あなたを呼ぶね
@nana-yorihara
第1話 描けなくなったこと
本棚の後ろを掃除しようと覗いたら、ほこりまみれになった絵の具が落ちているのを見つけた。ウルトラマリン、群青色だ。限界まで絞り出されたアルミのチューブは痛々しくへこみ、蓋の周囲にこびりついたどす黒い青はカチカチに固まっている。
もう使うことはないだろう。
私は迷うことなく、それを燃えないゴミ用の袋に捨てた。
絵を描かなくなってから、もう二年以上が経過している。描かなくなったというより、描けなくなったといったほうが正しいかもしれない。幼稚園の頃から絵が得意で、コンクールに応募したり、暇さえあればいろんなものをスケッチしたりしていたのに。
二年ほど前には、描きかけても最後まで描き上げることができなくなっていた。ぜんぶ未完成のまま、埃をかぶったゴミになってしまう。何度もそれが続いて、そのうち、描き始めることさえしなくなっていった。
「Sana」と気取った筆記体の字でサインしたスケッチブックは、もう長い間開かれることのないまま、本棚の写真集の間で眠っている。
五月になって、暑いと感じる日が増えてきた。夏本番はまだ遠いはずなのに。部屋の掃除を終えると、額にうっすら汗が滲んでいて、冷たい水が欲しくなった。
世間ではゴールデンウィークだが、飲食店で働く私は、明日も明後日も出勤だ。今日はたまたま休みだが、片付け以外に特にやることもない。
「たまには帰ろうか」と実家にメールしたら、「片付いてないから、またにして」と母からそっけない返事が来た。兄が「あんなこと」になってから、私も何となく、実家に帰りにくくなっている。
身内の間ではっきり言葉にされることもなく、「あんなこと」と呼ばれている事件は、昨年のちょうど今頃に起こった。いつものように、会社に行くために電車に乗った兄が、近くに立っていた若い女性の身体を触り、次の駅で乗客に押さえられて連行されたのだ。
「お兄ちゃんはまじめだからそんなことしないでしょ。きっと、悪い女の人にはめられたのよ」
と、警察署に向かう間、母は自分に言い聞かせるように繰り返していたが、相手はバレーボール部のスポーツバッグを肩にかけた、まだ十六歳の女の子だった。痴漢にあったショックで泣いていて、駆け付けた友達に肩をさすられていた。
母もさすがに、口唇を引き結んでいた。
「兄がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
私が代わりに頭を下げたが、相手の親御さんが許さなかったので、兄は結局、起訴されて有罪となった。執行猶予はついたようだが、新聞に名前と勤務先が載った。もちろん、すぐに解雇された。
私は大学進学時から一人暮らしをしていたので、三つ上の兄とはこの十年、ほとんど関わりがないままだった。兄は、最初の会社を二年でやめた後、資格試験の勉強のためにアルバイトをしながら実家で暮らしていた。
車の運転もできるし用心棒みたいなものだから、と母は家にお金も入れない兄を辛抱強く見守っていた。ようやく採用試験に受かり、非正規の職員として市役所に雇われてまもないころに、兄は事件を起こしたのだ。母のほうが兄の性格や日頃のことについて詳しく知っているかと思ったが、「お兄ちゃんは無口だから」というだけだった。
事件の後、兄は離れた土地のNPO法人で、農家の手伝いなどをしながら暮らしているらしい。ネットで知り合った人に紹介されたのだそうだ。最後の電話で母に伝えて、以降、番号は変更したようだ。実家には寄りつかないし、私からメールなどを送っても返事は来ない。もう完全に、他人になってしまったのかもしれない。
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