番外編 紺色の夕方


 社会人になった神原と大学生になった氷室は、職場と大学に近い場所に家を借り、質素ながらも幸せな日々を過ごしていた。

 神原は仕事に精を出し、氷室は勉学とアルバイトに励んでいた。


 1DKの手狭な部屋だったが、家賃が安いのに角部屋で日当たりも良く騒音も少ない、理想的な物件だった。


「こんな良い部屋が見つかるなんて最高だよなぁ、一生分の運使ったかも」


「そんなことないよ。ここ元は事故物件だし」


「え……」


 神原の表情が凍る。

 その顔を見て氷室は笑う。


「あはは、内見の時にね、首を吊った男の人が」


「いい!言わなくて良い!!めっちゃ怖いから!……だから家賃安いの!?」


「多分そうじゃないかな、神原が歩き回ってるうちに、その霊に触れて消えちゃったから、もう事故物件じゃないよ」


「そう、なのか……?」


「そんなにすごい力を持ってるのに、本人に自覚がないから怖いよね」


「俺はここが事故物件なのが怖いよ!」


 二人の同棲はこうして賑やかに始まった。


 ――――――



 大学と仕事に慣れてきた頃、氷室は高熱を出した。

 久しぶりの体調不良にひどく動揺する。

 原因は分かっている。大学構内にいた女の霊と目が合ってしまったのだ。

 いつもそばに神原がいることで気が緩んでいたのだろう。久方ぶりの痛みに耐えられず、その場に膝を着く。

 周囲は一瞬どよめくが、誰も近寄らず様子を見ることに徹している。


「っ、ぁ……」


 何とか声を押し殺し、壁に手を添えると何とか立ち上がる。

 体の中であの女が暴れ回る。随分恨みが深いのだろう。

 耐えず女の声が響き、頭が割れるように痛む。


「大丈夫か?!救急車呼ぶか?」


 誰かが声をかけ背中をさする。

 当然、神原ではないから楽にならない。


「だ、いじょうぶ、です。タクシー呼んで、帰ります」


「でも、顔色わるいぞ?遠慮しないで」


「家に、薬あるんで、大丈夫です」


 氷室は背中をさする手をやんわりと払うと、痛む体を引きずって大学を出る。

 近くにあるタクシー乗り場まで何とかたどり着くと、自宅を指定し、車内で気を失うように眠った。



 


――――――――――――



 氷室はどうにか自宅のドアを開け、玄関に雪崩れ込むように入る。


「っ、いたい、痛い、怖い……」


 次第に熱が上がっていく。悪寒がしガタガタと体が震える。

 震える手でスマホを取り出すと、メッセージアプリを開き、神原のアイコンをタップする。


『はいられた』


 それだけ送信するとスマホを落とす。

 以前はこんな体調不良はいつものことだった。

 神原と恋人になってからはここまで酷くなることは無かった。


(春渡と会う前って、どうしてたっけ……?)


 氷室は次第に意識が遠のいていく。

 頭を占めるのは、早く神原に触れてほしい。そのことばかりだった。




 ――――――――――



「……ぃ!おい、翠!しっかりしろ翠!」


 氷室が目を覚ますと、そこには焦った表情の神原の腕の中にいた。


「はる、と」


 口から出た声は思った以上に掠れていて少し恥ずかしくなる。


「良かった……玄関で倒れてたから本当にヒヤヒヤした」


「おか、えり」


「言ってる場合か!しっかり捕まれ、ベッドまで運ぶから」


 氷室は神原の言われるまま、首に腕を回す。

 そのまま軽々持ち上げられ、お姫様抱っこの状態になる。


「翠、軽すぎ」


「春渡が力持ち、なの」


 神原は氷室をダブルベッドまで運ぶと、優しく横たえる。

 氷室の外套を脱がすと胸元のボタンを外し、呼吸をしやすくさせる。

 水でも持ってこようかと立ち上がる神原の腕を氷室は掴む。


「触って」


「そうだよな、ごめん」


 神原は氷室は横になっているベッドに一緒になって横になると、苦しそうに歪む頬に優しく手を添える。


「どこが一番辛い?」


「頭、この女、よく喋る」


 神原は言われるがまま氷室の頭を優しく撫でる。

 神原の力のおかげか、それとも安心したせいか、次第に頭痛が引いていく。


「熱高いな、病院行くか?」


 その言葉に氷室は緩く首を振る。


「春渡がいるから、大丈夫。結構楽になった」


「ならいいけどよ……ごめん、もっと早く帰る予定だったんだけど」


「来てくれるだけで嬉しい、またここが事故物件にならなくて良かった」


「縁起でもないこと言うな!」


 氷室はクスクスと笑う。

 その表情に神原はムスッとした顔をするが、次第に笑みに変わっていく。


「少し落ち着いたか?」


「うん、ありがとう」


 氷室の顎をそっと掬うと、口付けをかわす。

 いつもより高い氷室の体温を甘受しながら、無遠慮に入ってくる霊に静かに怒りを募らせた。

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君の中に入りたい 下井理佐 @ShimoiRisa

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