第2話 田舎への旅路

 王都を背にして二日目の朝。

 薄靄の立つ街道を、わたくしを乗せた小さな荷馬車がゆっくりと進んでいく。御者台には、黙っていても鼻歌が漏れてしまうような陽気な老人が座っていた。名前はトマ。王都と辺境の村々を結ぶ、半ば郵便屋で半ば行商人のような人物だ。


「お嬢さん、いや、もう“お嬢さん”じゃねえか。名前、なんて呼べばいい?」

「エレナで結構よ。姓は……必要になったら考えますわ」

「ふふん。人生の荷物を置いてくるには、姓の一つくらい置いていくほうが身軽ってもんさ」


 トマはそう言って、乾いた街道に引かれる轍を見下ろした。

 轍と轍の間に、昨夜の雨跡が薄く光っている。空気は甘い草いきれを含み、遠くでは雲雀が鳴いている。


「この先は丘陵地帯。村と村の間が長え。昼前に“ハルナの谷”への分岐に出られりゃ上等だが……」

「“ハルナの谷”。そこが目的地?」

「おうよ。地図にはちっこくしか載っちゃいねえが、土がいい。水もいい。あんたみたいにやり直したい人間ほど、あそこへ流れ着く」


 やり直したい人間。

 トマが何気なく言ったその言葉が、胸に落ちる。

 わたくしは膝に置いた小箱の蓋を指先で撫でた。中には最低限の宝飾を細く削って鋳直した銀貨、いくつかの種袋、古いティーポット。それから、覚え書きの帳面。


 帳面の一ページ目には、昨夜、宿の卓で書いた“これからのわたくし”の項目が並んでいる。


 一、朝は畑、昼は台所、夜は本。

 二、剣は週に二度、感を鈍らせないため。

 三、お茶は日に一度、誰かと飲む。

 四、礼儀作法は村の子どもに教える。

 五、王都の噂とは距離を置く。

 六、怒りを持ち歩かない。


 六つ目の行に、指先が止まる。

 持ち歩かない――そう、これは荷造りの一部だ。怒りも、憤りも、誰かから貼られた“悪役”という札も、ここから先の道には不要。

 わたくしは帳面を閉じ、深く息を吸った。風が、荷馬車の帆布をふわりとふくらませる。


 その時、左の前輪が小さく跳ねた。嫌なきしみが伝わる。

 トマが「ちぇっ」と舌を打った。


「悪い。石を踏んだ。車輪、見てくる」


 彼が手綱を引くと、馬車は路肩に寄った。

 わたくしも裾を翻し、土の匂いのする路に足を下ろす。朝露が足首に涼しい。車輪は外れこそしないが、金具が甘い。

 トマが腰袋から釘と木槌を取り出す。


「すみません、何か手伝えるかしら」

「お嬢さん、いやエレナ、そこに枯れ枝が落ちてるろ? 束ねてくれりゃ車輪を浮かせられる」


 言われるままに枝を拾い、石と組んで簡易の梃子を作る。力の要る作業なのに、気持ちは不思議と軽かった。わたくしの手は、王都では扇を持つためにあった。けれど今は、車輪を支え、釘を押さえ、汗を額ににじませて笑うためにある。

 トマが金具を叩き込むたび、車輪は安心したように軋みを収めた。


「よし、これで大丈夫だ。助かったよ」

「役に立てて嬉しいわ」


 馬車に戻ろうとすると、草むらから小さな影が飛び出した。

 ちいさな少年。片肩の縫い目がほつれた上着、擦り切れた靴。彼はビクリと止まり、わたくしたちを見て、手に持っていた小包を背に隠した。


「坊主、どこから来た?」

「……し、知らない人についていっちゃいけないって、母ちゃんが」


 きゅっと結ばれた口元。

 トマは笑って手を上げた。「そうだな。えらい。じゃ、ここで話そう。名前は?」

「ロイ」

「ロイ、俺はトマだ。行商でこの道を通る。そっちは――」

「エレナよ」


 少年の瞳が、わたくしの靴から裾へ、そして顔へと遠慮がちに上がってきた。王都の精緻な刺繍はもう身につけていない。麻の旅装。微かな紅茶の香り。彼は警戒を緩め、背に隠していた小包を胸に抱き直した。


「それは?」

「……薬草。丘の向こうの婆ちゃんに届けるの。母ちゃんが、これがないと婆ちゃん、咳が出ちゃうって」


 薬草。鼻を近づけると、乾いた甘さの中にわずかな苦み。タイム、セージ、あと少しのユーカ。

 わたくしは小包を覗かせてもらい、包み紐を結び直した。


「偉いわね、一人で。けれど、道は長いでしょう?」

「うん。いつもは村の兄ちゃんが一緒だけど、今日は……牛が逃げたって」


 トマが顎に手を当て、空を仰ぐ。「分岐は同じ方向だ。送りがてら行ってやるか」

「お願いできますか?」

「お安い御用よ。ただ、馬車は重い。丘の短い獣道を行くなら、ここからは歩きだ」


 わたくしは頷き、帳面とポットの入った小箱を肩に掛け直した。

 ロイはほっとした顔で、草むらの小道へと足を踏み入れる。背丈ほどの蕨、葉の裏に溜まった露が、膝に涼やかに触れた。


 丘へ向かう細い道は、鳥の声と虫の羽音で満ちていた。

 ロイは最初こそ黙っていたが、やがて少しずつ喋り始めた。母のこと。牛のこと。谷の祭りで食べた蜂蜜のこと。

 わたくしは相槌を打ち、時々、道端の葉を折って香りを教えた。


「これはミント。葉の縁がギザギザ。お湯に入れるとすっきりするのよ」

「すげえ! 嗅いだことある!」

「じゃあこれは? 噛むと舌が少し痺れるわ。傷口を洗う時に使うの」

「……へえ。婆ちゃん、喜ぶかな」


 言いながら、わたくしは気づいていた。

 王都で学んだのは銀器の並べ方や礼の角度だけじゃない。社交には“家庭薬”という一面があった。女主人は客の体調を気遣い、庭のハーブで茶を出す。そこに宿っていた実利を、今、わたくしは両手で掬い直している。


 丘の中腹で、小休止を取った。

 石の平たいところを選び、ポットを出す。小箱からハーブを少し取り、持参の皮嚢の水で濡らす。

 火は使えないから、葉を掌で軽く揉み、香りを立たせるだけ。それでも、風に乗って甘い香りが流れた。


「飲み物はないけど、香りだけでもね」

「……うん。うまそうな、匂い」


 ロイが笑う。彼の笑みは、なんでもない石畳より価値がある、とわたくしは思った。

 その時だった。丘の下の藪が、がさり、と荒く鳴った。

 鳥や小動物の気配ではない。重い。湿った息のような音。


「ロイ、後ろに」

 わたくしは少年を背にして立ち上がった。視線だけで周囲を測る。

 藪の陰から、黒い影がぬっと現れた。

 野豚。大きい。片方の牙が折れている。人の匂いに怯えず、食い荒らされた畑の甘い残り香があれば近寄る。

 王都では狩りの余興だった獣が、今は生活を脅かす。


「動かないで。目を見ない」


 わたくしは掌を下げ、半歩ずつ、獣の視界から外れるようにずれた。

 剣は腰にない。代わりに、裾に縫い付けておいた細い紐と小粒の鈴。そして、革袋の中の……乾いた実。

 紐と鈴は、王都での舞踏の飾りをばらして、旅装に縫い直したもの。実は、香の原料。獣の鼻は強い香りを嫌うことがある。


 鈴を、わずかに鳴らす。

 キィン、と一筋。

 野豚の耳が動く。

 次の瞬間、わたくしは実を地面で潰し、踵で強く擦った。

 ぱっと辛い香りが立ち上がる。涙が滲むほど強烈な、シナモンとペッパーの中間のような刺激。

 野豚は鼻を鳴らし、大きく頭を振った。

 今だ。わたくしは石を拾い、野豚の横手――視界の端へ投げる。乾いた音。獣は反射的にそちらへ体を向け、藪に突っ込む。

 足音が遠ざかるのを確認し、ようやく息を吐いた。


「……行ったわ」

「すげえ……エレナ、すげえ!」


 ロイが飛びついてくる。わたくしは彼の頭を撫で、緩んだ膝に力を戻した。

 王都で覚えた小さな知恵と、舞踏のための道具――あらゆるものが、用途を変えて役に立つ。

 わたくしは胸の内で、小さく礼を言った。過去の自分へ。無駄は一つもなかった、と。


 丘を越え、谷が見えてくる頃、太陽は頭上から少し傾き始めていた。

 畑が段々に並び、銀の水路が蛇のように光っている。その真ん中に、赤い屋根の集落がちょこんと座っていた。煙がまっすぐに上がり、洗濯物が風に踊る。

 ロイが「着いた!」と駆け出す。わたくしも笑みをこぼしながら歩調を速めた。


 谷の入口で、背の曲がった老婆が待っていた。

 ロイが薬草の包みを差し出すと、彼女は皺だらけの指で撫でるように受け取り、目を細めた。


「ロイや、ありがとよ。おや……見ねえ顔だね」

「エレナ。王都から来たの。途中で会って、一緒に来てくれたんだ」

「まあまあ、よう来たねえ。ここは“ハルナの谷”。さ、乾いた喉を潤していきなされ」


 老婆が案内した先は、谷の共同井戸だった。

 石積みの縁に腰をかけ、桶を引く。冷たい水が指を撫で、掌から肘へ、涼しさが登っていく。

 わたくしはポットを取り出した。井戸端の丸石を拝借して、簡単な茶の支度をする。

 ミント、レモンバーム、少量のタイム。庭先で摘んだばかりのように瑞々しい葉を、井戸水で軽く洗い、指の腹で揉んで香りを開く。

 湯はないが、冷やしても美味しい夏の茶はある。


「よかったら、どうぞ」

「まあ……香りだけでも、こりゃ贅沢だ」


 老婆は目を閉じて鼻を鳴らし、その顔は一瞬、少女のように若くなった。

 ロイも両手で杯を持ち、慎重に嗅いでから口を付ける。


「うまい! 婆ちゃん、咳、治る?」

「咳は気と湿りが関わる。夜は体を冷やさないようにして、昼は陽の当たるところで肩甲骨を温めるの。茶は喉を楽にする助けにはなるわ」


 言いながら、わたくしは言葉を選んだ。

 “治る”と言い切ってしまうことは、時に相手から判断を奪う。王都の医師がよくやった言い回しを、わたくしは少しだけ崩し、谷の空気に合わせた。


「婆ちゃん、先生みたいだって!」

「先生だなんて――」


 否定しかけた言葉は、井戸の水のきらめきに溶けた。

 先生。

 わたくしは“誰かの隣に立つ役”から降りた。ならば今度は、自分の足で立ち、必要だと言われた場所で役に立つ人になればいい。

 井戸端で茶を配りながら、心のどこかが柔らかくほどけていくのを感じた。


 そこへ、荷馬車の車輪の音。

 振り返ると、トマが大きく手を振っていた。修理した車輪は機嫌よく回り、荷台には見慣れない木箱が積まれている。


「エレナ! 間に合ったぞ。頼まれてた道具、ついでに持ってきた」

「頼んでいないけれど?」

「エレナが頼まなくても、谷が頼む。――ほれ、鋤と鍬。貸し出し品だ。始めるんだろ、畑」


 木箱の中には、使い込まれたがよく手入れされた道具が並んでいた。柄の長さは女性にも扱いやすい。

 トマは肩をすくめる。


「俺は行商だ。人が暮らし直すのを見るのが好きでね。支度金は要らねえ。代わりに、秋に茶を一杯くれ」

「……いい取引だわ」


 笑いが井戸端に広がる。

 わたくしは鍬の柄を握り、その重みを確かめた。

 王都で手にした銀の扇は軽かった。けれど、この木の重みは、胸の奥の筋肉に火を点ける。


「エレナ、住むところは決めてるのかい」

 老婆が問う。

「古い空き家が一つありますよ」と、ロイが間髪入れずに続ける。「屋根は赤で、扉がきしむとこ。うちの隣!」

「扉はきしんだほうが味があるのよ」と、わたくしは返した。「直すのも楽しみだわ」


 わたくしたちは井戸端から谷の小道へと移動した。

 段々畑を縫うように通る小径は、干した藁の匂いと、焼いたパンの匂い、どこかで煮ている豆の匂いで満ちている。

 空き家の前に立つと、確かに扉は少し傾き、軒の端の瓦が一枚欠けていた。けれど壁はまっすぐで、床石も健やかだ。窓から入る光は柔らかく、庭には野ばらが絡んだ柵があった。


「――ただいま」


 思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いた。

 “ただいま”。

 王都の大理石の回廊では、どれほど言いづらかったろう。

 今、薄い土壁と木の匂いの中では、恐ろしいほど自然に口が動いた。


 扉を押す。きしり、という音は、確かに少し大きい。

 玄関の土間に埃が積もっている。棚は片方が外れ、隅には古い壺がひとつ転がっている。

 わたくしは裾をからげ、袖を結わえ、掃き掃除に取り掛かった。ロイはほうきを持って飛び跳ね、老婆は壺を外へ出して日向に並べる。

 やがて、光が床をきれいに渡り、埃の匂いは土と木の匂いに戻った。


「夕方までには寝られるようになるさ」

 トマが笑い、井戸端の方角を顎で示す。「陽が落ちる頃、谷の端を回る見回りがある。野豚が畑を荒らしに来ることがあってな。あんた、さっきのやり方、見回りにも教えておいてくれ」


「承りました。――でも、いずれは柵や香草の植え方で、寄りつかないようにできると思うわ」

「そういうのが“先生”の仕事だ」


 トマはわたくしに帽子を上げ、また鼻歌を響かせながら行ってしまった。

 夕陽が赤く屋根に落ちる。庭では野ばらの影が柵を越え、土間には新しい風が巡り始める。

 わたくしはポットを取り出し、今日一日を閉じる一杯を用意した。

 ミントに、ほんの少しだけ黒茶。井戸水を注ぐと、葉は浮き上がって、やがてゆっくり沈んだ。


 一口、含む。

 身体の中のどこか、王都の冷たい石が残っていた場所に、温かい水が流れ込む。

 怒りを持ち歩かない。帳面に書いた六番目の項目が、わずかに現実味を帯びる。


 その時、谷の端から、甲高い叫び声が上がった。

 短い、鋭い、助けを呼ぶ声。

 わたくしは杯を置き、扉に手をかける。

 扉は――もう、きしみを怖がらせる音ではなかった。わたくしを外へ送り出す、勇ましい合図になっていた。


「ロイ、家の中で待っていなさい」

「う、うん!」


 わたくしは庭先の細枝を折り、紐と鈴を指に絡めた。腰に下げた小包には、辛い実と、香草。

 夕陽に赤く染まる谷を、影が一つ、端へ向かって走る。


 悪役令嬢は、もういない。

 いるのは――谷の新入り。

 明日の朝、畑を耕して、昼に誰かと茶を飲んで、夜に少しだけ剣を振る。

 そんな、平凡で、しかし確かな一日を守るための、ただの村人だ。


 叫び声の方へ駆けながら、わたくしは唇の端を上げた。

 王都ではできなかった笑い方。谷の風が、頬に張りついた髪を軽く持ち上げる。


 ――第二の人生は、思っていた以上に忙しい。


(※次回:第3話「スローライフの始まり」へ続く)

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