第9話 怒りと嘆き
長い沈黙が、2人の間に横たわった。
白亜が何を言っているのか、道隆は理解できなかった。否、理解できているし、想像した通りの告白でもあったのだが、それを認めたくなかったのだ。
白亜はピクリとも表情を動かさず静かに座っている。彼女の告白に対しどう返すべきなのか、道隆は分からない。
三分は経過した頃だろうか。道隆はようやく口を開いた。
「それは、何かの喩えだよな? それか、何か不可抗力でそうなっただけとか、そういう意味なんだよな?」
「いいえ」白亜は即座に否定する。「私が、私の意思で、私の目的のために、綾瀬さんを巻き込みました」
知らず、道隆は胡座をかく太股を指が食い込むほどに握りしめていた。拳には血管が浮かび、それが生半可な力ではないことを伺わせる。そうしないと、今にも怒りが爆発しそうだった。
「……笑えない冗談だね」
声に笑いを混ぜてみようと努力したが、うまくいかない。
「冗談を言ったつもりはありません」
その淡白な返答に、道隆はギロリと白亜を睨む。鼓動が早くなり、血が熱を帯びていくのが分かった。
「今なら……まだ間に合う。本当のことを、言ってくれ。他に何か……理由があるんだよな……?」
白亜は、しかし無情に首を振る。
「答えは同じです。私は……」白亜はそっと道隆から視線を外す。「私の意思で、あなたを金目のいる場所へ引きずり込みました」
「――っざけるなあ!」
道隆は床を殴りつけて立ち上がった。白亜の肩が僅かに跳ねたが、お構い無しに道隆は怒鳴った。
「どうしてそんなことをする必要があるんだ! 本当に……本当に死ぬところだったんだぞ!」
白亜はチラと道隆を流し見、すぐにまた視線を逸らした。
「それについては、申し訳なく思っています。守り切れると過信していました」
「それ以前の話だって言ってるんだ! 答えろ。どうして僕をあの化け物に襲わせたんだ!」
力の限り叫ぶと、額が激しく痛んだ。視界がぼやけ、全身の筋肉が弛緩し、膝から崩れ落ちる。
「あ、綾瀬さん!」
突然のことに白亜は驚愕し、慌てた様子で道隆の側に寄る。道隆に向かって伸ばしていた手を、道隆は力任せに掴んだ。
「痛っ――」
「答えろ」
道隆は白亜に顔を寄せて睨みつけ、獣の唸り声のような低い声で言う。
ドロリと包帯の下から血が滲み出し、道隆の顔に赤い線を引いた。
「――あなたが」白亜は苦悶の表情で答える。「金目の仲間ではないかと疑ったからです」
「……何?」
「私は、兄さんの事件には金目が関係していると考えています」
「何を――」
「綾瀬さんはあの事件の唯一の生き残りです。あの事件を、仮に金目が引き起こしたとして、あなただけが見逃される理由がありません。だから、あなたが敵ではないか、それか何か事情を知っているのではないかと疑って、確かめるために実際にあいつの前に連れていき、その反応を観察したかったのです」
白亜の言葉を咀嚼するには少し時間が必要だった。その意味を腑に落とし込むと、さあと文字通り頭から血の気が引いた。
「僕が……あれの仲間……? あいつの事件に、あの化け物が関わってる?」
白亜の腕を握る手に、さらに力が入る。
「あぅ――っ!」
白亜の呻き声で我に返り、道隆はぎょっとして白亜の腕から手を離した。道隆は白亜の顔が恐怖に歪み、目に涙が滲んでいることに、ようやく理解が及ぶ。罪悪感と自己嫌悪の洪水に飲まれ、白亜を直視できなくなった。
白亜は道隆に握られた二の腕を擦っている。そこに残った赤い手の跡が生々しい。
「……ごめん」
道隆は辛うじて言葉を絞り出す。それ以上の言葉が一つも見つからなかった。
「いえ、いいんです。とにかく、傷を塞ぎましょう」
白亜もう一度手を差し出したが、道隆はその手を払い除けた。
「いいんだ。僕に……そんなことをしてもらう資格はない」
聞きたいことはまだまだあった。疑念はまったく解消されていない。それを棚上げしてでも、これ以上白亜と同じ空間にいることが耐えられなかった。怒りと、混乱と、自己嫌悪とで、頭がぐちゃぐちゃになっていて、正常な思考ができない。
白亜は、事件の真実を知るために道隆を巻き込み、命を危機に晒した。
身勝手だ。
残酷だ。
擁護できるはずがない。
だけど、それを否定することなど、誰にできるのか。
兄の無念を晴らしたいと願う彼女を糾弾する資格が、自分にあるのか。
それ以上は考えられなかった。考えたくもなかった。手の中に残った彼女の腕の冷たさが心臓をも凍えさせたようであり、その身を焦がした怒りの激情は完全に消え失せてしまった。
引きは替えに残ったのは、叫び出したくなるような無力感。
ここにはいられないと、道隆は白亜とは目も合わそうとせずに立ち上がり、逃げるように玄関に向かう。
「綾瀬さん、どこに……せめて傷を」
「帰るよ。本当にごめん、白亜ちゃん」
「謝らないでください! だって悪いのは全部――」
「違うんだ。違うんだよ、白亜ちゃん。どんな理由があったとしても、僕は」
――君だけは傷つけてはいけなかったと、消え入りそうな声で道隆は言った。だが、その声は白亜の耳に届く前に、重苦しい部屋の空気に希釈されて消えてしまった。
部屋を出る直前、ドアの隙間からチラと白亜の顔が見えた。気のせいかもしれないが、彼女は泣いているような気がした。そんな都合の良い妄想をした自分を道隆は呪った。
エレベーターに乗り込み、壁にもたれる。血の勢いは止まらず、顔も服も床も汚していく。触れると、たちまち手のひらは真っ赤に染まった。
その手を眺めていると、今更ながら道隆は矛盾に気が付いた。
彼女は自分の力で道隆を救ったと言った。
ならばどうして、額の傷はそのままなのだ。
嘘、なのだろうなと道隆は確信する。
しかしそれを考えようとすると、白亜のことは切り離せない。これ以上、彼女のことを考えることは、今の道隆には苦痛でしかなかった。
エレベーターを出て、エントランスを抜ける。ここはどこなのだろうと景色を見渡し、宛もなくフラフラと歩き始めた。
――お前は。
道隆は朦朧とする意識の中、この二年間絶対に口にしなかった友人の名前を口にした。
「――地球乃」
空を見上げる。中天から降り注ぐ日差しが、血で赤く染まった目を焼いた。
「お前は、本当に――」
続く言葉は、何もなかった。
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