第26話 ある夏の日の思い出
地球乃の自宅を初めて訪れたのは、高校一年の夏休みのことだった。
地球乃は剣道部で活躍していたのだが、老朽化による武道場の建て替え工事のため活動が休止になっていた。暇を持て余した地球乃は、部活をするでもなく同じく暇を持て余していた道隆に白羽の矢を立て、急遽自宅に呼び出したのであった。
道隆はインドアである。休みの日はできれば家に引きこもっていたかった。真夏であれば尚更である。なので一度は断ったがあまりにしつこいのでつい折れてしまった。
地球乃の自宅はマンションだった。
エントランスで地球乃に聞いた部屋番号を呼び出すと、「はーい」と女性の声が聞こえた。地球乃が出るものと思っていた道隆は少々面食らった。
「えーと、地球乃……くんと約束していた、綾瀬道隆です。今いますか?」
「兄ですか?」
女性の声で、妹だと分かった。そう言えば妹がいるとも軽く聞いたことがあったような気がする。
「兄なら出かけていますが」
「何でだよ」
思わずツッコミを入れる。呼び出しておいてなぜ出かけるのかと道隆は憤慨した。その反応がおかしかったのか、スピーカーの向こうの女性は小さくと笑ったようだった。
そしてオートロックの自動扉が開いた。
「上がって待ってください。すぐに戻ると思いますので」
「え、いや、全然出直すけど……」
というか帰るけど、と言いかけたところで声の主は「閉まりますよ」と言った。固辞するのも馬鹿馬鹿しいので、道隆はマンションの中に入った。
601号室の玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。出迎えたのは、まだ幼さの残る小柄な女の子だった。
長い髪を後ろで一本に結び、無地のエプロンを身に着けている。大きな茶色の瞳が目を引く、有り体に言って美少女だった。
少々は申し訳なさそうに目を伏せ、「すみません」と小さく頭を下げた。
「うちの兄がご迷惑をおかけしているようで……あの、私の顔に何か?」
「え? あ、いえ! 何でもなくて……」
思わず見惚れてしまった、などとは口が裂けても言えない。道隆は咳払いをして気を取り直す。
「あいつに振り回されることにはもう慣れてるので、大丈夫です」
そう言うと少女は軽やかに微笑み、敬語は不要ですよと言った。それがまた魅力的だったので道隆はドギマギする。
見た目から察するに中学生だろう。その割には大人びた雰囲気だ。地球乃の性格があれなので、その反動なのだろうかと道隆は邪推した。
道隆は通されたリビングでソファに腰掛けた。
壁の一面は本棚で埋め尽くされており、ざっと見たところほとんどが考古学関係の本に見えた。
「凄い量でしょう?」少女は麦茶を運んできながら言った「父のものなんです。休みの日には私たちを置き去りに発掘に行っちゃうような、困った人でして」
興味もありませんけどねと、白亜は笑う。よく笑う子だなと道隆はぼんやり思った。
「お父さんは学者か何か?」
「大学で助教をしています。大学に寝泊していることがほとんどなので、家にはほぼ帰ってきません。母はそんな父に呆れて小さい頃に出ていってしまいました」
複雑な家庭環境を赤裸々に軽く話すものである。白亜自身は何も深刻に思っていないらしかった。
白亜はローテーブルに麦茶を置き、道隆の向かいの床に腰を下ろした。
「本当にすみません、いい加減な兄で」
「そんなに謝らないでよ。さっきも言ったけど、あれに振り回されるのは慣れてるんだ。ええと……」
「あ、ごめんなさい。自己紹介がまだでしたね」少女は居住まいを正して続けた。「私の名前は奥村白亜です。地球乃は、私の二つ上の兄です」
「ああ……まともな名前で良かった」
白亜は目を瞬かせる。緊張のせいか余計なことを言ってしまったことに気が付き、道隆は慌てて「ごめんなさい」と頭を下げた。
白亜は笑った。
気にしていないようだったので道隆はそっと胸を撫で下ろし、自らも名乗った。
「僕は綾瀬道隆。地球乃のクラスメイトだ」
「綾瀬さんですね」白亜は口元を隠し、零すようにクスリと笑う。「兄から聞いています。面白い奴がいると、楽しそうによく話していますから」
道隆は苦笑する。
「どうせろくな話じゃないんだろうな」
「さあ、それはどうでしょうか」
そう言って白亜はケラケラと笑った。ろくな話ではないようである。道隆恐る恐る尋ねる。
「あの……聞くのが怖いんだけど、どんなこと言ってた?」
そうですねと、白亜は人差し指で唇を押し上げ、視線を上に上げる。
「クラスメイトのスカートを覗こうとして袋叩きにあったとかなんとか」
「それはあいつのことだ冤罪だデタラメだ訴訟だあんの野郎!」
白亜は声を上げて笑った。目に涙まで浮かべている。初対面だというのに、遠慮なしによく笑う子である。
そのとき、玄関のドアが開く音が聞こえた。
廊下を歩く音が聞こえたかと思うと、ビニール袋を下げた地球乃がリビングに現れた。地球乃は白亜と道隆を順に見やり、嫌らしい笑みを浮かべた。
「道隆この野郎、俺の留守を狙って可愛い妹を口説こうとはいい度胸だ」
地球乃のふざけた言葉に、今更動じる道隆ではない。道隆は地球乃の言葉など無視して言った。
「人のこと無理やり呼び出しておいてどこ行ってたんだよ」
これよこれと地球乃は丸々と肥え太ったビニール袋を持ち上げた。
「食料調達。つまめるもんがないことにギリギリで気づいたもんで。何、礼には及ばねえ。俺の奢りだ」
「兄さん。迷惑をかけたんだからまず謝りなさい」
「うるせえな。お前が相手してんだから迷惑じゃねえだろ」
な、と地球乃は同意を求めてきたので道隆らそっぽを向いた。味方をする気はさらさらなかった。
「言っておくけど、私は兄さんの便利屋じゃないんだからね。自分のお客さんは自分で出迎えてよ」
「もてなす準備に行ってたって言ってんじゃねえかうるせえな」
「それにまた勝手に私の部屋入ったでしょ? 私の漫画またなくなってるんだけど!」
「知らねえしいきなり別の話するんじゃねえよ」
「キッチンも使った後は片付けてっていつも言ってるよね? 何で毎度毎度私が片付けないといけないのよ」
「頼んでねえし。後からやるつもりだったんだよ」
「私が使えないから片付けてるの! もうご飯作ってあげないからね!」
「グチグチグチグチ細けえことを」地球乃は頭を搔きながら白亜を睨む。「そんなんだからあんな砂糖ぶちまけたみてえな甘ったるい漫画でメソメソ泣いちまうんだ――あ」
「やっぱり取ってるじゃない! 兄さんの馬鹿! 勝手に入らないで!」
不意な、道隆は声を上げて笑ってしまった。
白亜と道隆は同時に道隆を睨みつけ、これまた同時に「何?」と威圧的に口にした。その表情までそっくりなのがさらに笑えた。
「仲いいなと思って」
そう道隆が言うと、地球乃は「お前の目は節穴か」とどこか哀れむ調子で言った。白亜は短く「節穴ですね」と同意する。どう見ても息ぴったりだった。
道隆には兄弟がいない。だから兄弟がどういうものなのか分からない。そのせいかどうかは分からなかったが、なぜか二人のことが、とても羨ましくなってしまった。
カランと、コップの中の氷が鳴る。
結露した水滴が、窓から差し込む光を反射しててらてらと幻想的な光を放つ。
そんな何気ない光景を、道隆はなぜか、その後もずっと覚えていた。
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