大江戸恋路
結月てでぃ
大江戸恋路
江戸の夏は暑い。
横文字に石と硝子でできたパリの街とは違い、江戸は木と紙でできた蜉蝣のようにはかない町である。
「暑い」
と少しでも呟けば、隣の女が首を痛いほどに曲げて見上げてきた。
彼女が止まると、足につけた奇妙な板が立てるカランコロンという音も止まる。
「暑いですか?」
「ああ、暑いな」
江戸の女は無防備すぎる。
既婚も未婚も関係なく、時間も一目も気にせず軽々と外へ出るのだ。
「今日はまだ涼しい方ですよ」
黄みの強い肌を白い着物の袖で隠して、ほんのりと笑う。
白い着物の下の水の色をした薄い下着と、瑞々しい黒髪の間に素肌が見える。健康的だがどこか艶がある。
「何を買いに行くのだ」
「油がそろそろ切れそうなんです」
家の内だけでなく外でもあくせくと働く江戸女は喉で笑う。
「そうか」
並んで歩いていると、がちゃがちゃと騒がしい音が近くで聞こえた。
煙草売りだ。
「おい、一本くれ」
「へい」
寄って来た馴染みの煙草売りに「今日も騒がしいな」と笑うと、煙草売りも「へえ」と頭を掻く。
荷っている箱の引出しにたくさんつけている鐶が鳴ってうるさい。まあ、おかげで見つけやすいのだが。
受け取った刻み煙草をポケットの中に入れる。あいにく今は煙管を持ち合わせていなかった。
「お好きですね」という女の言葉に煙管を吸う真似をして見せ、笑う。
「今度吸ってみるか?」
女はやんわりと笑んで「いいです」と答えた。残念なことだ。
そうしているうちに、油売りとはち会ってしまう。
女が器を手渡すと、油売りは桶から油差しを使ってそれに油を移す。粘り気があるからか、しずくが切れない。
好都合だと女と話そうと思うが、やはり暑い。汗を拭うと、女が通りに顔を向ける。
「ひゃっこい、ひゃっこい」
道行く人に声をかける男に気付いたのだろう。女が呼びかけると、天秤棒を担いだ男がやって来る。
「冷水二つくださいな」と女が言う。この男、水売りなのか。
碗にくまれた水を女から受け取る。
女は水売りに「甘くしてね」と言っている。江戸は水にも甘みや苦みがあるのか。
俺の方は苦いのかと眺めていると、「美味しいですよ」と碗を手に女が朗らかに笑った。
試しに口に含んでみると存外甘かった。
「甘いな」
「はい。砂糖が入っていますから」
俺は首を傾げた。はて、そんな貴重な物を入れるだろうか。
「これは白玉か?」
明らかに水とは違う弾力を舌と歯に感じる。俺の問いに女が頷く。なるほど、うまいものだ。
「涼しくなるでしょう」
「ああ、そうだな。暑くなったら飲むことにするよ」
笑って言うと、女がうつむく。
「また今度、一緒に飲みましょう」
ぽっと顔を赤らめたその姿に見とれながらも、「ああ、飲みに来よう」と女の手を握る。
「あの~……ご両人、入れ終わりましたよ」
だが、遠慮がちに油屋に声をかけられて手を離した。
受け取って歩き出すと、女が俺の腕にしなだれかかってくる。
狭く低い江戸の空を見上げた。
ああ、明日も暑くなってくれそうだと。
大江戸恋路 結月てでぃ @bluerosev
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