第15話 モドセ

── それは、戻る。だが、かつてのそれとは限らない。



最後に、どうしても書き残しておきたいことがある。


ある種の人間には「読みすぎる力」というものがある。

文章の裏にあるものを、勝手に拾ってしまうのだ。

私は、そういう人間だったのかもしれない。


神社の呪文を調べ始めたときから、

頭の中でそれを何度も思い返していた。

声には出していなかったが、

心のどこかで、順番通りに、意味をなぞろうとしていた。


その時点で、もう遅かったのだと思う。



“現れた”のは数日前の夜だった。


書斎の棚に、ひとつだけ立てかけられていた見覚えのない木札。

とある文句が、丁寧な筆で書かれていた。


――「あなたの大事なものを入れてください」


冗談で済ませようとした。

だが、指で触れた瞬間、部屋の空気が一段階冷えた。



翌朝、実家の母から電話があった。


「お父さんが、今朝から急に……あなたのことがわからないの。

でもね、ずっと名前を呼んでるの。

“カミシロ”とか、“ササゲ”とか、そんな……変な言葉を……」


私は凍りついた。

だが母は、さらにこう続けた。


「……なんだったかしら……

 “クダ……クダケ……?”」


その瞬間、通話がプツッと途切れた。


数秒後、ふたたびつながったが、

受話口の向こうから聞こえてきた声は──


あまりにも冷たかった。


「……アレ? ゴメンナサイ…テガ……ヒダリテガネ……フルエテテ……トマラナクテ……」


文面だけ読めば普通の言葉なのに、

声の調子がずっと平坦だった。

句読点も抑揚もなく、

まるで何かの台本を読んでいるような口ぶりだった。


私は口を挟むこともできず、そのまま耳を澄ませていた。


「……ヘンナノ ナンデコンナコト ハナシテタノカシラ……

 クダケッテ……ナニ?」


その言葉を最後に、通話は無音になった。



その夜、私はあわてて帰省した。

母はリビングにいた。

やや暗い照明の中、いつものエプロン姿のまま、私に気づくと笑った。


だが──


目が白く濁っていた。


瞳があるはずの部分が、すりガラスのように曇っている。

なのに、こちらを正確に見ているような気配があった。


「……ゴメンネ キュウニ ヨビダシチャッテ

 ダイジョウブ ヨクアルノ ソウイウノ」


また、あの声だった。

音の高低もなく、笑い方も、口の形すら変わらない。


まるで、言葉が先にあり、体がそれに従って動いているようだった。


私が「手の具合は?」と尋ねると、

母は無言のまま、包帯を巻いた左手を出した。


その指先が、何もない空中を、そっと叩いていた。



私はこの呪文の意味を、もう知ろうとしない。

理解しようとすること自体が、何かの「始まり」である気がしてならない。


言葉は、ただの記号ではない。

とくに“誰かがずっと同じ言葉を、同じ順番で、同じ対象に向けて唱えていた”場合、

それはやがて「形」を持つ。


私たちは、その形に触れてしまった。



もしここまで読んでしまったなら、

あなたも、もう「入り口」に立っているのかもしれない。


ただ、まだ間に合うかもしれない。


まだ声に出していないなら。

まだ順番通りに意味をなぞっていないなら。


それでも不安なら、

せめて――


……モドセ。


この言葉を最後にして、そこでやめてください。


この言葉は、ある場所では「帰還」を意味するとされていました。

けれど、何がどう戻るかは、誰にもわかりません。


あなたのもとに“何か”が帰ってきたとき、

それが「大事なもの」だったのかどうかは、

もう一度、それを失ってからしかわからない。



これは最後の忠告です。


どうか、
















「あなたの大事なものを入れないでください」 

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あなたの大事なものを入れてください じゅう @Ai_am

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