倶利伽羅峠の戦い その二

報は六波羅にも届いた。

広間の地図に針が一本、後ろへ移る。

宗盛は文を受け、胸の小石にそっと指を当てた。

文字のかすれに指が触れた瞬間、胸の奥が冷たくなる。


(……敗れた。)


目の前が少し白む。


(どうする。どこまで崩れた。どれだけ残った。……どうすればよい。)


息がうまく入らない。

筆に手を伸ばし、止まる。


(父上であれば──)


喉の奥で言葉が生まれ、胸の内で押し殺す。


(いや。比ぶるは煩悩。)


僧の声が遠くで重なり、指先がかすかに震えた。


その時、障子がわずかに開いた。


「父上……?」


若く、細い声だった。

宗盛はその響きに、はっと顔を上げた。

嫡男の清宗が立っている。

灯の陰に、まだ少年の面影を残した目があった。

その目は、不安と戸惑いを隠せていなかった。


宗盛は視線を合わせたまま、短く息を吸い、声を整えた。


「……なんでもない。」


そして、筆の横に置いた文に手をかぶせ、静かに言った。


「伝令が参ったゆえ、少し筆を取っているだけだ。」


宗盛の声は少し震えていた。

清宗は一歩踏み出しかけて止まり、

父宗盛の指の下にある紙を見て、目を伏せた。


「……では、しばらく下がります。」


障子が静かに閉まる。


宗盛は、閉じた戸の方へほんの一瞬だけ目をやった。


(……あの顔に、不安を残したままにしてしまった。)


それでも、呼び止めることはしなかった。

呼べば、声がより震える気がした。


宗盛は息を吐き、

閉じた扉の向こうにいる我が子の気配を、

ほんの一瞬だけ目で追った。


(何も見せられぬ。だが、見ていたなら、それでよい。)


沈黙の中、筆を握る。

墨が、少し滲んだ。


返す文は、いつもの不器用な言葉である。


「人をいたわれ。道を荒らすな。次の宿々にて兵糧を改むべし。」


筆先が紙に残る。

もう一言添えようとしたが、胸の内で言葉が崩れた。


(火を……いや、数を見よ。数が尽きれば、火も消える。)


点をひとつ置き、封をした。

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ゆめのあとさき Nun @Qsaku88

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