第6話 中也と心平

 この図書館は、勉強したり調べものをしてレポートを書いたりするスペースと、単純に読書するスペースとが分かれていた。近くに大学が二つあって、そういう学生が多いからという配慮なのだろう。とても良いことだと思っていた。読んでいる横で、ガサガサ、カリカリと音を立てられるのは、没頭して読みたい者にはとても邪魔だから。ここはただ読むだけの人のエリアです、と決められているのは嬉しかった。でも、そのために、もともとほとんど姿を見ない男子高校生は、読書スペースではいよいよ皆無という状態だった。たまにいるとしたら、僕か朴。それで気づいていないわけが無かった。でも、僕らは、決して近い場所には座らなかった。なんというか、二人っきりの男子と女子がわざわざ対角線に座るみたいに、いや、そんなにあからさまに距離を取ったりはしないんだけど、なるべく離れて、お互いの視界に入らないように座るみたいな、暗黙の了解があるような気がしていた。少なくとも、僕は意識的にそうしていた。ただ、それは、相手を敬遠しているというほどのことではなく、こんなに広いスペースに二人しかいない男子高校生が、わざわざ仲良しみたいに傍に座ることは無いだろうというくらいの気分だった。よくわからないことなんだけど、「僕らは互いに相手を知らない、全然関係の無い人同士なんですよ。」と、広く周囲に知らせておきたい、みたいな、おかしな感覚が、僕の中にはあった。そして、僕の行動からそれを察知したのか、同じことを感じていたのか、彼もいつも僕とは一定の距離を保って座っていた。

「意識してたよな、お互い。」

 朴は、ちょっと照れ臭そうにそう言った。

「何だろうね。あいつと、ああ、ごめん。あの子と僕とは、無関係、全然別だし、みたいな自己主張してたよね。なんか、周りに。」

「あいつ、でいいよ。」

 あの子、とわざわざ言い換えた僕の訂正を、朴は、ふ、と笑いながら受け留めてそう言った。そして、

「そうだよね。でさ、なのに、お互い、先に来てても絶対に真ん中には座らないのな。俺たち。」

と、とても嬉しそうに言った。

 そうなんだ。もう習慣になってしまっているけれど、僕も、朴よりも先に来たら、真ん中のエリアを避けて座った。後から来た朴が、ちゃんと離れて座れるように。なんか、それが触れ合わない僕らのマナーみたいな感じだった。あいつが来るかもしれないしな、と、とても自然に気を配っていた。毎回僕と彼とがここで一緒になるなんてことも無かったのに。そして、僕が彼よりも後にやって来た時も、朴は僕と同じように、というか、僕よりもはっきりと、縁の方の席に座っているのだった。ただ、それが僕と同じ理由によるものなのかは、分からないでいた。

「僕は、もしかしたら、端っこが好きなのかなとも思ってた。」

「ん~、まぁ、それもある。本を持って来るのに便利だし。」

「そっか。僕はほんとは、真ん中が好きかな。端っこは、なんか、挟まってるみたいでさ。」

「挟まってる?」

「追い詰められてる、というか。」

「ふうん。」

 朴は、また少し嬉しそうに笑った。

「なに?」

「面白いね。藤井君。」

「君、付けなくていいよ。」

 あいつと呼んでいいなら、そこは当然そうなる。

「ん~、馴れ馴れしいみたいな気がするけど、じゃ、それで。」

 少しずつ、相手と近寄る。なんかこの感覚、いいな。

「で、僕が面白い?」

「うん。壁なんか無いのに、挟まってるみたいとか。」

「おかしいかな。」

「ううん。でも、僕には無かった感覚。」

 両側に三つずつあるベンチだが、そこに座っている者は他に無く、がらんとしたその空間は、普通の声で話したらやけに声が響くので、僕らは、誰もいないけれど、僕らの会話が誰かの耳に筒抜けに届いてしまうのを恥ずかしがるみたいに、とても静かな声で話していた。声帯をあまり響かせないように、みたいな話し方で言葉を交わしているのは、何だか新鮮な、懐かしいような感じだった。あの、小さい頃に父親のパソコンデスクの下に作った秘密の基地に、誰か他の子供と共に潜んで、そこでひそひそ話をしている感じだった。それが変に心地よかった。僕は、大きな声が飛び交う教室よりも、やっぱりここが、こんなことが起こるこんな場所が自分は好きなんだろうなと、話しながらそんなことも思っていた。

「でさ、」

 僕は正直に訊いた。

「何で今日は話しかけようと思ったの。」

 僕の中に、春から頻繁に見かける彼に対して、どんな奴なんだろうという関心が無かったとは言わない。けれども、僕の方から話しかけることは、多分、絶対に無かったろうと思う。彼がどんな奴かわからないし、僕のことをおかしな奴だと思われたら、この先、ここでこいつの姿を見るたびに嫌な気持ちがすることになるんだろうし。何より、どんな奴なのか知ったところで、ふうん、と呟いて終わりじゃないか。別に、こんなところで新しい友達を見つけようなんて、全然思ってないんだから。

「ん~。何で話しかけたかってのは、まず、花見てる姿が可愛くってさ。」

 はん?

「いや、正直、そう思ったんだよ。何かさ、子猫かなんか見てるみたいに花壇を見てたから。ああ、こいつ、絶対に嫌な奴じゃないよな。話しかけても、変な顔したりしないよなって。」

「子猫?」

「うん。」

 朴は、自分が思いついたその喩えに自分で噴き出すようにして言った。

「なんか、自然とそんな表現が浮かんだ。なんか、しゃがんで、猫の頭撫でてやるみたいに、大事そうに見てたから。俺、そんな風に花壇見てる奴、初めて見たもん。」

「ふうん。猫ねぇ。」

確かに、僕の心の中はそんな感覚だったのかもしれない。

「あと、・・・単純に、話してみたかったから。」

「なんで?」

「訊いてみたくてさ。」

「何を。」

「何読んでるのかって。」

「知りたいの、それ。」

「うん。」

「でも、そんなん、見てたらだいたいわかるじゃん。棚のどの辺から持って来てるかとか。なんなら、横通りながら、ちらっと見るとか。」

「そんな偵察みたいなこと、やだよ。」

 偵察、と言う時、朴は笑った。よく笑う奴だ。僕もその言葉に同じように笑った。確かに、偵察は嫌だな。

「詩集んとこにさ、いるじゃん、たまに。」

「うん。」

「それが気になってさ。」

「へぇ。」

「あんまりいないでしょ、詩が好きな人って。男で。高校生で。」

「まぁ、いるかも知れないけど、少ないよね、多分。」

「本読む奴には、いろんな奴がいるかもしれないけど、詩を読む子は、嫌な奴じゃないんじゃないかなって。そういう奴って、どんなこと喋るんだろうって、そう思ってさ。だいぶ前から、話しかけてみようかなって、うずうずしてた。」

「うずうず?」

 今度は僕が笑った。なんて言うんだろう、僕らは会話しながら、お互いの言葉の選択を楽しんでいた。

「うん。でも、やっぱ、照れ臭いじゃん。はぁん?って顔されたらどうしようかとか思うしさ。」

 この子でも、躊躇うんだ。

「けど、さっき、猫撫でるみたいに花見てるの見て、今だ、って。」

 いまだ、と言いながら、ガッツポーズをするみたいに握った右手を小さく振った。僕は、子猫の頭を撫でてやるみたいにかがんで花を見ている自分の姿を思い浮かべてみた。確かに、そんな風に見える奴になら、僕も話しかけられるかも知れないと思った。

 それにしても、朴は一つ一つ、本当に楽しそうに話す。それを見て、僕も少しずつ楽しい気分になる。そうして打ち解ける気持ちには、朴のずけずけと押して来る質問の連続も、全然不快に感じなかった。

「でさ、誰の詩が好き?」

 朴が尋ねた。

 僕は、草野心平の名を言った。朴は、「その人、初耳。」と言った。そっちは?と、僕も訊いた。朴は、「ベタだけど、」と照れながら中也の名を挙げた。春日狂想というのが好きなんだと言った。僕は、その詩を知らなかった。

「中、入ろうか。」

 朴が誘い、僕らは閲覧室に入って、一緒に詩集のコーナーに進んだ。

「この人かぁ。」

 そう言って朴が、心平の詩集を棚から抜いた。代表的な詩集の最初に載せられている作品だから、その本も、初めのページをめくるとすぐに、「秋の夜の会話」が現れた。しばらく眺めて、朴は、

「いいね。」

と呟いた。

「いいっしょ。中学の時、それと、その次のと、その最初の二つにガーンとやられてしまった。」

 僕は横に立ちながら、ページを見つめている朴が語りだしの、るるり、りりり、という言葉からその先を追って行くのを感じながら、彼の反応を待っていた。

「ふうん。いいな。」

詩について語るところから出会いが始まる。いきなりラインのIDを交換するやり方とは全然違った。僕は、その、単純だけど決定的に異なるそのことだけで、何だかすごく嬉しかった。人と人がこんな風に知り合える。こんな素敵なことがあるんだと、とても幸せな気分でいた。既に僕は、朴ともっともっとたくさん話したいと感じていた。あの子に声をかけてみようと勇気を出した朴の気持ちが、さっきよりもずっと分かるような気がした。

「春日狂想って、どんなの。」

と、僕は朴に訊いた。えっとね、と言いながら、朴は少し棚の本の並びを眺めて考えてから一冊、引き抜いた。中也は人気のある詩人だから、彼の詩を収めた本は何冊もある。その中から彼が選んだのは、写真なんかはほとんど載っていなくて、でも各詩の下にびっしりとそれが詠われた時の状況なんかの解説が記されているシリーズの、中也を取り上げた一冊だった。僕も、このシリーズは好きだった。少し考えてから朴がそれを選んだことも、僕には心地よかった。

 ぱらぱらとページをめくってから、すぐに朴は、はい、と言って開いたページを差し出した。詩集の中から一つの作品を見つけ出すのって、結構手間がかかる。中也の作品は多いから、余計にそうなんだと思う。でもすぐにそこを開いた仕草から、朴があらかじめその本のどの辺にその作品が載せられているのか、覚えているのだとわかった。そうなんだ。何度も何度も見るから、覚えてるんだ。覚えちゃうんだ。


愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。


 冒頭の二行のインパクトが、凄かった。なんだこれ。そう思った。心平の詩を初めて見た時の感覚が、僕の中によみがえった。


  愛するものが死んだ時には、

  それより他に、方法がない。


  けれどもそれでも、業(?)が深くて、

  なほもながらふことともなつたら、


  奉仕の気持に、なることなんです。

  奉仕の気持に、なることなんです。


  愛するものは、死んだのですから、

  たしかにそれは、死んだのですから、


  もはやどうにも、ならぬのですから、

  そのもののために、そのもののために、


  奉仕の気持に、ならなけあならない。

  奉仕の気持に、ならなけあならない。

      ・

      ・

  奉仕の気持になりにはなつたが、

  さて格別の、ことも出来ない。


  そこで以前(せん)より、本なら熟読。

  そこで以前(せん)より、人には丁寧。

      ・

      ・

  神社の日向を、ゆるゆる歩み、

  知人に遇へば、につこり致し、

      ・

      ・

  飴売爺々と、仲よしになり、

      ・

      ・

  まぶしくなつたら、日陰に這入り、

      ・

      ・

  参詣人等もぞろぞろ歩き、

  わたしは、なんにも腹が立たない。


     《まことに人生、一瞬の夢

      ゴム風船の、美しさかな。》


 七ページにわたる、長い詩だった。最後の二行は、やけくそみたいに悲しくて、


  ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――

  テムポ正しく、握手をしませう。


 そう言って終わっていた。

「うわぁ。」

 読み終わって、僕は思わずそんな溜息みたいな声を出した。

「どう?」

と、朴が訊いた。

 僕は朴の目を見て答えた。これを教えてくれた朴に感謝する気持ちを、ちゃんと伝えようと思った。

「すごいわ、これ。」

 朴は、とても嬉しそうに笑った。

「っしょ?」

 僕は、教科書で習った人魚とか浜辺のボタンとかの作品と、図書館で拾い読みした、ゆあーんゆよーんとか、汚れつちまった悲しみにとか、その辺ですっかり中也に対する関心を失っていた。全然心惹かれなかったんだ。僕はそれを正直に話した。その上で、

「でも、これは、来た。すっごい、来た。」

と言った。一番適切な感想だと思った。

「っしょ。」

 朴はもう一度そう繰り返し、

「中也、いいよ。ほんと。時々、凄くいい。」

と、僕を説得するみたいに何度か頷いた。

「これ借りて、読み直してみる。」

 僕は手に持っている本を朴に示した。僕は中也についてよく知らなかったのかもしれない。なのに、ついさっき朴に、ずっと詰まらない詩人だと思っていたと口にしたことを申し訳なく感じていた。いや、恥ずかしく感じていた。

「じゃぁ、僕は、こっちを借りてく。」

 朴は、一度棚に返していた心平の詩集を取ろうとした。僕はそれを止めて言った。

「あ、だったら、こっちで。」

 朴が渡してくれた中也の本と同じシリーズに、草野心平も収められているものがあった。僕はそれを取って、朴に渡した。

「このシリーズ、僕も、ダントツで一番だと思う。」

「あ、やっぱり?そうだよね。」

 朴は嬉しそうに答えて、受け取った。

 僕らは、そのままカウンターに行って、貸し出しの手続きをした。その後はどうしようかと思ったけれど、もう一度ロビーに座って話すのも、何だかなと思った。そこは、そんなに何度も座り直して話す場所じゃない。書棚の間の通路は長話するところじゃないし、借りた詩集を閲覧室で読むのも、お互いに相手の様子が気になってしまう気がした。誰かが読みたい本を読む時には、その人が一人で落ち着いて読むことを邪魔してはいけない。その紳士協定は大切だ。お互いが近くにいたら、それぞれ薦めたものを相手が気に入ってくれているか、どうしても気になる。

 だから、結局、こう言った。

「じゃ、僕は、今日はこのまま帰る。」

「そっか。」

 朴はあっさりとそう答えた。でも、それだけで、僕が感じていることを全てわかってくれている感じがした。

「じゃ、僕は、残ってここで読んでく。」

「そっか。」

 朴と同じ言葉を答えながら、僕は、多分彼はそう言うだろうと、自分は予想していたなと思った。二人同時に背中を向け合うことは無い。一人が去るなら、一人は残れば良い。何だろう、お互いの心の中が自然と響き合っているみたいなそんな実感が、やけに心地よかった。

 自分はここに残ると決めたのに、朴は、一度図書館を出て、僕が自転車を置いた駐輪場まで一緒に来てくれた。声かけてくれてありがとう。うん、話しかけて、ほんとによかった。そんなことを話しながら歩いた。

「でも、本当は結構心臓ばくばくしてた。」

 朴はそう言って笑った。でも、それ実行するとこが凄い。僕には絶対に出来ない。僕は彼の行動力を、率直に称賛した。そして、そうしているうちに駐輪場にはすぐに着いた。

僕は自転車にまたがり、朴はそれを見送って、互いに軽く右手を上げながら、もう一度言葉を交わした。

「じゃ、また。」

「うん。また。」

 僕らは、そうして別れた。

 初めて言葉を交わしてから、九〇分くらい経っていた。

 自転車を漕ぎ始めて、少し行ってから振り向くと、朴はまだ見送っていて、僕らはもう一度軽く手を振り合った。ちょっと行ってもう一度振り向くと、図書館に引き返して歩く朴の後ろ姿が見えた。僕は少し安心して、駅に向かった。

 駅に着いて、僕の乗る電車が来るまでには少し時間があった。僕はホームで電車を待ちながら、ふと気づいた。

 そう言えば、僕らはラインのID交換もしていない。連絡を取り合う方法を、確認しないまま別れていた。

 けど、ま、いっか。

 どうせまた、あそこで、あいつには会える。

 またあいつと話したいな、と僕は思っていた。間違いなくあいつもそう思っているだろうと思った。

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