第9話

祭壇の中央から現れたのは、星屑の魔石と同じように、淡い光を放つ小さな箱だった。

材質は、白く滑らかな石のようにも、磨き上げられた木材のようにも見える。

継ぎ目一つない、完璧な立方体だ。


その箱が、まるで私を待っていたかのように、静かにそこにあった。

「これは……一体……?」


クラウスさんが、警戒と好奇の入り混じった声で呟いた。

イザベラさんは、魔道具の専門家としての血が騒ぐのか、目を爛々と輝かせて箱を食い入るように見つめている。


「古代文明の遺物……。それも、ただのアーティファクトではなさそうですわ。これほどの清浄な力を内包している箱など、見たことがありません」

ゲオルグさんは、一歩前に出て、私を庇うように立つ。


「ミサ殿、下手に触らん方がいいかもしれん。どんな罠が仕掛けられているか分からんぞ」

彼の言うことももっともだ。

でも、不思議と、私はその箱から何の危険も感じなかった。


むしろ、温かくて、優しい気配を感じる。

まるで、箱が私を呼んでいるような、そんな気さえした。


『ダイジョウブ……。ソレハ……コノ……聖域ノ……タマシイ……。アナタニシカ……ヒラケナイ……タカラモノ……』

私の心を見透かしたように、一人の妖精が耳元で囁いた。


私にしか、開けられない?

その言葉に、私は意を決した。


「大丈夫です。怖くありませんから」

私はゲオルグさんの腕をそっと押し退け、祭壇へと一歩近づいた。


そして、ゆっくりと、その小さな箱に両手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、箱はふわりと温かい光を放ち、私の手のひらに吸い付くように収まった。


ずしりとした重みはない。

まるで、光そのものを持っているかのように軽かった。

箱には鍵穴もなければ、蓋を開けるための取っ手もない。


どうやって開けるんだろう、と私が首を傾げた、その時だった。

箱の表面に、私が浄化した祠の宝玉から現れた指輪と同じ、美しい樹木の紋章が淡く浮かび上がった。


そして、私の意思に応えるかのように、箱の上部が、すーっと静かにスライドして開いた。

中から溢れ出したのは、今まで感じたことがないほど、清浄で、生命力に満ち溢れた光だった。


箱の中に収められていたのは、一つの小さな種だった。

どんぐりのような形をしているけれど、その表面は虹色に輝き、まるで宝石のようだった。


【世界樹の種】

ランク:ゴッド

効果:???


鑑定ウィンドウに表示されたのは、そんな信じられないような名前だった。

ゴッド。神のランク。

そんなものが、このゲームに存在するなんて。


「せ、世界樹の……種……ですって……?」

後ろで、イザベラさんが、か細い、信じられないといった声を漏らした。

彼女の声は、興奮を通り越して、もはや畏怖の色を帯びている。


「そんな……。神話の中にしか存在しないはずのものが、なぜここに……」

クラウスさんもゲオルグさんも、言葉を失って、ただ呆然と私の手の中にある種を見つめていた。


『ソレコソガ……コノ……聖域ガ……マモリツヅケテキタ……サイコウノ……ヒホウ……』

妖精が、誇らしげに言った。


『大崩壊ノ……オリ……ワレラガ……始祖ノ……巫女ガ……邪神ノ……テカラ……マモリヌイタ……サイゴノ……キボウ……』

「最後の、希望……?」


私が聞き返すと、妖精は、こくりと頷いた。

『世界樹ハ……コノ……世界ノ……命ノ……ミナモト……。ソノ……タネヲ……ネザカセルコトガデキレバ……コノ……穢レタ……世界ヲ……フタタビ……キヨラカナ……スガタニ……モドスコトガデキル……』


世界を、元の姿に?

話のスケールが、大きすぎて、もはや現実感がなかった。

私は、ただの掃除好きの図書館司書なのに。


ゲームの中でまで、世界の命運を背負わされてしまうなんて。

「そんな、大事なもの、私なんかが持っていていいものじゃ……」


私が慌てて箱を返そうとすると、妖精は、ぶんぶんと首を横に振った。

『ダメ……! ソノ……タネハ……アナタヲ……アルジト……エランダ……。キヨラカナ……タマシイヲ……モツ……アナタデナケレバ……ソノ……チカラヲ……ヒキダセナイ……』


「しかし、それでは……!」

クラウスさんが、何かを言いかけた。


だが、イザベラさんが、それを手で制する。

彼女は、いつになく真剣な表情で、私を見つめていた。


「クラウス隊長、ゲオルグ副隊長。このことは、他言無用ですわ。たとえ、陛下であっても、今はまだお伝えするべきではありません」

「なっ、イザベラ殿、それはどういう……」


「考えてもみてください。神話級のアーティファクトの存在が知れ渡れば、どうなりますか? この国だけでなく、世界中の権力者たちが、これを手に入れようと動き出すでしょう。そうなれば、ミサ様は、計り知れない危険に晒されることになります」

イザベラさんの言葉に、二人は息を飲んだ。


確かに、その通りかもしれない。

この小さな種一つが、国同士の戦争の火種にさえなりかねない。


「我々は……ミサ殿を、お守りしなければならない立場だというのに……」

クラウスさんが、悔しそうに唇を噛んだ。


「その通りですわ。ですから、このことは、我々四人だけの秘密とするのです。ミサ様、よろしいですわね?」

イザベラさんは、念を押すように私に言った。


私は、こくりと頷くことしかできなかった。

手に持った、虹色に輝く種が、急に恐ろしく重いものに感じられる。


『サア……イキナサイ……。アナタノ……イクベキ……バショヘ……。ソノ……タネガ……ミチビイテクレル……』

妖精たちは、そう言うと、光の粒となって、神殿の奥へと消えていった。


残された私たちは、しばらくの間、誰一人として言葉を発することができなかった。

この地下神殿で起きた出来事は、あまりにも衝撃的すぎた。


「……そろそろ、戻りましょうか」

やがて、イザベラさんが、重い沈黙を破った。


「呪いの元凶は消え去りました。まずは、王都の民の様子を確かめなければなりません」

「……そうだな」


クラウスさんが、頷く。

私たちは、世界樹の種をアイテムボックスに厳重にしまい込み、来た道を引き返し始めた。


地下神殿から、再び地下水道へと戻る。

あれほど充満していた瘴気は、完全に消え去っていた。


じめじめとしていた空気は、どこか澄んでいるようにさえ感じられる。

汚泥の匂いも、ほとんどなくなっていた。


そして、驚いたことに、あれだけ濁っていた水路の水が、嘘のように透き通っていたのだ。

水底の石が、はっきりと見える。


「すごい……。呪いが解けただけで、ここまで変わるものなのか……」

ゲオルグさんが、感嘆の声を漏らした。


「おそらく、この地下水道の水は、先ほどの神殿の泉から流れ出ているのでしょう。呪いが解けたことで、泉の浄化の力が、ここまで届くようになったのですわ」

イザベラさんが、冷静に分析する。


私の『浄化』スキルは、ただ呪いを解いただけじゃない。

この場所の、環境そのものを、根本から改善してしまったらしい。

水が綺麗になったせいか、地下水道の中も、少し明るく感じられた。


壁を覆っていたぬめぬめとした苔は消え、代わりに、キラキラと光る、美しい苔が生え始めている。

それは、自ら淡い光を放つ『光苔』と呼ばれる種類らしかった。


その光に照らされて、水の中を、小さな魚のような生き物が泳いでいるのが見えた。

体は半透明で、銀色に輝いている。


『フェアリーシュリンプ』

鑑定すると、そんな名前が表示された。

清らかな水辺にしか生息しない、幻の生物らしい。


さっきまでの、不気味で汚い地下水道が、まるで幻想的な地下庭園のように生まれ変わっていた。

「信じられない光景だ……」


クラウスさんも、ただただ、呆然と呟く。

私は、その光景を見て、心から、綺麗になってよかった、と思っていた。


掃除をした結果、こんなに美しい場所が生まれた。

それだけで、私は満足だった。

世界樹の種のことなんて、もう頭の片隅に追いやられていた。


やがて、私たちは、地上へと続く階段へとたどり着いた。

古びた鉄格子の扉を開けると、そこには、数人の騎士たちが心配そうな顔で待機していた。


私たちが無事な姿で戻ってきたのを見て、彼らは、ぱあっと顔を輝かせた。

「隊長! ご無事で!」


「ああ。問題ない。それより、王都の様子はどうか?」

クラウスさんの問いに、一人の騎士が、興奮した様子で答えた。


「それが、信じられないことが起きております! つい先ほどから、奇病の患者たちが、次々と回復に向かっているとの報告が!」

「なにっ、本当か!?」


「はい! 石のように硬化していた手足が、徐々に柔らかさを取り戻し、意識を失っていた者たちも、目を覚まし始めていると! まるで、奇跡です!」

その報告に、クラウスさんたちは、顔を見合わせた。


そして、その視線は、自然と私へと注がれる。

「ミサ殿……。君は、本当に……」


三人の目に浮かんでいるのは、感謝と、そして、畏敬の念だった。

私は、その視線に耐えられず、少しだけ俯いてしまう。


「さあ、急いで王城へ戻るぞ! 陛下に、この吉報をお伝えしなければ!」

クラウスさんの号令で、私たちは、王城へと急いだ。


隠し通路を抜け、再び王城の廊下に出る。

そこは、先ほどとは打って変わって、慌ただしい雰囲気に包まれていた。

文官や侍女たちが、忙しそうに行き交い、その誰もが、興奮と喜びに満ちた表情をしていた。


「聖女様が、お戻りになられたぞ!」

誰かがそう叫んだ。


その声に、周りにいた人々の視線が、一斉に私に集まる。

そして、次の瞬間。


わあああああっ! という、割れんばかりの歓声が、廊下に響き渡った。

「聖女様、ありがとうございます!」


「あなた様のおかげで、私の息子が……!」

「アルトリア王国は、あなた様に救われたのです!」


人々が、次々と私に駆け寄り、感謝の言葉を口にする。

中には、感極まって涙を流している者さえいた。


「う……」

私は、突然のことに、どうしていいか分からず、立ちすくんでしまった。


人々の熱狂が、怖い。

注目されるのが、苦手だ。


「皆、落ち着くんだ! ミサ殿は、お疲れなのだ!」

クラウスさんが、大声で人々を制してくれた。


ゲオルグさんが、その大きな体で、私を人垣から守ってくれる。

イザベラさんが、私の手をそっと握りしめてくれた。


「大丈夫ですわ、ミサ様。わたくしたちがついていますから」

その言葉が、どれだけ心強かったことか。


私たちは、人々の歓声の中を、なんとか進んでいく。

そして、再び、あの謁見の間へとたどり着いた。


玉座に座る国王アルフォンスは、先ほどとはまるで別人のように、晴れやかな表情をしていた。

その目には、涙さえ浮かんでいる。


私たちが、再び彼の前に膝をつくと、国王は、自ら玉座から立ち上がった。

そして、ゆっくりと階段を降り、私の目の前までやってきた。


国王が、臣下の前まで降りてくるなど、前代未聞のことらしかった。

周りにいた者たちが、息を飲むのが分かった。


国王は、私の前に立つと、その両手で、私の手をそっと取った。

「面を上げよ、聖女ミサ殿」


その声は、威厳に満ちていたが、同時に、深い感謝と優しさに溢れていた。

私は、おそるおそる顔を上げる。


国王は、穏やかな目で、私を真っ直ぐに見つめていた。

「そなたは、この国を、そして、我が民を救ってくれた。この恩は、言葉では到底言い尽くせぬ」


国王は、そう言うと、なんと、私の前で、深く、深く、頭を下げた。

王が、一介のプレイヤーに頭を下げる。


その光景に、謁見の間にいた全ての者が、言葉を失っていた。

もちろん、私も、頭が真っ白になっていた。

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