アイディール・デス・・・理想の最期(全編)
武内明人
アイディール・デス
冷たい天井をずっと眺めていた。そこにポツンと張り付いたLEDの蛍光灯。世界はこの進化した電球に注目した。長期間切れる事がない。電流を流し続ければ何時までも人間を暗闇に映し出す。青白かったその顔は彼によって色彩を帯びる事になった。まるで生気を取り戻していく死体の様に。「俺はそれとは反対だな。この鮮明に映し出す発光体は死に逝く俺の表情をなめながら血の気を奪って行ってしまう。根こそぎに。」
「♪♪・・・ただそこにいてくれるだけで同じ風に触れてくれるだけで二人の命を確認し合うだけで二人のアザーフュを感じる・・・♪♪」
令和4年10月10日体育の日。東京ミュージックオンリースタジアムに6万五千人の観客が押し寄せたグローバルアーティストオンリーフェスティバルはエンディングを水上ミャ・A(みずかみ みゃあ)が締めくくり大成功の幕引きを終えた。スタジアムから東京駅へはシャトルバスを使うと35分かかる。多くの観客がハムスター回しの様に継続するシャトルバスに吸い取られては消えていく。気の短い何百人もの人たちがタクシーを捕まえては待ち時間を守らない為の罰の様に高い運賃料を払って帰って行く。「御乗車有難うございます。どちらまで。」最近多いタクシー車内の暴行事件は稼ぎ時のこんな日にも運転手の神経をカンナ屑の様にペラペラと剥がしていく。「赤羽。」津母山龍昇(つもやま りゅしょう)25歳はライブの余韻を消さないように水上ミャ・Aの楽曲をエアポッズで聴きながら帰路についた。今日は人に取り囲まれた状況が続き一人になりたくて帰りはタクシーに乗った。ライブの本命は彼女ではなかったがエンディングを迎えた興奮と華奢な身体から放つメジャーアーティストとしてのオーラや観衆の一番大切なものを思い出させる歌声に一瞬で虜になっていた。最近のタクシーも時代に流されるようにイーパワー車に代わった。更に禁煙もあって音の無い孤独な世界に入り込みやすい空間となった。彼女の声は自分をアピールしない。楽器と同化した音の様に中枢に入り込んでくる。その間、喜怒哀楽を一度も感じない。只只心地よさだけをエンドレスに感じるのだ。ネットニュースなどでは彼女の二世説が話題になるくらい邦楽なのに洋楽に似た感覚を覚える。しかし、彼女はれっきとした日本小町だ。「この曲だ、エンディング。【アザーフェ】か。ギリシャ語で愛。人間にとって一番大切なものは愛しかないしな。漫画の泣き所は大体、愛、絡みだ。」津母山龍象はこの時、脳の片隅に置き忘れた何かを感じた。それが何なのか?今の彼には分かるはずもない。刻一刻と近づいている気配を感じているにすぎないのだから。
「へぇ、昨日のライブ行ったの。どうだった、クレイCマイク。」「チョーヤベー。でもな、ミャ・Aがもっとエモイ。」「何それ。」
龍昇は、大学を卒業できなかった。スポーツに長けていた彼は鳴り物入りで入学。1年時には周りの部員を横目に世界に向けて実績を積んで行った。ゴルフ。日本では女子ゴルファーの人気が高い。彼にとっては松山秀樹に続く事が自分の命題となっていた。実力もアマの中では限りなくプロに近い存在として雑誌にも取材された。
そんな彼の今の居場所はゴルフ用品売り場の店員。ゴルフ用品店【パット】の同僚、嵩沖(かさおき)は同じ大学ではあったが卒業している。店では先輩の龍昇だが、嵩沖とは待遇が違っていた。嵩沖の質問に水上ミャ・Aに関するデータを次々に並べる龍昇の中には既にゴルフと言う文字さえ消えているようだった。
何故彼がそうならなければならなかったか、彼はゴルファーに多いと言われる一つの症状に負けた。「イップス」スポーツなどで同じ動作を繰り返す人に多く、痙攣、震え、凍りつきが起こる。所謂、運動障害と呼ばれるものだ。局所性ジストニアに起因するとも言われている症状だ。龍昇には凍りつきが顕著に表れた。ここという勝負どころでカップから大きく外してしまう。大学2年から3年の終わりまで克服しようと必死にもがいた。然し。全ては無と化して仕舞った。練習に参加さえもさせてもらえず4年になった時、監督からレギュラー選手のキャディーの役を命じられ、自尊心が傷付けられた上にプライドが輪を掛け大学自体を去る事にした。
「今度ライブ行こうぜ。」龍昇が嵩沖の肩を軽くはたいて言うと「俺は無理。今度日本アマがあるし。」嵩沖は同じ大学でもあり矢張りゴルフ部だった。上ばかり見ていた龍昇は彼がこの店に入社した時に初めて同じ部員だったと嵩沖本人の言葉で知った。「・・・。」龍昇は筋肉の収縮を感じて返す言葉が唇の手前で徘徊する感覚を覚えた。
龍昇が、イップスを発症したのは大学2年の新人戦だった。その頃にはゴルフの技術は精度を上げている段階で出場する大会では凡ミス等考えられなかった。ボールの軌道は常に頭の中で完璧に描かれた。それに連動するスイング。パットが外れる筈がないと自信を持っていた。周囲の評価が上がれば注目も集まりプレッシャーも相当なものだった。それに負ければチョーキングと呼ばれるパフォーマンスの低下が齎される。人は自分を制御するのに二通りの方法をとる。意識する、無意識。プレッシャーによりチョーキングが起こると制御できなくなり試合に負ける。
何時もの様にグリーン上には立った。ラインもしっかり読めた。「ここでバーディー。」そう確信が出来た。並んでラウンドする他チームの選手も彼はバーディーと自分達のラインに目線を変える。距離は3メーター。その時、筋肉が収縮した。アスリートにしか分からない自らの意識とは違う緊縮が起きたのだ。ボールは大きく手前で止まった。他の選手の目が輝いた。「外した。」試合はアンダーパーで終わった。10位の成績だった。以降、何度同じ事を繰り返しただろう。終らない練習を何日続けただろう。嫌になった。結果の無い毎日に嫌気がさした。4年になってすぐにキャディーだと言われ、心が空気の様に身体から抜けていった。親の猛反対を押し切って退学した。今の店は、ゴルフ部の監督が手を差し伸べてくれた。「俺の出来る事はこんな事しかない。」そう言った監督の寂しそうな顔は今でも龍昇の抜けた心に何かを残してくれた。
「感謝の気持ちを常に描いて。」ゴルフ店の座右の銘だ。毎朝朝礼で順番にこの言葉を他の店員の前で言わされる。辟易する時もあるが悪い言葉では無いと思っていた。10月12日の仕事も終わり自宅へと急いだ。午前10時開店だが出勤時間は午前9時となっている。そこから午後8時の業務終了まで2回の30分休憩がある。龍昇の体力からすればたいしたことではない。何よりも商品を売ると言う難しさを除けば。
帰宅すると母親の古登子(ことこ)が出迎えた。「お帰りご飯、もう食べちゃった。あんた一人だから。今日は焼き肉だからコンロ出してる。肉は冷蔵庫に入ってるわよ。全部食べてよ。余るとまた明日も食べなきゃならないからね。」矢継ぎ早に言いたい事をしゃべり終えた母は、「お風呂入るから、片付けは私がやるからね。」と風呂場へと向かった。「はぁー、焼き肉なのに食欲、全然湧かない。」龍昇はそういうと冷蔵庫に肉、野菜を残したまま2階の自分の部屋へ引っ込んだ。
最初に体に異変が起きたのは10月15日の朝だ。いつものように朝起きようと溜まった疲れをはねのけたとき、背中の皮膚に違和感を感じた。それが出勤途中も続いた。「疲れがこびりついてるみたいだ。」そう思うようにして何時しか仕事に追われ忘れてしまった。その帰りの電車内で龍昇は吐き気を催し堪えきれず床に胃の内容物を吐き出した。隣にいた若い男女の表情が青ざめている事に気付きおう吐物を目で追うと真っ赤な血液だった。吐血したのだ。龍昇の表情も口の中の錆臭い味わいと共に青ざめていった。自分が怖くなった。身体全体に微かな震えが続いた。「死ぬのか、俺。」駅に着くと先ほどのカップルが駅員に何か話しかけているのが分かった。駅員は龍昇よりも電車の中が心配なのか慌てて床を確認しに行った。「悪い事をした。」と龍昇の脳は認識した。ホームから駅の外まで振り返らずただ走って逃げた。途中、何故自分が走っているのか分からなくなった。「早く部屋に帰りたい。怖い。」
家に帰りつくと母がいつもの様に食事が自分一人だと言い献立は野菜の天ぷらだと言った。すぐに風呂場へと消えてしまい吐血した事を伝える暇も無かった。母が入浴している傍で洗面所の水道水を何度も口に入れては吐き出した。鉄錆の感覚が消えるまで繰り返したかったが母に「帰ってすぐにうがいするなんて珍しいじゃない。良い子になったかな。」とからかわれたので冷蔵庫の炭酸飲料を持って自分の部屋へ上がった。ビールもあったが妙に身体に負担を掛けまいと意識が働いた。「何なんだこれ。なんで吐血?俺って癌にでもなってたの?」一人部屋にいるのに落ち着かない。誰もいない事がかえって怖い。「病院、でももしそうだったら?助からないと言われたら?死にたくない。病院に行きたくない。でも治るかも。嫌、治らないかも。行かなくちゃ、でも行きたくない。」とうとう朝まで眠れず部屋を後にし出勤するべく駅についた。乗客の視線が自分にあるような錯覚を覚える。「あいつだよ、電車内に血を吐いて逃げたやつ。」そんな声が場内アナウンスに乗って聞こえて来たような気がした。「駄目だやっぱり、村上先生のところへ行ってみようか。」村上内科・メディカル病院は龍昇の小学校時代の親友の父親が院長を務める個人病院だ。中学まではかかりつけ医だったが最近は疎遠となっている。家の近くの総合病院に母親の意向で変わったのだ。ゴルフ部時代は殆んど病院に掛る事がなかったが、ここ最近は風邪などでちょくちょく総合病院に通っている。【パット】に休みの連絡をしたがその際店長に「一日休むと10日分のつけが回って来るぞ。」と冗談交じりにおどされた。村上病院の前に立つと自動ドアが心を開けとばかりスムーズに開く。筋肉の収縮で足が動かなかった。
竦んだ足を腕で持ち上げるように意識を自分の両足に集め自動ドアを潜り医療事務の待つ受付に辿り着いた。「あっ、保険証忘れた。」龍昇はニュースの一場面を思い出していた。「これからはマイナンバーカードが保険証代わりとなるでしょう。」龍昇は自分の持ち物に頭を巡らし「確か免許証ケースに。」内ポケットからマイナンバーカードを探し当てた。然し、村上病院は、まだオンライン端末の導入はしていなかったが、病院のレイアウトで作られた個人情報記入用紙に名前と住所などを書いて事が済んだ。数分後に20代前半だと思われる女性看護師が傍に来て「今日はどうしましたか?」と尋ねて来た。「どう?」龍昇は返答に窮した。「どういえばいいのだろう?吐血して背中が痛む?もしそれで緊急手術になったら今の生活が維持できない。ライブにも行けなくなるかもしれない。そしてもし癌だったら水上ミャ・Aのライブもう見れなくなってしまう。余命を宣告されこれからの一生を病院のベットで…。」龍昇は看護師にこう答えた。「何時もの風邪みたいで。」看護師は体温計で測るよう彼を促し診察室に消えた。
ピッピッピッ、と体温計が測り終えた事を伝え龍昇は目盛りを見て驚いた。「41度2分。」生まれて初めて見る体温だった。熱っぽさを殆んど感じていなかったのに数値を見たとたん頭が重く体が焼けるように熱く感じた。「もう駄目だ、隠し切れない。本当の事を言わないと。」龍昇は先ほど消えた看護師を呼び戻そうと院内にふさわしくないほどの大きな声で「看護師さん。」と叫んだ。声の響きに医療事務の女性も彼を警戒するような目線を浴びせ、彼の元には先ほどの看護師と40代くらいの体格のいい女性看護師が駆け付けた。それでも龍昇は多少パニック状態で矢継ぎ早に今までの体の異変を喋った。「分かりました。津母山さん、落ち着いてください。」40代の方の看護師は櫻田陽(さくらだよう)とネームの入ったスタッフホルダーを首から下げていた。龍昇の背中を擦りながら宥めようと必死だった。興奮が収まるのを待ってバイタルを測りそのまま二人の看護師が龍昇の両側から腕を持ち院長の座る診察室へと誘った。診察室に入り医師の直前にある回転いすに座ると感情が絶望した。「終わりだ、もう俺は終わった。」それでも心のどこかが今この瞬間が消えてなくなることを望んでいる。ゆっくりと村上医師が診察に入る。「龍昇くん、風邪の様だって?」龍昇は頷きたいが何かが引きとめる。騒いだ時の自分の言った言葉が記憶にない。「ちょっと喉を見せて。」村上医師は舌圧子を片手に喉の腫れから見ていく。「少し腫れてるくらいだね。じゃぁ胸を見せて。」後ろにいた櫻田看護師が龍昇の上着を腹の付近から肩あたりまで引き上げる。龍昇の腹筋は未だに現役時代を彷彿させるほど見事に割れていた。村上医師は緊張をほぐす為に「今でもゴルフのトレーニングしてるのかな?」と聞きながら腹部の触診をした。龍昇は只首を横に振った。実際ジムでのトレーニングはしているがもうゴルフの為ではなくなっていた。龍昇が少し気を取られていると村上医師が当てた聴診器を何度も同じ場所に戻している事に気付いた。割れている腹筋だ。そして、「はい。良いですよ。」と言って少し首をかしげた。「吐血したんだよね。」「はい。」「んん、血圧も目立つ数値じゃないな。検査だね。明日来れる?」龍昇は戸惑いながらも承諾した。
村上病院を出る時、やましい気持ちが拭えなかった。「錯乱してしまった。」ゴルフ部で誰よりもメンタルが強いと言われのぼせ上がってしまっていた自分がどうしようもなく恥ずかしかった。家に帰ると、「今日はどうしたの?パットの店長から突然休みと言われて心配だって連絡があったわ。」古登子の言葉は胸のつかえを奥まで刺すようだった。「何時もの様に夕食作ったからと言ってほしかった。」刺された胸を撫でるように龍昇は言葉では無い気持ちを頭の中で描いた。「ちょっと風邪ひいた。病院行ったから大丈夫。心配いらない。」そう言って古登子と目を合わさないように2階へと走って上がった。掛け上がった為か息切れが激しい。「たったこれだけで?」自分が第三者にでもなった様に情けない気持ちをぶつけた。
10月18日、検査の日。村上病院の自動ドアが開くと警戒の目で龍昇を見た医療事務の女性が目に入った。その前まで自分でもわかるくらい下を向いている。「津母山さん。」と軟らかい口調で龍昇を呼んだ。検査はこちらです。と言う言葉を先読みしたが、外れた。「保険証持ってこられましたか?」そうだったと前回保険証なしで診察した事を思い出したと同時に冷たい女と言うイメージで彼女を見た自分が恥ずかしかった。検査は、吐血の原因を突き止める為、視診、再度バイタル、聴診、触診、血液採取、腹部CT,さらに、内視鏡検査も行った。朝、9時に検査が始まり、終ったのは午後4時だった。さすがの龍昇も疲れが酷い。最後の診察を受ければ「5時かぁ。」ため息が出た。「津母山さん、お待たせしました。」最初に応対してくれた若い看護師。ネームを何気なく読むと水上美耶(みずかみみや)とあった。一瞬、逡巡したが何かが分かった。「みずかみみや、水上ミャ・A?」
奇跡の瞬間だと思った龍昇だったが、病院からの帰り道で幻だったと目が覚めた。「メジャーなアーティストが看護師やる暇ないよな。」喪失感に溢れたが水上みやに興味が湧いた。「マスクで顔は分かりにくいけど露出部分は可愛い系だったな。」命にかかわる事態に遭遇した自分の心が弾んでいる事が返って気持ち悪かった。「検査結果は10日後か、又彼女に会える。それにしても病院を出てから腹が痛いな。帰って飯だ。」
自宅についた龍昇に古登子が「あんたまた仕事休んだって。パットの店長今度はそっけなかったよ。」心配そうな表情だ。龍昇は水上みやの刺激も功を奏し、今までの経緯を母古登子に全て話した。「ばかねぇ。黙っててもいつか分かるって思わなかったの。検査結果は何時?」「10日後だって。それより飯、腹が減ってる。」「今日はお粥にしなさい。丁度お婆ちゃんからさつま芋を貰ったから、芋粥作ってあげる。お婆ちゃん直伝でおいしいのよ。初めて挑戦するけど。うふっ。」古登子は目いっぱい明るくふるまった。その気持ちに龍昇も「へぇ。」と明るい声で答えた。然し、その芋粥が彼の胃袋に収まったのは茶碗三分の一だった。その夜、龍昇は激しい腹痛と共に再び吐血した。
そのまま、救急車で家から少し離れた大学病院に運ばれた。「先生、脈拍が低下しています。」「酸素を。すぐ手術に入る。」「はい。」慌ただしい軽い足音が右往左往している事が音で分かった。
そして「津母山さん、麻酔を打ちますからね、少しチクッとしますよ。」聞こえていた金属音が遠くへ去って行った。
「津母山選手、渾身のパットを今放ちました。ああっとボールはカップのはるか手前で止まりました。決めれば全米が決まっていたが矢張り駄目でした。矢張り、矢張り、矢張り。」
龍昇の意識がゆっくり現実とリンクした。「津母山さん、気分はいかがですか。」医師の声で顔も認識出来たがまだ現実の時間軸に自分がいない。医師はこう語った。「あなたは大腸が破れてしまい出血し意識を失ったんです。止血は成功しましたが出血部位に悪性の腫瘍が見つかっています。暫くここで養生してください。ご両親もこちらにいますので安心してください。」医師の顔がベット脇に立っている父了弼(りょうすけ)と母古登子は少し憔悴しているようだった。「大丈夫だからね。」と言った古登子の充血した眼球が龍昇に大変な状態だと知らせているように思えた。
大腸癌は、ステージが高いと腫瘍増大や転移、浸潤等切除が難しい。その為、化学療法が取リ入れられることが多くなっている。龍昇はステージⅢだと医師に告げられ切除手術の前にオキサリプラチン併用療法を行いその後に小さくなった腫瘍を取り除きますと言われた。「お・き・さ・り・・・?」聞いた事のない言葉に龍昇は戸惑ったが、医師は「難しい事は覚えなくて私達に任せてください。ただ、その化学療法を受ければ再発相対リスクを約20パーセント少なくすることが出来ます。大丈夫。」「さ・い・は・つ・そ・う・た・い・・・?」龍昇には自分が癌だと言う認識さえもない。少なからずゴルフでのスター街道を歩き、辞めても体を鍛えマッチョだと自負していたのだ。鉄壁の要塞が針で一突きされただけで全壊したかのように自尊心が壊れているのだ。治療法の説明がまともに分かるはずもない。医師が去った後「お父さん仕事に戻っちゃた。ごめんね。」と母古登子が傍にいてくれたが彼女も医師の説明についていけなかったと語った。「あなたが重い病気だなんて私、母親失格ね。」母の充血しきった目を見ていると「母さんのせいじゃないんだから俺の母親合格だよ。今、俺を介抱してくれてるし。」龍昇は笑顔を作ろうと口角を上げようとしたが重いどんよりとした気持ちに引っ張られ上げられなかった。母は病院に泊まるつもりで着替えなどを用意して来たらしく看護師に押し切られるまで頼みこんでいた。「じゃあお母さん帰るわね。明日一番に来るからね。欲しい物あったら看護師さんに言っておいて。」龍昇はDAPを忘れたから母に持ってきてと頼んだ。「DAP?」「音楽聴くの。」「あっ、これね。」と両方の指で耳を差した。「水上ミャ・A、一日中聞けるからまあいいか。」龍昇も自分が腹を括った事に安心した。
入院生活が始まった。古登子は病院がまだ始まっていない時間から自動ドアの前で待っていたと話した。「そと寒いんじゃない。」心配してくれる母の心配をする龍昇の優しさに泣きながら古登子は「有難う。」と言った。隣のベットのテレビからさっき急激に冷え込んだと天気予報が流れるのを聞いていた。何時より涙腺が弱くなっている古登子が余計心配になった。オキサリプラチン併用療法がすぐに始まるのかと思っていたが外来の関係で担当医師が明後日からという事になった。オキサリプラチン併用療法には後遺症が残るという弱点がある。末梢性ニューロパチという有害事象だ。末梢神経が壊れることで弱体化したり感覚が鈍化する等の症状が出る。医師の説明で初めて理解出来た言葉だ。「もう本当にゴルフは出来なくなる。」そう思うとなぜだか心が澄んだ。「やっと終われた。」
古登子が「持って来たよ。」とDAPを自分のハンドバックから出して横になっている龍昇の耳にイヤホンを当てた。本体を手に取り操作するとストレスを静かに消して行く水上ミャ・Aの【アザーフェ】が流れる。究極の苦しみを全て拭い去り心地よい愛をその楽曲は齎していた。龍昇は静かに目を閉じ楽器と一体化した彼女の声を聞いていた。そして「母さん、ありがとう。」と心の底から感謝した。
10月24日、担当医から癌手術後のリハビリについて説明があった。「手術は長時間となります。相当な体力、又精神力を使う事でしょう。術後、しばらくは安静となりますが、体力の回復が見られ次第、まずはトイレの自立歩行から始めましょう。」医師は少し間をおいて何かを考えていた。そしてこう切り出した。「全ての癌が取り除けるかは不明です。もしかすると残ってしまうかもしれません。」龍昇の脳裏に転移の文字がはっきりと浮かんだ。「然しですね津母山龍昇さん、ある研究結果があります。術後、リハビリによる筋力回復がアポトーシスを齎す事例がみられたと。」龍昇は素直にアポトーシスの意味について質問を返した。「それはね、カエルの尻尾と同じです。津母山さんもご存じだと思いますが、オタマジャクシの尻尾はいつしか消えています。つまり細胞が身体の成長という刺激によりなくなってしまう、癌細胞が自然消滅するという事です。」「自然に…。」龍昇は癌細胞は一度胎内に宿ると身体を食いつくして死に至らしめると言うイメージが強かった。「リハビリか。やるしかないし鍛えるのは大好きだ。」肩に力みが見えた龍昇に、医師は優しく声を掛けた。「鍛えると言うよりも生活の質を維持すると考えてくださいね。」生活の質はクオリティーオブライフとも言われ介護現場では当たり前の様に使われる。トイレや歩行などの自立は肉体的にも精神的にも人にとって大事な鍵となるのだ。龍昇にはまだトイレを自分でできなくなるという現実が、廊下を歩けなくなるという事実が、頭に描く事すら出来ないでいた。
オキサリプラチン併用療法の開始日が決まった。10月31日。担当医のスケジュールの関係でなかなか決まらなかった化学療法。「津母山さんは肩の力を抜いて焦らずなるべく体を休ませておいてください。前にも言いましたが療法経過後の自立した生活を頭の中から消さないようにお願いします。」医師の言葉が龍昇の思考にマッチするようになった。「廊下を繰り返し歩けばアポトーシスが起こって…。」期待と不安が龍昇の埋もれていたアスリート精神を蘇らせようとしていた。
「先生、津母山さんがまた吐血です。」「何色だ?」「鮮紅色です。」「多量出血か、こんな時に。」慌ただしく動き回る医師や看護師そして医療器具の音。そんな喧騒をよそに龍昇はまどろみの中にいた。
水上ミャ・Aライブ会場の立札の前にいた。一人の警備員が立札をもって会場へと歩いていく。「警備員さん、どうして札を片付けちゃうんですか?ぼくまだいますけど?それに僕のチケットどうなるんですか?此処にありますから入らせて下さい。」龍昇は内ポケットに入れたはずのチケットを取り出そうとしたが無い。「あれ、たしかにここに入れたのに、ズボンだったかな?うそ、無い、無い、どこにもない。どうしてないんだ。ミャ・Aが見れない。おれ死んじゃうのに見れない。くそー。」龍昇がまどろみから意識を失った。
「先生、心停止です。」
龍昇の蘇生処置は日を跨いで長時間続いた。そのかいもあり何とか一命を取り留めた。ゆっくりと龍昇はまどろみに戻った。「警備員さん、ありました、ありましたよ、ミャ・Aのチケット。これで入れますよね。・・・、だめ?どうしてだめなんですか?えっ、チケットが違う?そんな馬鹿なだって水上ミャ・Aって印字が・・・。何これ、天国逝きって、そんなぁ・・・。」「津母山さん、津母山龍昇さん、聞こえますか?」医師の問いかけに龍昇の意識はゆっくりと地についた。
龍昇の化学療法は白紙となった。癌の縮小を待つ時間が無いと判断された。繰り返す吐血により緊急手術をしないとリンパ節へ転移すれば命の保証はない。弱って行く体力に加え生きることへの意識低下。遂に嵌ってはならない自立歩行が取れない身体となってしまった。
「津母山さん、トイレ自分で行けるはずですよ、車いすに頼ってはいけませんよ。」担当看護師の必死の説得にも龍昇は覇気を無くし「死ぬんだ、俺はもう。」と全てを諦めきっていた。
「先生、津母山さん日に日に生きる気力を失っていきます。どうしたらいいでしょうか。」「癌の患者にはよくある傾向だよ、気にする事はない。アスリートだからと言って死ぬ運命を悟れば気力は無くなる。それに彼は吐血という目に見える異常を何度も経験している。」担当医は血を吐くという行為が人間の心理に大きく影響すると分かっている。「手術でどの程度まで持ちこたえる事が出来るか、余命宣告も視野に入れることにした。」
「お父さん、お母さん、私の説明をよく聞いてください。龍昇さんは、今の医療レベルでは助かる見込みはありません。私の方からは親御さんにだけ余命1ヶ月程度だとお伝えしておきます。御本人への余命宣告は御二人で十二分に話し合って頂き私のほうが必要であれば私の方から御本人に。」担当医師の淡々とした普段の会話のような重大な言葉に、龍昇の父そして母は涙涙と溢れてくるその涙を止める力を奪われた。父は「何故、何が、どうして。」と全てを心に仕舞うように叫んだ。母は涙に全身の力を吸い取られ、言葉を出すことが出来ずにいる。医師への答えは既に返されていた。
龍昇の余命を医師から宣告された父と母。悲嘆に暮れるしかない二人は本人へ伝えるべきではないと判断していた。「母さん、お医者さんなんて言ってた?」痩けた頬と瘡蓋ばかりの唇。何度綺麗に拭っても死臭が漂ってるかのような顔に戻ってしまう。「お父さんも私も疲れたら休んで下さいって。あなたは先生がちゃんと治しますって言ってたよ。」父も真実を打ち明けているかのように阿吽の呼吸で頷く。母は心の中で「嘘じゃない、それが真実なのよ。私達の耳が聞き違いを起こしてるだけ。」そう信じた。「僕さあ。」龍昇が突然力強い言葉で語り出した。「僕ね、水上ミャ・Aのライブ絶対行くんだ。」「あなた、あの娘の曲好きだもんね。」龍昇と母親の会話に交じれない父親には心に重い悲しみが乗り掛かった。居た堪れないと思った。然し、父は逃げずに二人の会話に耳を傾けたまま動こうとはしなかった。息子の事を全て知っておきたいただその一心で。「ミャ・Aに会えれば僕はもう何もいらないんだ。」母と父は感情を抑えきれず一面が水浸しになるほどの涙と嗚咽を繰り返した。静かに涙涙と流れる家族の悲愛に病室は何時しか津母山家の一室に変っていた。悲しくて悲しくて止まらないほど泣いている龍昇の眼球は乾ききって一粒の雫さへ流れていない。「父さん、母さん、言ってよ。僕は後どれくらい生きられるの?」龍昇の唐突な言葉に、男の心を見抜いた父が決断を下した。「1か月だ。」と。
龍昇の延命治療は先ず吐血防止から始まった。「体力の低下は顕著ですが今必要なことはこれ以上出血させないことです。」という担当医に納得する形で絶食とIVH薬剤投与を受け入れた。一週間もすると龍昇の頬に赤みがさすようになり容態が安定した。すると医師は「早めに悪性腫瘍を少しでも取り除きましょう。」と2日後の手術を指定した。「そんなに急がなくても」と津母山家の三人は思ったが助からないとは今でも信じられずにいたことは確かだった。
龍昇の1回目の手術が始まった。「んん、転移が広すぎるな。大腸、それから肺、膵臓はまだか。肝臓は…、だめか。胃に褐色の液体貯まりか。」大腸癌の腫瘍以上に他部位への転移が酷く全摘は不可能だった。生命線のリンパ節への転移も確認が取れた。「1ヶ月ないかもしれないな。」担当医は落胆した表情で手術を終えた。
手術を終えた担当医に一縷の希望を求めた龍昇の両親は首を振る医師に再び失意の涙を流すことになった。結果は分かっていた。然し、人間には奇跡があり希望があるそう信じて手術室の前で待っていた。なのに・・・。
「水上ミャ・A単独ライブが行われた東京ミュージックドームでは6万3000人の観客が彼女の歌声に魅了され癒しと安らぎを感じていました。1000年に一人と呼ばれる世界注目の歌姫は今後も全ての人達をその美貌と歌声で幸せにすることでしょう。」龍昇に促され母が彼の頭を横向きしてやり、病室にあるレンタルテレビの芸能ニュースを寝たきりになっている息子に見えるようにしてやる。彼はそれを食い入る様に覗きこむ。途中何度もテレビの電源を落とそうか?と思った。言葉のキーワードがいちいち胸を傷つけた。癒し、安らぎ、そして幸せ。龍昇は呼吸困難に苦しんでいるじゃないか、死への恐怖で怯えてる。後一カ月で無くす命に幸せがあろうはずが…。単なる妬みだと分かってはいる。分かってはいるが何故か許すことが出来ない気持ちが勝っていた。「芸能人が好きになっても見舞う事もないし電話一本もない。どうしてそんなに無駄な力を使おうとするのか?」理不尽な言い方だが気持ちの持って行き場が見つからなかった。龍昇に余命を伝えた父は後悔の念にさいなまれ気力を失い椅子に座ったまま項垂れていた。母はそんな男を見ながら「この人とは別れようと思った。」
龍昇はとうとうこん睡状態へと入った。父も母も担当医に「何時死んでもおかしくない状態です。心の準備をお忘れなく。」と言われこの病院に見舞いに来てから初めて声をあげて二人で泣いた。一進一退、生と死の狭間。龍昇は真っ暗な空間に宙吊りになっている自分がこの後どうなるのか?落ちて死んでしまうのか?それとも明るい世界が現れ助かるのか?知りたくてしょうがなかった。何も見えず何も聞こえず何にも触れずただ真っ暗な宇宙の様な空間に一人で浮かぶ龍昇は寂寞さと恐怖と絶望、そして諦めを認めるほかやる事を見つけられなかった。徐々に薄れていく自分という固有の認識。すぐそこにある死界という未知なる世界に彼は呑み込まれていった。
「龍昇、龍昇、今日あなたの奥さんミャ・Aちゃんの誕生日ライブが放送されるのよ。生中継だって。」母は、水上ミャ・Aのことを龍昇の奥さんに見立てた。何時か貰うはずだった彼のお嫁さんとはもう合う事はない。
何時ものようにテレビ画面に顔を向けてやる。瞼は既に開く力を失い誰の目にも見えていないことが窺われた。それでも母は龍昇の為に出来る事をまるで本能とするかの様に行ってしまう。彼の手には母の手ともう一つ涙でぬれた男の手が重なっていた。「龍昇、龍昇・・・。」父には名前のほかに彼にかける言葉が見つからない。それを考える力もない。同じ言葉の中に全ての気持ちを含ませ、ただただ龍昇の死を遠ざけてやろうとするしかなかった。
そして、龍昇は、LEDに映し出された真っ白な顔を最期に人生を閉じた。
アイディール・デス・・・理想の最期(全編) 武内明人 @kagakujyoutatu
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