第2話 血の記憶

 翌日、鬱々とした気分のまま大学へ行く支度を済ませ、綾瀬道隆アヤセミチタカは一人暮らしのアパートを出た。


 中学のときから乗り続けている、もはや相棒と言って差し支えない黄色のクロスバイクに跨った。漕ぐとカタカタ鳴ったりするが、ここまでくれば乗り潰すつもりである。


 ゆっくりと自転車を漕ぎながら空を見上げる。


 空は透き通るような青が広がり、雲一つない快晴である。7月とはいえまだ午前10時だというのにすでに日照りは灼熱で、じりじりと肌を焼かれる感触がある。子孫を残そうと躍起になって蝉たちはみんみんミンミンと大合唱。絵に描いたような夏の風景である。


 大学は今日から前期の期末試験期間だ。

 本当は大学などサボってしまいたいところだったが、二浪までしてようやく滑り込んだ大学だ。今度は留年で貴重な人生を浪費することは断固として避けるべきである。

 道隆はわずかに陽炎に揺らぐ道の先を睨みつけ、ペダルを踏み込んだ。


 大学に到着し、額に滲んだ汗を拭いながら道隆はスマートフォンで時間を確認した。試験までまだ一時間近くあることを認め、構内の図書館に足を向けた。それを目的に少し早めにアパートを出たのだ。


「おーっす。そこにいるのは道隆先輩じゃないスかあ!」


 底抜けに明るい声が聞こえた。見ると、男子学生が一人、前から道隆に駆け寄ってきていた。

 そこにいたのは尾辻健太郎オツジケンタロウ。金髪と小動物のような幼い顔つきが特徴の小柄な男子学生だ。道隆と同じ一回生だが、道隆が歳上だと知るや先輩と呼ぶようになった。それを皮肉に感じさせないのは、彼と裏表のない明るさによるものだろう


「なんスかなんスか。試験期間初日だってのにすでに落第したような顔して。もっと自信持っていきましょうぜ!」


「やけにテンション高いな。君こそ試験は大丈夫なのかよ」


「バッチリスね」健太郎は即答した。「今なら民法だろうがイタリア語だろうが予備試験だろうが満点突破っスよ!」


「本当かよ」


 道隆の記憶が正しければ、少し前までやばいやばいと連呼していたはずである。現実逃避が極まっておかしくなってしまったのではないだろうか。


「ちょいとちょいと。そんな哀れむような目で見ないでくださいよ。まあ見てるといいス。目にモノ見せてやるぜ!」


 言うだけ言うと、健太郎は走り去ってしまった。あの意味不明な自信はぜひとも見習いたいものだと羨ましくなる。


 それはそれとして、自分の心配をしようと道隆は気を取り直す。

 今日の試験はフランス語と民法総則である。民法はいいとして、フランス語は何となくオシャレっぽい、という実に適当な理由で履修してしまったせいかほとんど身が入らず、単位を貰えるかはほとほと怪しいという有様だ。悪足掻きであろうと最後の追い込みをかけておきたかった。


 図書館の入り口へと視線を戻す。そのときふと、マイクのハウリングに似たノイズが脳を掠めた。

 ちょうど図書館の入り口の辺り。今まさに、そこから出てきた人物と目が合った。

 どこにでもいる普通の女子生徒だ。特段目を引くところもない普通の女生徒である。

 なのに道隆は、まるで恐ろしいものでも見たようにばっと目を背けた。

 自分でも、なぜそんなことをしたのか分からなかった。ただ、猛烈に「見るな」という拒絶の意思に支配された。


 唐突に、記憶が掘り返される。


 そうだ。あの日も、こんな天気だった。


 空は透き通るような青が広がり、雲一つない快晴。7月とはいえまだ午前10時だというのにすでに日照りは灼熱で、じりじりと肌を焼かれる。子孫を残そうと躍起になって蝉たちはみんみんミンミンと大合唱。絵に描いたような夏の日。


 ただ一つ違ったのが――血と臓物で真っ赤に染まった教室――。


「う――」


 道隆は頭を振り、腹を折り畳むように蹲り、込み上げる吐き気に口を押さえた。あっという間に目からは涙が溢れ、口の中いっぱいに胃液の刺激が広がった。ノイズは今や爆発音のように拡大され、頭の中からガンガンと叩きのめす。


 やめろ。

 忘れろ。

 思い出すな。


 そう心の中で繰り返し唱えても、鮮烈な赤が何度も何度もフラッシュバックし、その都度記憶が鮮明に蘇っていく。


「あの、大丈夫ですか?」


 頭上から声が聞こえた。

 ――さっきの女だ。

 顔を上げずとも道隆はそう思った。


「お加減が悪いようでしたら、医務室までお連れしましょうか?」


 ガンガンと暴力的な頭痛とは対照的に、彼女の声はまるで小鳥の囀りのような軽やかさである。

 放っておいてくれ、と心の中で言う。実際にその言葉を絞り出そうと口を開いた瞬間、


「綾瀬さん」


 女は、道隆の名前を呼んだ。


 道隆は絶句し、同時にたった今まで道隆を支配していた絶望的な感覚は嘘のように消えて失せた。


「え……」


 間抜けな声が思わず漏れる。

 顔を少し上げると、足首まで覆う紺色のロングスカートが見えた。その上にはシンプルな白いブラウスが見え、肩には青いトートバッグを提げて居るのが見えた。

 思い切って声の主の顔を見ると、道隆は泣き出したいような逃げ出したいような、自分でもどう形容すべきか分からない感情に飲み込まれた。


 ――ああ。

 吐息が漏れる。


 肩で切り揃えた黒い髪、猫のようなアーモンド型の茶色の瞳、と似た、人の良さそうな柔和な顔立ち、やや痩せぎすの細い体型。トートバッグにぶら下がっているよく分からない不細工なキャラクターも、道隆はよく知っていた。


 はっきりと思い出した。否、思い出したくなかったのだ。こうして顔を間近で見れば、思い出さないことなど不可能だった。


「――白亜ちゃん」


 女生徒は少しだけ表情を曇らせ、困ったような苦笑を作って「お久しぶりです」と言った。


 思考が固まる

 膝をついたまま彼女の顔を見上げるという、まるで服従するかのような姿勢のまま、道隆は身動ぎ一つできない。


「お久しぶりです、綾瀬さん」彼女は酷く落ち着いた声で言った。「よければこの後、少しお時間をいただけますか?」


 懐かしい、記憶の中と同じ声だった。だが、少しだけ違和感を覚える。それが何なのかは、道隆には分からない。考える余裕もなかった。


 沈黙の後、道隆はやっとの思いで言葉を絞り出した。


「時間?」


「話したいことがあります。ご迷惑、ですよね?」


 数秒迷った後、道隆は頷いた。


「次のコマは試験だ。その後なら」


「分かりました」白亜は道隆の言葉を最後まで聞かずに言う。「それでは、12時半に講堂一階のフリースペースで待ち合わせましょう。昼休みですし、問題ありませんよね」


 それでは、と言うだけ言って返事も聞かずに白亜は身を翻した。

 道隆ははっとして、慌てて立ち上がる。


「待てよ。話って、何の話があるって言うんだ?」


 白亜は振り返り、表情一つ変えずに答えた。


「そのときに話します」


 彼女は素っ気なくそれだけの言葉を残し、逃げるように足早に去っていってしまった。

 道隆はそれ以上の言葉は何も思いつかず、彼女の小さくなっていく背中が講堂に吸い込まれるまで、ただ眺めていることしかできなかった。


 彼女の名前は、奥村白亜オクムラハクア

 あの夏の日、僕の通った教室を地獄に変えた殺人鬼、その妹だった。


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