望遠鏡守

わと

(上)

 地上から約600kmの周回軌道上を、テポラ宇宙望遠鏡は回っていました。

 ドッキングするために近づいていくスペースクラフトの船窓から、テポラの全容を目にして、航太は歓声を上げました。

 薄い金色の膜に包まれた円筒は、反射望遠鏡を収めた前半部と、居住空間である後半部に分かれています。二つの部分の継ぎ目からは、いくつかの関節で折れ曲がった長いロボットアームが突き出しています。

 地球の青と宇宙の黒との境目に浮かぶその金色の筒を、航太はしっかりと目に焼きつけました。

 そのテポラ宇宙望遠鏡で航太はこれから2年間、研究と設備維持のために、たったひとりで生活を送ることになっていました。


《おはよう, コウタ。今朝の調子はいかがですか?》

 身支度を整えてカプセルベッドを出ると、帯のように細長い発光ダイオードの掲示板に、さっそくテポラからの朝の挨拶が流れました。

 横長の電光掲示板上には、文字が右から左へと流れていきます。テポラの内部には、この掲示板がいたるところに設置されており、中の人間に地上の時刻やニュースを伝えるのです。

 掲示板には、テポラのメッセージもしばしば表示されます。身近に話し相手のいないオペレーターが寂しくないようにと、ほぼ一日中、テポラの「雑談」が電光掲示板の上をきらきらと無音で流れていきます。

「おはよう、テポラ。すこぶる元気だよ」

 航太は快活に言いました。テポラでの生活を始めて1ヶ月。宇宙酔いや無重力空間特有の顔のむくみも解消されて、ここでの暮らしにもやっとなじんできたところです。

 手元の端末にテキストで同じ言葉を打ち込むと、目の前の電光掲示板に即座に返事が流れました。

《それはよかったカルカッタ。今日も一日がんばりましょう♪》

 航太は思わず突っ込みました。

「テポラ、お前っておれと同い年なんだよな」

 航太は現在28歳。テポラも運用開始から28年です。宇宙に打ち上げられた精密機器にとって、これは十分に長寿と言えるでしょう。

 主鏡の口径9. 7m、居住空間を合わせた長さは47m、同じく重さは22. 5t。テポラは世界最高の分解能を持つ宇宙望遠鏡です。

 作業室の天井には、8ヵ国の国旗が円を描いて掲げられています。それは、技術的・経済的に協力してテポラを建設した国々でした。

 8ヵ国は現在もテポラを共同運用し、観測で得られたデータは世界中のあらゆる研究者に公開されています。

 円柱をくり抜いた形の作業室の壁面には、一面に計器類が取りつけられています。さらに、望遠鏡を制御するためのコンピュータと、ロボットアームの操作卓も設置されています。

 コンピュータの画面には、ダイヤモンドのように輝く若い銀河の集団が映し出されていました。テポラが現在観測中の領域です。

 観測のほとんどは、地球上から遠隔操作で行われます。航太の主な仕事は、故障の際の修理と日常点検です。

 だから、着任する際にスペースクラフトに一緒に積み込まれてきた新しいカメラや分光器を取りつけてしまうと、日々の仕事は単調になりました。

 しかし単調な日々も、これはこれで悪くはありません。航太は、主鏡の歪みの除去装置に異常がないか確認し、計器類の針が示す計測値を手元の端末に打ち込みました。

《コウタ》と、白く光る文字が視界の端に映ったため、航太が電光掲示板に目を向けると、黒い帯の上をテポラの言葉が流れました。

《コウタ, 知っていましたか? ハサミの切れ味は, アルミホイルを切ると復活するんですよ》

「…………」

 テポラは優秀な宇宙望遠鏡ですが、如何せんプログラムが30年近くも前の古いものなので、打てば響くような会話とは行かないことだけが玉に瑕です。

 それでも何十万通りかの定型文が入力されており、生活に役立つ雑学の知識も豊富なようで(航太は「なんでだよ」と内心突っ込んでいましたが)、1ヶ月経ってもテポラから同じフレーズを聞いたことはありませんでした。

 航太は2時間ほどかけてすべての点検作業を終えて、ほっと一息つきました。

 まだ昼食には早そうです。航太は、自分の研究のための観測を行うことにしました。

 観測室は、作業室の隣にある真っ暗にした小部屋です。星の座標である赤経・赤緯の目盛りを合わせると、テポラの鏡筒は自動的にその座標へと向かいます。分光器のシャッターを開き、ファインダーを覗き込めば、スリットの中には、磨いたばかりの宝石のようなくじら座のミラが輝いていました。

 「不思議なるもの」を意味するミラは、ほぼ1年のうちに2等から10等まで光の強さが大きく変わる変光星です。今は、極大に近い明るさで光り輝いています。地球の大気を通さずに見る星は、水の中から引き上げた湖底の石を見るようにくっきりと鮮明です。

 漆黒の宇宙にひとり向き合っていると、孤立した岬の突端に立つ灯台の灯台守になったような気持ちになります。

 そのさびしさに、心は限りなく澄んでいきます。

 航太は黙ってファインダーを覗きつづけ、時間が来ると一区切りつけて分光器のシャッターを閉ざしました。


 昼食を摂って休憩していたところ、コンピュータの画面上に、手紙をくわえた鳩のアイコンが点滅しました。航太がアイコンをクリックすると、ビデオ通信のウィンドウが開いて、ドクターの顔が現れました。

『やあ航太、ゆうべはいい夢を見れたかな?』

「どうもドクター、おかげさまで」

 航太とドクターの間でしばらく問診のやり取りが交わされました。

 ドクターは手元のカルテに何か書き込んで、航太に笑いかけました。

「うん、調子は良さそうだね。これなら健康チェックの頻度を週に一回に落としても大丈夫だろう」

「ありがとうございます」

「テポラとは上手くやっているかい?」

「すでに愛着が湧いてますよ。会話機能はポンコツですが、そこもかわいく思えてきました」

「人間と話しているように、声に出して返事をしたほうがいい。発声や認知の能力を衰えさせないためにね」

「わかりました」

 ドクターの健康チェックはカウンセリングも兼ねています。30分ほど雑談を続けてから、航太は接続を切りました。

 ドクターの指示を思い出して、端末にテキストメッセージを打ち込みながら、声に出してテポラに話しかけます。

「テポラ、これからトレーニングに移るよ」

《精が出ますね。ですが, がんばりすぎは禁物ですよ。過ぎたるは及ばざるが如しと言いますからね》

「おう、わかってる」

 無重力空間では、使う必要のない筋肉や骨が衰えやすいため、トレーニングが欠かせません。航太は毎日2時間、器具を使って運動します。真空シリンダーによって負荷をかけて地上でのウェイトトレーニングと同じ運動のできる器具、ゴムバンドで体を押さえつけて使うランニングマシーン、そしてペダルを漕ぐときの負荷を調節できるエアロバイク。

 航太は決められたメニューを終えると、ボディソープを含ませた濡れタオルで体を拭きました。そしてしばらく体を休めました。


 テポラに滞在するオペレーターには、家族との交信も許されています。

 航太は一日のタスクを終えると、家族にビデオ通話を掛けました。

 向こうでは航太からのビデオ通話を今や遅しと待っていたようで、すぐに繋がりました。懐かしい実家の居間に、両親、祖母、弟がそろっています。

 今日は航太の母親の誕生日。食卓には美味しそうなご馳走が並んでいました。

 航太は笑顔で「誕生日おめでとう」と言いました。両親と祖母は口々に、航太が元気か尋ねます。航太は照れくさい気持ちを覚えながら、こちらでの仕事や生活について答えました。

 名残を惜しみながら通話を切ると、急に周囲がしんとしました。

 航太は作業室をすい、と泳ぐように横切って、物資の保管室を通り過ぎ、最も奥まで行きました。

 そこは、宇宙空間に突き出したドーム型の天窓のようになっていました。正面には1枚の大きな六角形の窓があり、それを6枚の台形の窓が囲んでいます。

 窓の外には、息を飲むほど美しい地球が見えました。

 いまテポラは、昼の領域の上空を飛行しています。真っ青に晴れたインド洋に、白い雲が波頭のように立っています。

 テポラに着任してはじめて地球を外側から見たときは、言葉に言いあらわせないほどの美しさに涙が流れました。それから何度もこの光景を目にしていますが、感動は決して薄れることなく、変わらず心に熱いものがこみ上げてきます。

 テポラの軌道周期は98分。しばらく待っていると、テポラが朝と夜の境界を越えました。

 真っ黒な地上に、光の蜘蛛の巣がさっと広がります。リングのような大気の層が、淡い真珠の色に光って地球を包んでいます。

 航太は窓に顔を寄せました。

 一際明るい光の集まりが、航太の生まれた都市でした。そこには先ほど通信していた航太の家族がいて、いまも楽しい夜を過ごしているはずです。ケーキを食べながらビデオ通話のことを思い出して、「航太が元気そうで良かった」なんて話しているかもしれません。

 航太はほんのわずかの間、目元をきつく押さえてじっと動かずにいました。

 テポラが再び朝の領域の上空に入ると、航太は作業室へと戻りました。そして、作業日誌をつけてから、カプセルベッドに入りました。

《おやすみ, コウタ。いい夢を》

 目の端にそんな言葉がきらきらと光って消えました。

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