるが食べる気にならない日が続いている。

抗癌剤の副作用で起こる口内炎は一般の症状より広範囲で疼痛、摂食障害、コミュニケーション、睡眠などにも影響があり、患者の意欲低下に繋がってしまう。闘病を断念する事例もあるのだ。

 「和田くん、ケナログを。心配はありません。口内炎は抗癌剤の副作用としては当たり前に起こると言っていいほど誰もが掛かります。その分、治療薬も揃ってますから安心してください。食べることが苦痛でしたら胃ろうに変えます。遠慮なく仰って下さい。

 遥佑が胃瘻が分からないと尋ねると「要は身体に管を入れます。、胃瘻チューブと言いますがそれで流し込むんです。栄養はしっかり取れますから安心してください。」

 どうもこの西木野って医者は「安心してください。」ばかり強調したいらしい。遥佑は管から食べ物を入れられることが不快でしょうがない、「無理してでも口から食べてやる」そう思った。

それからの遥佑は食べることに執念を燃やした。ご飯、味噌汁、魚、肉、野菜。食べ終えると吐く、吐く、吐く。まるで溜め込んだ生命が失われているような錯覚に襲われ、遂に病室に入ってくるスタッフを鬼畜と錯覚していった。幻覚が始まったのだ。

 「彼奴等を追い出せ。誰かいないか、人間はどこに居る。誰か助けてくれ。食い殺される。」和田看護師から和丘遥佑の副作用による幻聴幻覚の報告を受けた西木野医師は、始まったかと頭を抱えた。痛みの緩和に少量のモルヒネが投与されている。既に遥佑には死へのカウントダウンが始まっていた。痛み緩和とはいえ遥佑の表情はモルヒネにより隈ができ、食べ物に毒が入っていると叫び受け付けないため頬もこけていった。

 外見は生気をなくしているように見える遥佑だが、生きることへの執着は健康な人よりも強い。幻聴幻覚がない日は内容物が無くなるほど吐きながら食べて食べて食べ続けた。「胃瘻になんかなるものか、口から食うんだ。」遥佑は副作用で前歯が抜け落ちているが舌を上手く使いながら奥歯で噛み砕き咀嚼した。その遥佑に新たな試練が襲う。


 「うん、これは舌癌ですね。転移です。」西木野医師は容赦しない虐待者のように遥佑に告げた。「くそう、この藪医者。もうちょっとデリカシーのある言い方はできないのか?俺はこんなに頑張ってるのにやる気を削ぐような言い方ばかりしやがって。」鈍感男の烙印が押された西木野は続けてだめを押す。「切りましょうか?」それは問われたのではなくそう決めたという言い方だった。「命には変えられませんから。」返答できない、王手が掛かった飛車取りに遥佑は為す術もないも無く了承するしかなかった。

そして舌切除手術の間の遥佑の思考は「舌を使わずどうやって奥歯で食べ物を噛むか。」だった。

その悩みは一瞬で解決した。「指使えば簡単だ。」子供であれば親に怒られる、躾破り行為だが背に腹は代えられない。箸で食物を口に入れると空いている左の人差し指でまだ歯のある奥歯に押しながら咀嚼する。「仕舞ったぁ、さっきトイレの後手を洗わなかったことを思い出した。ちっ、まあいい、塩気がついてちょうどいい塩梅だ。」なぜ記憶というものが人間にはあるのか、遥佑は人間の融通がきかない面を恨めしいとも思った。


 そんなある日、遥佑は突然腹痛を起こし口、陰茎、肛門から内容物を出した。和田看護師の片付けを隣の椅子で見守る遥佑には彼女が表面には出さない気持ち悪そうな姿に腹が立っていた。「看護師なんだから当たり前だろう。」と口をもぐもぐさせながら呟いた。「あいつには俺が何を言ってるかわからないだろうな。何せ舌がないんだから。」

 安心顔の遥佑に和田看護師が振り向きざま「聞こえてんだからね。きたねぇな。自分でやれよ。」と恫喝してきた。遥佑が呆然としているところに西木野医師が入ってきて「食中毒ですね。他の患者さんがなんにもないところを見ると免疫が下がっているようです。明日から胃瘻を始めますね。」明るい表情で去っていくあとを和田看護師が口を開けて笑ってついていった。


「ああ、なんか気持ち悪い。胸がこそばゆくて。」胃瘻チューブがつけられた遥佑は身体に穴が開いた自分の姿に失望を隠せなかった。「やっぱり手洗いはきちんとしなきゃな。」後悔先に立たずとはいえ、前向きに考える能力にはたけていたはずの遥佑が「もう一度いちばん大切なもの探しを始めて見るかな?でもなんか面倒くさいな。こんなに切り刻まれて元気になっても舌がないから喋れないし、身体に穴が開いてるからやるとき裸になったら気持ち悪がられて愛も冷めるだろうしな。ああ、なんかもうどうでも良くなっちゃったな。このまま死んでもいいかな?生き延びても幸せなんてもうないし。そろそろ死のうか。」遥佑はそのまま意識を失った。


 真っ暗な中で遥佑は独り言を続けていた。「俺は死ぬのか?なぜ目を覚ましているのに真っ暗なんだ。ここは病院のなんの部屋だろう?電気はないのか?何も見えやしない。鬱陶しいなあ。胸に冷たいものが当たると身体がそれに吸い付くように持ち上がる。電圧がショートする音が聞こえている。何か想像するとAEDだよね。生きてる人間に電気ショック与えたら死ぬでしょう。俺は生きてるの。西木野また、あほな治療してるぞ。しっかりしろよ。」「駄目だな、ええっと、午後11時23分、永眠です。」「何いってんだ、西木野、俺はこのとおり喋ってるだろ。気付け藪医者。」遥佑は生命維持装置が心停止を表示いるのに意識があることに焦りを感じた。このまま焼かれたらどうしよう。


遥佑が意識を失い家族が病院に呼ばれた。「今夜が山です。」西木野医師が、遥佑の父格巳、母完美(かんみ)、兄翔(しょう)に昏睡状態に入った報告をした。病院からの電話を受け最初に駆けつけた父の電話で母はホストクラブからタクシーで駆けつけた。兄は丁度日本に仕事の接待で帰国していた。「外国人は日本料理をゲテモノ料理と考えているから芸術料理だと分からせるためにな。」と自国のアピールで帰ったのだと日本を懐かしがった。格巳はタワーホテルで3Pの最中だったことを隠し「スーパー銭湯に浸かっていたと嘯いた。」遥佑はICUで危篤状態だが脳は覚醒しているのか何故かガラス窓を除く家族3人の本音が聞こえていた。「息子が癌で入院してるっていうのに、お袋、ホストクラブで豪遊かよ。まあ、親父からたっぷり慰謝料ふんだくったからな。俺が嘘付いて母さんが心労だってことにしたから。それよりクソ親父だ。20代のキャバクラの姉ちゃんと3Pっていくつなんだお前。80で出来るやつはそうそう居ねぇよ。俺がするべきだろう。っていうか果てたあと駆けつけやがって。」遥佑の性癖は血筋によるものだと自負したのだった。「兄貴も兄貴だ、俺が意識が戻らないのをいいことに、このあと客と夜の街に繰り出すだと。親父が紹介する店なら風俗しかねぇだろう。クソ、下半身が完全に死んでやがる。勃起せよ、3号!」「嗚呼、もう考えるの疲れたよ。っていうか意識がないからICUに来てんのに俺意識あるんじゃねぇの。ああでも待てよ。意識がない人を見たことはあっても本人がどんなことになってるかは分からない。だからこれが意識不明の状態っていうんなら傍目にはわからないけど意識あるよね。大体西木野の言うことなんて嘘ばっかだろう。鏡の向こうのオヤジたち何泣いてんの?まさか、俺が死にそうだとでも?ありえないでしょ。こんなに元気なのに。おいおい、和田まで神妙な顔してるぞ。さっきからうるせぇなぁ、警告音。延命装置壊れてっぞ。だから違うって。全然死にそうじゃないって。西木野の奴さっきから腕時計ばっか見てやがる。手当しろよ。あ、なんか言ってる。」「午後11時23分、御臨終です。」


父、母、兄の三人は涙のない鳴き声を揃えて一言「ゆうすけぇ。」と言った。次の瞬間には父格巳、母完美、兄翔は揃ってスマホを使ってどうでもいい相手に電話を掛けている。「お前ら絶対悲しんでないよな。」遂に遥佑は死亡した。「こうなると俺焼かれんだよな。」一抹の不安を抱える意識の中、自分の葬儀に期待もした。遥佑は自分の葬儀の様子を棺の中で聞いている。「なんかイメージが全然違うよな、大体死んだら透明人間みたいになって家族や恋人の前に現れたりするもんだろう。だけどなにこれ棺桶の中で真っ暗。声だけ聞いててもなあ?」実際の死人のイメージが映画のようにはならなかったことに遥佑はもう一つショックだった。「透明人間のやることできたらなあ?」いろんな女性のプライバシーを侵害してやろうとの思惑は見事に崩れ去っていた。「あああ、後は火葬場で骨になんのか。」遥佑の亡骸は泣き声のみの参列者に見送られ霊柩車とともにこじんまりとした火葬場へと旅立った。「骨になるときぐらいは鼻を啜る音聞こえるだろう。だってもう肉体が無くなるんだぞ。母親の心情としては自分の一部が無くなるようなもんだからな。」遥佑の思いは届くことはなく母の完美は久しぶりにあった親戚の叔母様連中と男談義で盛り上がっていた。「俺はなんて家族達に育てられたんだ。息子が死んでも男の話かよ。」遥佑の最後の日がやってきた。何故分かるのか?本人がそう決めたと言っておこう。もともと、死亡確認がされたところで彼は死んでいるのだ。不思議な事だが、生きている人が彼は死んだと認識すれば彼はそこに存在しない人間となる。科学的根拠に基づいた証明がされたとしてそれが果たして死んだとする彼の肉体の状態証明になるだろうか。誰がその実験内容を理論に変えるのか。生きている人間しかいない。よく考えると科学的証明や法、物理、あらゆる研究者の中に自分が死んでいる状態と呼べる人はいるだろうか?一歩下がってかつて死んでいた人が今生きている人間の中にいるだろうか?人間が死を迎えれば、生きている者のご都合主義で焼かれ骨となり墓の中で永眠していると思われている。死を証明する理論等存在するわけがないのだ。「経験がない人間。」に物事は語れない。遥佑は自分が永眠するという状態を自分で作っていく。匠が工芸品を創作していくように考え、悩み、思考錯誤しながら自分の死を形作っていく。それが人間の死である。「生きていた時代はどちらかと言うとハッピーだった。死の時代もきっとハッピー。」遥佑は永遠の眠りについた。


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死際(全編) 武内明人 @kagakujyoutatu

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