四月十五日(金)

 月日というものは偉大であり虚しいものだ。

 僕がこのような思考とこのような身体になるまでに、二十三年と四ヶ月と十五日が経っている。僕は昭和六十三年の元旦に生まれたので、この計算をどんな時であっても素早くすることが出来る。平成の年号がそのまま僕の生きた年数になる。こんなふうに自分が今現在何年と何ヶ月と何日間生きているかを即座に言える人間はそうはいないと思う。

 今日、とにかく僕は、この日本という国に生まれて二十三年と四ヶ月と十五日の身体と思考を持って、新宿七時三十分発の高速バスに乗って実家のある岐阜に向かっていた。

 首都高からの景色をしばし眺める。人間の文明の積み重ねが、ビルや建物の形となってそこに存在している。その膨大な数と高さに圧倒される。改めてこういう場所から景色を見ると、東京という場所はつくづく凄い場所だと思う。ここにもし直下型の大地震が起きたら大変なことになるだろう。そして、その可能性が全く無いわけではない。今すぐにでもそれは起こるかもしれないのだ。ぐちゃぐちゃになった東京の景色を想像すると僕は、首を二度小さく左右に振り、その想像の中での景色を頭の隅に追いやった。

 首都高速用賀出口の看板を横目に東名高速の方向にバスが進んだ。天気は良い。薄いブルーに塗られた広大なキャンパスに、作り始めの綿菓子のような雲が点在している。昨日の母との電話では昼から岐阜は雨だと聞いていたが本当なのだろうか? これから西に向かう途中で天気が雨に変わるのだろうか? もしそうならこんなに憂鬱になることはないなと思った。

 景色の中のビルが無くなり、東京がどんどん遠ざかっていく。八時二分、料金所のETCを抜け東名高速に入った。少し眠る事にしようと思う。今日は久々に家族と会う。このバスに乗る為、普段より早めに寝ようと試みたにも関わらず、僕は二時間しか眠ることが出来なかった。最近、あまり長く眠れない僕でもさすがにこれは短い睡眠時間だった。久々の家族との食卓で眠たい顔はしたくない。あらかじめ座席に置いてあったブランケットを身体に乗せて眠ろうとする。自分のベッド以外で僕が眠る為には普段よりも努力が必要だった。

 僕には人間の一生のイメージとして、二つのイメージがある。

 一つは積み木を重ねていくイメージ。人生は積み重ねていくべきものなのだ。様々な障害物からも逃げることなくアイデアを出し、必死で積み重ねる。時にはいびつな形になることもある。時には何年もかけて積み重ねたものが崩れる。それでもまた積み重ねる。重ねて重ねて重ねる。そして命が消えた時、その行為が終わる。

 もう一つは砂時計のイメージだ。人生の時間はあらかじめそれぞれで決められていて、少しずつ下に落ちていく。砂が完全になくなった時が、『死』だ。

 これらのことに対して僕はおおまかどちらも正解だと思っている。

 上手く眠れない時、僕はこのイメージのどちらかを頭に浮かべるようにしていた。子供が柵を越える羊の数を数えるのと同じ要領だ。積み木を丁寧に積み重ねるイメージか、もしくは砂時計の砂が落ちていくイメージをする。大抵の場合、そうすることによって僕は睡眠の世界に落ちることが出来た。どちらかと言えば様々なものを積み木のように重ねるイメージの方が多かったが、それでも眠れない時は大きな砂時計の砂が落ちるイメージをした。イメージの中の砂時計は様々な大きさになった。僕の数々の思い出の品が落ちていく時もあったし、落ちていく砂の中に東京タワーや富士山が混じっていることもあった。

 いつもならそうすることによって眠れるのだが、今日は簡単にはいかなかった。砂時計のイメージは続く。


 少しうつらうつらとした。

 目を開けると左に海が見えた。

 どこだろうと思い、注意して道路を見ていたら、『由比1㎞』の看板があった。海に浮かんでいるのは漁船だろうか? 地震の津波で流されていく船の映像の記憶が蘇った。しばらくはどんな出来事においても、こんなふうにあの地震のことが頭をよぎるのだろう。

 海から離れ、また山に入った。桜がいたる所に見える。日本は素晴らしい国だ。春に桜が咲く。曇ってきていた空がまた少し晴れた。雲の隙間から太陽が見える。あまりに天気が良くなってきたので携帯電話で岐阜の天気予報を調べた。確かに午後からの降水確率は60パーセントになっている。午後六時以降の降水確率は80パーセント。はたして天気予報は当たるのだろうか?


 浜名湖のサービスエリアでトイレ休憩があった。トイレにある窓から桜が、そしてその向こうには海が見えた。喫煙所でタバコを一本吸ってからバスに戻った。

 結局、その後もうつらうつらとした程度でほとんど眠れなかった。バスの中が寒く、ブランケット一枚では充分に暖を取れなかったのも眠れなかった原因だった。寒い状態で熟睡するなんて人間に出来るのだろうか? 地震直後の被災地の状況が頭に浮かんだ。この薄っぺらなブランケットすらない場所も沢山あったはずだ。小さな子供やお年寄り、妊婦だっていたはずなのに。

 名古屋で高速バスを降り、名鉄に乗って新鵜沼の駅で降りた。母がホンダのフィットで迎えに来てくれていた。雨が降っていた。小走りで車に向かう。傘をさすか迷うほどの雨だった。

 二年と少し振りに会う母があまり変わっていなかったのでホッとした。一昨年の正月に帰省して以来だった。実家までの三十分の道のりを、母の運転する車の助手席で過ごした。僕の育ったところは車が無ければ生活出来ない。最寄りの駅までも車で三十分もかかる。両サイドを山の風景が流れていく。その山の谷間に木曽川が見えた。それは東京の景色と大きく違った日本だった。

 家に着くと玄関で父が出迎えてくれた。驚いた。以前の父は絶対にそんなことをしなかった。息子を玄関で出迎えたりする人ではなかった。僕に会えることを彼なりに楽しみにしてくれていたのだと感じた。体系も含め少し丸くなったようだった。僕は居間で祖母と少し話した。耳が遠い彼女と話すのは少し骨が折れた。

 夕食はすき焼きだった。


 今日からディズニーランドが営業を再開したらしい。

 大地震があって一ヶ月と四日が経っていた。

 母が被災地には多くの霊が彷徨っていると言っていた。霊達は自分が死んだと気付いていないそうだ。テレビ番組の受け売りらしいが、実際にそうなのかもしれない。おそらく唯香はそこからやってきたのだ。


 がらんとした部屋に布団が敷かれていた。上京するまで僕の部屋だった場所だ。勉強机と本棚以外は何も無い。本棚には僕が東京に持っていかなかったCDや本が並んでいる。その捨てられなかったけど今現在の生活には要らない物達は、宙ぶらりんの状態でそこに存在していた。全てが、僕が覚えているものより少しずつ色褪せていた。

 ベッドは捨てたらしい。確かに古いものだった。

 電気を消すと睡魔が襲ってきそうだった。

 ふと唯香の顔を思い出した。

 彼女は今、何をしているのだろうか?

 彼女は独りで絶望していないだろうか?


 久々に僕はオナニーをした。

 唯香が僕のアパートに来てから僕は自慰行為をしていなかった。

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