芸術に取り憑かれた悪魔

ベル

プロローグ

夜の匂いは、血と汗と、そして恐怖で満ちていた。

 小学五年の少年――**九条 蓮(くじょう れん)**は、六畳間の隅で小さく息を殺していた。


 障子の向こうから響くのは、父の怒声と母のすすり泣き。

 殴打音、家具が倒れる音、そして母の「ごめんなさい」という悲鳴のような声。


 ――いつものことだ。

 殴られる母の姿を見ても、蓮は何もできなかった。父の目を見ただけで、心臓を掴まれるような恐怖に襲われる。

 けれど、その恐怖は今夜、限界を越えた。


 「……やめろ」

 声が自然に喉から漏れた。

 だがその一言で父の怒りの矛先が自分へと向かう。


 大きな影が近づく。酔った息と、革ベルトを振りかざす腕。

 頭蓋に響く鈍い音。視界が赤黒く揺れる。

 倒れ込む母の叫び。


 その瞬間、蓮の小さな手は震えながらも、台所に転がっていた出刃包丁を掴んでいた。


 ――殺さなきゃ。

 頭の奥で、冷たい声が響いた。


 次の瞬間、刃が父の腹に突き立った。

 濁った血が飛び散り、畳を黒く染める。

 父の目が驚愕に見開かれ、次の瞬間には怒りと恐怖が混じった色に変わる。


 「……あ、あぁ……」

 父は呻き声を上げ、巨体を揺らす。

 蓮は手を止めなかった。何度も、何度も、刃を突き立てた。


 やがて、音が消えた。

 重い肉の塊が、ただ床に沈んでいる。


 静寂の中で、母の息だけが荒く響いていた。

 彼女は震える手で蓮の肩に触れた。

 「……どうして、どうしてこんなことを……」


 その瞳に映るのは、恐怖と嫌悪。

 助けてもらったはずなのに、母は「怪物」を見るような目をしていた。


 胸の奥がざわつく。

 次の瞬間、蓮は無表情のまま母へと刃を向けていた。


 「……母さんも、僕をいらないんだね」


 母の悲鳴は、あまりにも短かった。


 部屋に残ったのは、冷たい肉塊と血の匂い、そして少年の静かな呼吸だけ。

 蓮は乱れた息を整え、血に濡れた包丁を新聞紙で拭い、手際よく証拠を消していった。

 まるでずっと前から練習していたかのように。


 最後に、父と母の亡骸を見下ろし、少年はゆっくりと口元を歪めた。


 「……美しい」


 初めて感じる高揚。

 恐怖でも罪悪感でもなく、胸を震わせる“完成された芸術”を前にした歓喜。


 その夜、九条蓮はただの少年ではなくなった。

 ――芸術に取り憑かれた悪魔が、生まれた。


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