第3話 スローライフの始まり

 夕暮れの騒ぎが収まったのは、谷の端に駆けつけてからおよそ一刻後のことだった。

 悲鳴の主は村の娘で、森から出てきた野豚に驚いて転んだだけ。大事には至らず、村人たちと協力して追い払った。

 その晩、空き家の扉に鍵を掛け、埃の取れた床に毛布を敷いて眠りについたわたくしは、初めて“自分だけの寝息”を聴いた。誰に気を遣う必要もない、静かな安堵。

 夜が明けると、まだ薄暗いのに鶏の鳴き声が響き、谷全体が動き始める。わたくしは瞼を擦り、腰を上げた。


 朝露を踏んで庭に出ると、そこには小さな畑跡があった。

 土は固く、雑草がところどころ根を張っている。けれど、柵の隅には誰かが残したらしいハーブが一株、青々と葉を広げていた。

 ミント――。鼻先で葉を撫でると、爽やかな香りが漂った。

 わたくしは裾を結わえ、鍬を手に取った。


「えいやっ……!」


 勢いよく土を掘り返す。だが石が多く、鍬が跳ね返り、掌にじんと響く。

 呼吸を整え、力を分散させるように打ち込む。

 十度、二十度。汗が額を滑り落ちる。腕の筋肉が痺れ、鍬の柄が汗で滑る。


 ――王都では、扇を振るだけで良かった。

 ――ここでは、鍬を振らねば生きていけない。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。

 土が少しずつ返り、黒く柔らかい層が顔を出すたびに、胸の奥が温まっていく。


「おーい! 何してるの?」


 声に振り返ると、数人の子どもたちが柵の外から覗いていた。昨日、ロイと一緒にいた年頃の子どもたちだ。

 麦色の髪をした少女が、目を丸くして言った。


「悪役令嬢って聞いたけど……畑耕してる!」

「“悪役”は余計よ。わたくしはただの村人。エレナと呼んでちょうだい」


 笑って答えると、子どもたちは目を見合わせ、わっと庭に入り込んできた。

 ひとりが鍬を借り、もうひとりは雑草を抜き、少女は手で土をほぐす。

 わたくしは慌てて止めようとしたが、彼らの笑顔に力が抜けた。


「みんな、上手ね」

「えへへ。だって畑、いつも手伝ってるから!」


 子どもたちの小さな手が、畑の土を柔らかくしていく。

 午前の日差しが差し込む頃、庭の一角は見違えるように耕されていた。


 作業のあと、汗を拭いながら井戸の水を汲んだ。

 持ってきたポットに、ミントの葉と乾燥した紅茶を少し入れる。水を注げば、即席の“水出し茶”だ。

 子どもたちに配ると、みな驚いた顔をしてから笑った。


「おいしい! 冷たいのに甘い匂いがする!」

「これ、畑の葉っぱ?」

「そうよ。ミント。喉にもいいし、気持ちも落ち着くの」


 子どもたちは目を輝かせ、もっと教えてと迫ってきた。

 わたくしは、王都で学んだ“ティータイムの作法”を思い出す。けれど、貴族の流儀をそのまま伝えても意味はない。

 そこで、簡単な礼の仕草だけを抜き出し、遊びに混ぜて教えた。


「杯を持つ時は、相手の目を見て。

 “どうぞ”と言って渡すと、受け取る人も気持ちがよくなるの」

「どうぞ!」

「ありがとう!」


 ぎこちないやり取りだったが、笑い声が庭いっぱいに響いた。

 ああ、こういう時間を持ちたかったのだ――と、心から思った。


 昼過ぎ、鍬を担いで戻ってきたトマが目を丸くした。


「なんだなんだ、子ども茶会か?」

「ええ。畑仕事のあとのご褒美ですわ」

「はは、谷も賑やかになるな」


 彼は腰を下ろし、子どもたちと一緒に茶を口にした。

 そしてわたくしに耳打ちする。


「夜は気を付けな。昨日の野豚は戻ってくるかもしれん。見回りは二人ずつだ。あんたも回に入るか?」

「もちろんです」


 夜の谷を守る――それは、もう他人事ではなかった。

 ここは、わたくしが暮らす場所なのだから。


 夕暮れ。

 畑には小さな畝が三列並び、ハーブの苗と野菜の種を植え終えた。

 井戸の水で手を洗い、庭の椅子に腰掛ける。夕陽に染まる空が、王都とはまったく違う色をしていた。


 やがて夜が訪れる。

 村の広場に集まった人々と共に、わたくしは見回りに加わった。松明の灯が風に揺れ、土の匂いと煙の匂いが混ざる。

 谷の外れに耳を澄ますと、遠くで獣の唸り声がした。


「来るぞ」


 隣の若者が剣を構える。

 わたくしも庭で使った枝と紐を手にし、香草の袋を握った。

 もう“悪役令嬢”ではない。

 谷を守るひとりの仲間として、闇に向かって歩を進めた。

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