第18話 決壊

 誰もいない路地。

 道隆と白亜の二人の発する音だけが微かに響き、それ以外の一切の音が廃絶されている。

 上空で薄い雲が輝く月の前を横断していく。


「はあ――」


 道隆はため息混じりに嘆息する。その呼気がカーテンのように垂れる白亜の髪を、僅かに揺らした。

 微かな月の光の影になり、白亜の表情は杳として知れない。


 銀の刃は、道隆の額に向かう。


「まあ――仕方がないか」


 それは、本当に、心の底より出た呟きだった。

 逃げている段階だとそれどころではなかったが、こうしてあらゆる逃げ場を封鎖されると、かえって冷静に物事を見ることができた。


「それで君の気が済むのなら、まあいいや」


 諦観なのか、自棄なのかは分からない。

 それでも、それは心の底から出た言葉だった。


 杭が、道隆の額の薄皮一枚を裂いたところで、ピタリと止まった。


「……何が……仕方がないのですか……?」


 声に、道隆は意外に思って目を丸くする。


「やっとまともに口を利いたな」


 白亜の呼吸が乱れる。ポタポタと、道隆の頬に水滴が落ちた。それが涙なのか汗なのか、道隆には見えないし、分からない。


「僕はね――」道隆は一呼吸置いて続けた。「君になら、殺されても仕方がないと思うんだ」


「……死ぬのが、怖くないのですか?」


「馬鹿を言うなよ。怖くないわけないじゃないか。僕は……死にたくなんかないよ」


「それならどうしてっ!」


「君のことが好きだからだ」


「――は?」


 道隆は空の月を見上げた。


「二年前。思い出すだけでも辛い。吐き気がする。事件の凄惨さもそうだけど、それは、裏切られたと、そう感じるからだ」


 これだけの時間が経っても、未だに生々しく、克明に思い出すことができる。

 親友が――そう思っていた男が、自分を殺そうとしたこと。何の理由も述べようとしなかったこと。今の状況と似ているなと、その時とは真逆に道隆はおかしくなる。


「僕は、地球乃と君が、好きだったよ」


 今まさに命を終わらせようとしているというのに、道隆は自分でも不思議なほどに穏やかに言う。


「白亜ちゃん。君はこの二年間、辛かったよな。苦しかっただろうな。君は必死に地球乃を信じようとしてるのに、あいつを死に追いやった男は、必死にそのことを忘れようとしてるんだもんな」


 ――親友だった、はずなのに。


 道隆は、シルエットしか見えない白亜の顔を見上げる。

 地球乃が本当に無実かは分からない。だが、そうではないのではないかと、道隆の心はすでに揺らいでいる。

 だから、白亜が復讐をしたいというなら、受け入れるべきだと思う。歪な思考回路だと、理解できていたとしても。


「君は僕が金目の仲間じゃないかと疑って、僕を金目のいる世界へと連れ込んだ。対話もせずにそんな危険な手段を選んだのは、君にとって僕が、最悪死んだっていい、憎い人間だったからじゃないか?」


 返答はない。

 息を飲む音が聞こえた。


「僕は本当は、君を助けたかったんだ。君を助けて、僕も一緒に、地球乃の真実を知りたかった。でも、白亜ちゃん」


 君が僕を恨んでいるのなら、殺されたって文句は言えない。


 道隆は淀みなくそう言った。

 そして地球乃の顔を思い出し、初めて涙を流した。


「……揺さぶりのつもりですか?」


「いいや。ただ、そうだな」道隆はすこしだけ考えて言った。「虫がいいけど、地球乃のことが何か分かったら、僕の墓にでも供えてくれ」


「あなたの……墓なんて……っ!」


 白亜はすでに自分の声が綻びにまみれていることに気が付かない。道隆は砂を飲むような苦笑いを浮かべるだけでそれ以上は何も述べず、目を閉じる。


 額に触れる刃が揺れる。

 道隆にかかる体重も揺らぐ。

 道隆はただ、己の意識が途切れるのを待つ。


「う――あ――!」


 刃の感覚が消え、白亜の体重が後方に傾くのを感じた。白亜が刃を振り上げた姿を想像し、道隆は唾を飲み込んだ

 どれだけ強がって達観したようなことを言ってみても、やはり怖いものは怖い。


「――うわああああああああああああ!」


 耳をつんざく白亜の大絶叫が響いた。

 そして次の瞬間には、すぐそばの耳元で、ざくりという音を聞いた。

 道隆は目を見開き、音のした方に目を向ける。白亜の握り締める杭が、顔のすぐ横の地面に突き刺さっていた。


「……だ――」


 消え入りそうな、震える声が聞こえた。


「もう……嫌だ……」


 道隆の頬に落ちる水滴の数がどんどん増えていく。

 白亜の声は、はっきりとした嗚咽に変わった。


「できない……私には……できません……」


 額から冷たい刃の感覚が消え、道隆はゆっくりと目を開く。暗さに順応した目が、ようやく白亜の顔を捉えた。


「白亜ちゃん……」


 白亜は、泣いていた。

 嫌だ嫌だと、駄々をこねるように涙を流している、


「もう嫌だ。これ以上、あなたを傷つけたくなんかない。殺したくなんか、ない」


 まるで何かが決壊したように、白亜は続けた。


「私は、あなたを恨んだりなんかしていません。そんなこと、考えたこともない! ごめんなさい綾瀬さん。ごめんなさい……!」


 白亜は道隆の胸に頭を起き、ごめんなさい、ごめんなさいと泣き叫ぶ。これまで押し隠してきたもの全てが一気に爆発したかのように。


 道隆はどうすればいいのか分からなくなる。

 白亜が何を隠しているのか、何を抱え込んでいるのか、何をしようとしているのか、未だに一つも分からない。


 けれど、放ってはおけるものか。


「はくあ――」


 白亜の頭に手を伸ばそうとした、そのときだった。


 ギギギと機械が軋むような音がどこからか鳴った。

 音に連動するように空気そのものが汚染されたように重くなり、呼吸が辛くなる。抉るような寒気が背筋を這い上がった。


 何だ、と思った刹那、道隆の上を轟音と共に何かが通り過ぎ、白亜は吹き飛ばされた。

 白亜はゴロゴロと地面を転がり、道路の真ん中で停止する。それからピクリとも動かなくなった。


「白亜ちゃん!」


 道隆は血相を変えて立ち上がる。


 そこで、見た。


 不快な音を立てながら瞬きをする、巨大な黄金の単眼。目だけで体躯の七割以上を占める丸いフォルム。そこから伸びる、十本を超えるタコのような足。体の背後には、黒い蝿のような羽があった。


 全長は直径五メートルほどで、その下に足が蠢いている。前に見た獣と高さ自体は似通っているが、幅がある分さらに巨大に感じる。しかも、その覇気はあれとは比べ物にならない。この化け物と比べれば、あの猿面の獅子など赤子同然だ。


 しかし道隆はまるで恐怖を感じなかった。そんなものが入りこむ余地がないほど、別の感情で埋め尽くされていたからだ。

 化け物の足に殴り飛ばされた白亜の姿が視界に入る度に頭の血は沸騰し、神経がブチブチと音を立てて切れていく。こめかみが痙攣し、髪が逆立つ。


「このドブ虫野郎……っ!」


 金目は、まるで嘲笑うようにギチギチと瞼を鳴らしす。そして倒れた白亜に向かって、天高く足を振り上げた。

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