第10話

国王アルフォンスが頭を下げた、という衝撃的な光景の後、謁見の間は、しばらくの間、水を打ったような静寂に包まれた。

やがて、我に返った側近の宰相らしき人物が、慌てて国王に駆け寄る。


「へ、陛下! おやめください! 王たる者、軽々しく頭をお下げになっては!」

「構わぬ」


国王は、宰相を片手で制すると、ゆっくりと顔を上げた。

その表情は、一国の王としての威厳を取り戻していたが、私に向ける眼差しは、依然として温かいままだった。


「聖女ミサ殿。そなたの功績に対し、我がアルトリア王国として、最大限の礼を尽くしたいと思う。何か、望むものはないか? 金銀財宝、望むがままの土地、あるいは、貴族の爵位でも構わぬぞ」

国王からの、あまりにも破格な申し出だった。


普通なら、狂喜乱舞して、何かしらの褒美をねだる場面なのだろう。

でも、私には、そんなものは何もいらなかった。


お金がたくさんあっても、使い道が分からない。

広い土地をもらっても、管理が大変そうだ。


貴族になるなんて、考えただけで鳥肌が立つ。

パーティーとか、夜会とか、面倒な人付き合いが待っているに違いない。

絶対に、嫌だ。


「い、いえ……。何も、いりません。私は、ただ、汚れているのが気になっただけで……」

私が、か細い声でそう言うと、国王は、少し困ったように眉を寄せた。


「そうか……。そなたは、欲というものがないのだな。ますます、聖女と呼ばれるにふさわしい。だが、それでは、我が国の示しがつかぬ」

ううむ、と国王は腕を組んで考え込んでしまった。


周りの大臣たちも、どうしたものか、と囁き合っている。

その時、イザベラさんが、そっと一歩前に進み出た。


「陛下。一つ、ご提案がございます」

「うむ、申してみよ」


「ミサ様は、ご覧の通り、あまり華やかな場や、公の立場に立つことをお好みにならないご様子。下手に爵位などを与えることは、かえってミサ様のご負担になってしまうやもしれません」

イザベラさんの言葉に、私は、心の中で、うんうんと激しく頷いた。


よくぞ言ってくれた、イザベラさん。

「では、どうすれば良いというのだ?」


「ミサ様には、公式な役職ではなく、『王家の賓客』として、この城に滞在していただくというのは、いかがでしょうか」

「王家の、賓客?」


「はい。ミサ様には、城内に、静かで快適な居住区画をご用意し、何不自由なくお過ごしいただく。そして、もし、この国で再び浄化の力が必要になった時、その時だけ、お力をお借りするのです。これならば、ミサ様にご負担をかけることなく、国としても、聖女様という比類なき後ろ盾を得ることができます」

イザベラさんの提案は、見事な妥協案だった。


私が、これ以上、面倒なことに巻き込まれないように、最大限に配慮してくれているのが分かる。

国王も、その提案には納得したようだった。


「なるほど……。それならば、良いかもしれぬな。ミサ殿、そなたは、それでどうだろうか?」

国王に、改めて問われる。


城に住む、というのも、少し気が引ける。

でも、貴族になったり、大勢の前に立たされたりするよりは、ずっといい。

それに、静かな場所を用意してくれる、という言葉は、とても魅力的だった。


「……はい。それでしたら……」

私が、ようやく頷くと、国王は、心から安堵したように、表情を和らげた。


「決まりだな。宰相、すぐに、ミサ殿のための部屋を用意させよ。王城で、最も静かで、陽当たりの良い部屋をだ。それから、身の回りの世話をする者も、最小限の人数で、口の堅い者を選べ」

「ははっ!」


宰相が、深々と頭を下げる。

こうして、私は、アルトアジア王国の『聖女』として、王城に住むことになってしまった。

話が、どんどん、私の望まない方向へと進んでいく。


でも、もう、流れに身を任せるしかないのかもしれない。

謁見が終わると、私は、侍女に案内されて、用意された部屋へと向かうことになった。


クラウスさんたちとは、ここで一旦、別れることになる。

「ミサ殿、何か困ったことがあったら、いつでも俺を呼んでくれ。すぐに駆けつける」


クラウスさんは、私の手を握り、真剣な目でそう言ってくれた。

「俺もだ。遠慮はいらんからな」


ゲオルグさんも、力強く頷く。

「ミサ様、本当にお疲れ様でした。まずは、ゆっくりとお休みくださいませ。また、後ほど、ご挨拶に伺いますわ」


イザベベラさんは、優雅に微笑んだ。

三人の温かい言葉に、私の不安は、少しだけ和らいだ。


案内されたのは、王城の西の塔にある、離れのような区画だった。

そこは、王族のプライベートな庭園に面していて、本当に、静かで落ち着いた場所だった。


部屋は、私が一人で使うには、広すぎるくらいだった。

天蓋付きの、ふかふかのベッド。

大きな窓からは、柔らかな陽光が差し込んでいる。


バルコニーに出ると、眼下には、手入れの行き届いた、美しい庭園が広がっていた。

色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥のさえずりが聞こえてくる。


「すごい……」

思わず、溜息が漏れた。


現実の私の、狭いアパートとは、比べ物にならない。

「ミサ様、何かご入用のものはございますか?」


控えていた侍女が、静かに尋ねてくる。

彼女は、アンナという名前で、私の専属の侍女として付けられたらしい。

年の頃は、私と同じくらいだろうか。


優しそうな、穏やかな雰囲気の人だった。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


「では、ごゆっくりお休みくださいませ。夕食の時間になりましたら、またお声がけいたします」

アンナは、そう言うと、静かにお辞儀をして、部屋から出て行った。


部屋に、一人と一匹だけが残される。

「きゅん!」


シロは、広い部屋が気に入ったのか、嬉しそうに走り回っている。

そして、ふかふかの絨毯の上に、ごろんと寝転がって、気持ちよさそうにしていた。


その姿を見ていると、私の心も、自然と和んでくる。

私は、バルコニーの椅子に腰掛けて、ぼんやりと庭園を眺めた。


本当に、夢みたいな話だ。

数日前まで、私は、ただの地味な図書館司書だったのに。

今は、ゲームの世界で、聖女様なんて呼ばれて、お城に住んでいる。


これから、どうなるんだろう。

私は、このまま、ここで静かに暮らせるのだろうか。

それとも、また、何か面倒なことに巻き込まれてしまうのだろうか。


考えても、答えは出ない。

私は、エリアーナさんにもらった、ハーブの入ったお守りを、そっと取り出した。


優しいカモミールの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。

少しだけ、心が落ち着いた気がした。

その日の夜。


豪華な夕食を部屋で済ませ、お風呂にも入って、さっぱりした。

ゲームの中なのに、お風呂の感覚までリアルに再現されているのには驚いた。


私は、寝間着代わりに用意されていた、シンプルなワンピースに着替えて、ベッドに横になった。

シロも、ベッドの足元で、すうすうと寝息を立てている。


静かで、穏やかな夜だった。

もう、このままログアウトして、眠ってしまおうか。

そう思った、その時だった。


アイテムボックスに入れておいた、あの小さな箱が、ふわりと、淡い光を放ち始めた。

そして、私にしか聞こえない、小さな声が、頭の中に響いてきた。


『……ココニ……イテ……。ワタシノ……コエガ……キコエル……?』

それは、あの地下神殿の妖精たちとは違う、もっと幼い、女の子のような声だった。


世界樹の種が、私に語りかけている。

私は、驚いて、ベッドから飛び起きた。


アイテムボックスから、光る箱を取り出す。

箱は、まるで心臓のように、とくん、とくん、と優しく脈動していた。


『チカクニ……イル……。ワタシノ……ナカマノ……ケハイガ……スル……』

仲間の、気配?


それは、一体、どういうことだろう。

『ソトヘ……。ソノ……ニワヘ……』


種の声に導かれるように、私は、バルコニーに出た。

夜の庭園は、月明かりに照らされて、昼間とは違う、幻想的な美しさを見せていた。


そして、種の光が、庭園の一角を、強く指し示しているのが分かった。

庭園の、中央付近。

ひときわ大きな、一本の古い樹が立っている場所だ。


あの樹に、何かがあるのだろうか。

私は、いてもたってもいられなくなり、シロを起こさないように、そっと部屋を抜け出した。


夜の城の中は、静まり返っている。

衛兵に見つからないか少しドキドキしながら、私は、庭園へと続く出口を探した。


幸い、私の部屋の区画は、庭園に直接出られる小さな扉があった。

忍び足で、庭園に降り立つ。


ひんやりとした夜の空気が、頬を撫でた。

草の上に降りた露が、月明かりを反射してきらきらと輝いている。


私は、種が示す方へ吸い寄せられるように歩いていった。

目的の大きな樹が、目の前に見えてきた。

それは、何百年も生きているような、立派な樫の木だった。


でも、近づいてみると、その樹が、少し元気がないことに気づいた。

葉の一部は枯れていて、幹の表面には、不自然な黒い染みが、いくつも浮かんでいる。

これも、呪いの影響なのだろうか。


私が、そう思いながら、樹の幹にそっと手を触れようとした、その瞬間だった。

樹の根元が、ぼうっと、青白い光を放った。


そして、その光の中から、ゆっくりと、半透明の人影が姿を現した。

それは、長い髪をした美しい女性の幽霊だった。


彼女は、悲しそうな目で、私をじっと見つめている。

『……アナタガ……。ワタシヲ……ヨンダノ……?』


その声はひどくか細く、今にも消えてしまいそうだった。

私は、突然のことに言葉を失って、ただ立ちすくむことしかできなかった。

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