第2話 聖域
でも、もう一つ僕には他の子と違っていることがあった。それは、中学でも高校でも、僕は部活動をしなかったということだ。いや、正確には、中学の初めにほんの少しだけやって辞めた。部活は確かに人間関係を深めて付き合いを広げるためには有効なんだろう。だからなんだろうけど、僕の通った中学では、入学と同時に全員がどこかの部活動に所属することが義務付けられていた。その意義はわかるけれど、どうにも僕には馴染めなかった。たかが十三歳から十五歳の子供同士なのに、学年が一つ上なだけで「先輩」は絶対的に敬わなくてはならないという雰囲気が理解できなかった。三年生などは体格も違って、そういう意味では怖かったけれど、それは暴力的威圧感に過ぎなかった。人として頼りになる人もいたけれど、多くは、「先輩」という言葉の盾を、こちらの頭の上から覆いかぶせてくる人たちに見えた。そんな武具なんかを身にまとわなければ、ただの平凡な愛すべき人たちなのかもしれないのに、なんでそうなってしまうのだろうと思った。そして、多分それは、顧問の先生が上級生を絶対視することで安直に守ろうとする秩序のせいなのだろうと思った。何だか、城主が侍たちを配下に置いて庶民を抑圧する姿を見るような気がした。全ての部がそうなのではなかったのかもしれない。たまたま僕が選んだ部が市内でも上位の成績を上げ続けているところで、よりそんな圧力の強い場所に僕が飛び込んでしまっただけだったのかも知れないけれど、とにかく僕はそんな雰囲気が嫌で、入部したバドミントン部を一か月で辞めた。入部は義務化されていたけれど、一度どこかに入ってしまえば、後は退部しても次の所属先を探せと強制する規則は無かった。それには、僕は随分とほっとした。朝、廊下で上級生に会うと声を出して挨拶しなくてはならないとか、そんなルールを課している部がバド部を含めていくつかあって、そんなことの一々が、僕にはとても煩わしかった。
部活でなくても、声掛け運動と称して、毎週月曜の朝には校門のところに生徒会の役員と数名の先生が並んで、ひっきりなしに大声で、おはようございます、と叫んでいるのも、やめてもらいたかった。言いたい時に、言いたい人に言えばいいじゃん、そんなの。そうとしか思えなかった。何と言うか、そういったシステムの一つ一つが、正しいことを行おうとしているという仮面を被った嘘っぱちに感じられて不快だった。読書が好きだった僕は、そんなめんどくさいことに巻き込まれるよりは、人から離れて一人で本を読む時間が恋しかった。何かというと、準備や片づけは下級生の仕事、とかされる、そんなのも大嫌いだった。だから、同級生たちは、え、辞めちゃうのと一様に驚いていたけれど、退部届を出したその日は一日、僕はとても清々しい気分で気持ちよかった。
僕が本を好きになったのには、母が読書好きな人で、よく本を読んでいたことが影響した。小学校に入る前から、母は僕に、絵本ではなく、物語をよく読んでくれた。ずっと後になってから気づいたのだけれど、母は文章を声に出して読むのが好きだった。臨場感を出して、というよりは、言葉を一つ一つ丁寧に包み込むように語って行く、そのことを楽しんでいたように思う。絵なんか無い方が、ずっといい。それは母がいつかそう言ったのか、僕が自然とそう思うようになったのか、よくわからない。とにかく、気が付くと僕は絵のある本が嫌いになっていた。病院の待合など、児童書が並ぶ本棚の前で、僕はいつでも不満だった。何でこんなに絵本ばっかりなんだよ。なんで初めから答えが書いてあるんだよと、そんな気がして不貞腐れていた。もっと文字だけぎっしり書いてあったら良いのにと。でも、そういうところに置いてある本は、とりわけ絵が中心の本が多くて、僕はをれを抜き出して手に取る気すらしないのだった。
こんな子供、結構めんどくさい奴なのかもしれない。
そして、小学校の高学年になると、母が頻繁に買ってくる最近の話題書と、母が好んで読むので既に本棚に並んでいた、中世ヨーロッパを舞台にした歴史小説を手に取るようになった。中学校の部活動の封建的な雰囲気に嫌悪感を持ったのも、その影響だったのかもしれない。何物にも左右されないで信念を持って生きるのはかっこいい。この僕の思考は、物語の中の感覚そのままだなと思っていた。主人公になりきって、その思いに酔いしれて、俺、思い切り影響受けてんよなと自覚していた。そして多分、これは自分にとって良いことなのだろうと思っていた。そういった正義感から抑圧的な雰囲気を嫌う自分が、大人びた感じがして僕は好きだった。
部活を辞めた後、なんで辞めちゃったの、よかったらうちの部に来ない?と誘ってくれる子もいた。でも僕は、そんな時には、やりたいことが無いんだよね、ごめん、と断った。部活動の封建制が性に合わないなんていうのは、言わないでおく方が賢明なのだろうということは分かっていた。なんか、そんな理屈を言う奴は、危険な奴だと思われそうな気もした。
けれども、他人(ひと)と同じ道を行かないことの言い訳を、そんな風に取り繕いながら答えるのは、めんどくさいことだった。そして、更に面倒なことに、結構みんな、頻繁にそういったことを尋ねたがった。何で辞めちゃったの、何でやらないの。普通な感じに見える僕が、普通じゃないことをしているのが不思議なようだった。
それは、僕が花を見ているのを遠巻きに見ていた誰かが、後から、何でもない会話の間に不意にその意味を訊いて来るのと似ている。そんな風に、何気ない振りをして僕の正体を窺うみたいなのは、僕には常になんかむずむずするみたいな不快感があった。そっとしといてくれたら良いのに。なんでそう覗き見ようとするんだろう。
なんか普通じゃない感じで気になる。なんかそんな、こちらが異端者ではないのを確認しようとするような好奇心の匂い。煩わしかった。
「ねぇ、しょっちゅう校舎前の花を見てるよね。なんで?何してるの?」
そんな風に尋ねて来る。
「ほっといてくれないかなぁ。見たいから見てるんだ。」
余計なお世話なのに、こちらがそんな突き放した言葉を返せば、相手は不快そうな素振りを見せるんだろう。でも、それが本音なんだ。
僕には、ただ、こちらの心の中の普通じゃない部分を引き当てようと、こちらの隙を見てびっくりボックスの中に手を突っ込んで来るみたいに感じられる、そんなやり取りの相手をするのがめんどくさかった。分かってるよ。男の子が一人っきりで、やたらしょっちゅう同じ花壇の傍に佇んで、いつまでもじっと変わり映えのしない同じ花を見つめている。それは特異な光景に見える。そんな僕は、少し普通じゃない異様な子のようにも見える。
だろうね。うん。かも知れない。君はただ、奇妙な僕の正体を、自分だけが突き止めてやりたいような気分でいるんだよな。そんなわくわくが、君にそんなことを尋ねさせているんだよな。
ああ、めんどくせ。
「それさ、尋ねないとわかんないんだったら、訊かなくていいじゃん。」
見てて分かんない人には、説明しても分からないよ。
そんなひねくれた答を、相手の方を見向きもしないで、ぼそっと、呟くように返してもやりたかったけれど、実際には無難に答える。
「ん~、なんとなく。」
きれいだからさ、見てたら飽きないんだよね、とそんな風に優しく答えてあげても、それはそれで嘘の無い答えなんだから良いんだけれど、なんか、僕の静かな世界に不躾に踏み込んで来るそんな相手にそんな風に答えてやったら、何だか、僕の口にする、きれい、という言葉の価値が下がるような気がして、使いたくなかった。花の美しさが分かる奴なら、そんなこと、初めから僕に尋ねたりはしないんだから。きっと、相手がそういう奴だったら、ただ黙って僕の横に並んでしゃがみ込み、一緒にその花を見つめてくれているんだろうから。
「ん~、なんとなく。」
掴みどころのないぼんやりとした風情で呟く僕の心の中のそんな本音を、もし誰かが覗き見ることが出来るのだったら、こいつ相当めんどくさい奴だなと、そっと離れて行って、二度と僕の傍に近づかないに違いないだろうと思う。
別にそれで良いんだけど。
あんまり自分の正体を晒してしまうといろいろと面倒なことも起こって来そうで、僕はなるべく靄の中に隠れるように、出来ればそこで、何か不思議な奴だなくらいのポジションに座って呑気に呼吸していられることを願って答える。
ん~、なんとなく。
部活、何で辞めちゃったの?
ん~なんとなく。
そんな感じの僕だから、部活をやめて暇になったからは、放課後になると少しでも人の集団から離ていたくて、なるべく早く学校を離れ、近所の図書館に向かうようになった。
自宅に帰ってもいいけれど、毎日、日も沈まないうちから、同じ狭い空間で同じ壁に囲まれて過ごしているのは息が詰まるように感じたから。
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