第30話 そして数年後・・・・・・
その後も、国士館高・大との抗争は、都内各地、神奈川まで飛び火し展開された。
時には、拓殖大、帝京と、喧嘩に強いと噂の大学や高校。
ブラックエンペラーの総長や士官の番長とのタイマン。
悪名高いと噂の、暴走族打越スペクターとの決闘。
その際は、士官とチョーコーがまさかの共闘で、スペクターを圧倒した。
神奈川チョーコーは、チョーコー生2人がハマの地獄族に拉致され浜辺に埋められた報復で、地獄族狩りを行い、徹底的に叩きのめした。
90年代にはいると、チョーコーと中国残留日本人の2世らを中心としたギャング集団「怒羅権」との衝突も起こった。
始まりは、チョーコー生が毎日の日課である池袋のナワバリを巡回している時の事だった。
ナワバリである池袋の某ゲーセンに、チョーコー生が立ち寄った時に、中国人グループに喧嘩を売られ、叩きのめしたら、それが「怒羅権」に所属する人間で、そこからチョーコーと怒羅権の衝突が開始された。
その池袋での衝突後、池袋の喧嘩に参加していたチョーコー生が、夜コンビニに立ち寄った際、待ち伏せていた怒羅権メンバーたちに刺されるという事件も発生。入院中にもその怒羅権のメンバーが病院に押し掛け、この対立は、大騒動に発展しそうになっていた。
だが、チョーコーOBたちなどが怒羅権との抗争に介入。
「同じ日本で苦労している者同士。争ってもしょうがない」と手打ちにもっていったのだ。
その後も、都内で傍若無人に暴れまわるチーマーたちを狩る為、暴走族の総長たちからの懇願によりチョーコーが助っ人として参加した事もあった。
それだけ、チョーコーというブランドは、不良界に名をとどろかせており、絶対ブランドだったのだ。
そうして、60年70年80年90年代とチョーコーは、様々な団体と抗争を行い続け、東京中の不良たちに「恐怖のサンペン」の威力をまざまざと見せつけてきたのだった。
何故、これだけ東京含め全国の朝鮮学校・高校が日本中で喧嘩に明け暮れたのか?
暴力という降りかかる火の粉を払いのけていたのもあるが、それらは全て、偏見・暴力という名の差別から、同じ在日コリアンそして、朝鮮学校の後輩たちを守るためでもあった。
特に、60年代から80年代までは、不良全盛期であり、校内暴力・いじめ・暴走族が社会問題になっていた時期でもあった。
日本人の若者が非常に荒れていた時期であり、その余波は朝鮮学校にも飛び火し、前にも書いたように朝鮮学校の生徒が「朝鮮人」というだけで理不尽な暴力にさらされる事件が続出したのである。
数字で言えば、警察が把握しているだけで1966年から1973年までに帝京高校、国士舘大らによる朝鮮学校襲撃事件が560回もあったのである。
ほぼ3日に1回の割合である。
討論や無抵抗でなんとかなる時代ではなかった。
だからこそ、チョーコー生たちは、同級生や今後日本社会で生活していく後輩たちの為に命がけで戦っていたのである。
誰も喧嘩などしたくない。
だが、在日コリアンそしてチョーコー生たちは、同胞が今後の日本社会で自分たちの様な差別・暴力にあわないために体を張ってきたのである。
その結果、東京中の不良・アウトローから恐怖・尊敬が入り混じった「恐怖のサンペン」として日本社会ならびにアウトロー界で燦然と君臨する存在になったのである。
だが、そんな地位を築き、隆盛を誇ったチョーコーだったが、ある時、チョーコーだけでなく、在日コリアン社会全体に暗い影を落とす出来事が起こった。
2002年9月17日、平壌で行われた日朝首脳会談で、北朝鮮側が拉致について初めて認め・言及、謝罪したのである。
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