ザリガニ

 本願くんは身寄りがないのではなく家出をしており、本願くんのお父さんは蒸発などせず都内の一等地に建つ戸建てで息子の帰りを待っている。

 急に与えられた答えはこれだった。

 家出。

 確かに、母も父もいなくなり頼る身内もいない孤独な高校生より、家出をしている高校生の方が何倍も存在しうる。家出をしていると俺に言えば、警察に連絡される可能性が高いと考えるだろう。本当のことは言えなかったのもおかしくはない。

 そこで、高校の制服を着る本願くんが思い浮かび、俺は首をひねった。


「あの……本願くんは高校に行ってるみたいでした。不躾な質問なんですが、家出しても学校に行けば会えたんじゃないですか?」

「高校に? それはありえません。家出してから私が休学手続きをしたので、もし学校に祈が行けば私に連絡が来ます」


 高校、行ってなかったんだ。

 家出の件といい、次々と実情が明かされていくのと同時に、心のどこかでずっと感じていた違和感が解消されていく気がした。

 俺は単純に本願くんが制服を着て生徒手帳を見せてきたから、高校に行っている生徒だと思ってしまっていた。しかし、思い返せば制服しか着る服がないから着ていただけで、彼は毎日高校に行っているなんて一言も言っていない。水原さんも、高校前で話しかけた剣道部くんも理系くんも、誰も本願くんが通学しているとは言っていなかった。


「それで……あなたはどうして祈のことを? 祈がどこにいるかご存じですか?」


 本願くんのお父さんは、俺に1歩近づいて助けを求めるように言った。こんなデリバリーで来ただけの男なんて全く信頼できないだろうに、それでも本願くんの情報を持つ俺を頼らざるを得ないのだ。


「あ~……たまたま、河原で会って。〇〇町の方にある河原で。そこに本願くんはよくいます」


 「アパートのお隣さんなんです」と言えば話は早かったが、ここでいきなり住所を言うのは憚られた。本願くんのお父さんは俺を信頼できないだろうが、それは俺も同じだった。

 この人が本願くんの父親だとしても、今会った人間に住所を教えるのは防犯意識が低すぎる。


「そうでしたか……。あの、連絡先を交換してもらえませんか。祈の情報があったら少しでもいいので教えてほしいんです」

「あ、ああ、はい。LINEなら……」


 俺はお父さんの圧に押されながらLINEを交換した。『本願寿』というアカウントが追加される。


「竹原さん、ですね。ありがとうございます。今度祈に会うことがあったら、帰ってきてほしいと伝えてもらえませんか。私も探しに行こうとは思いますが、いきなり私が現れたらまた逃げてしまう気がして」

「……わかりました。警察とかには届け出ているんですか?」

「いえ……。親子喧嘩の延長で家出したのは明白でしたから。事件性のない家出人を警察が捜索することはありませんし」

「そうですか……。わかりました。今度本願くんと会ったら、お父さんが心配していたと伝えます」

「本当に、ありがとうございます」


 本願くんのお父さんは深々と頭を下げた。

 今度会ったら、と言いつつおそらく今から30分後には本願くんと会う。一気に押し寄せた情報で頭がいっぱいのまま、俺は会釈をして本願家を出た。









 まとまらない頭でハッピーコーポまで帰ると、バイク音で気づいたのか本願くんが部屋から出てきた。


「おかえりなさい! 今いい感じにご飯できたところです」

「あ、ありがとう……」


 本願くんの部屋で食べるのかと思ったが、彼は部屋から鍋を持ってきたのでそのまま俺の部屋に案内する。本願くんはいつも通り楽しそうに、鍋をローテーブルに置いて自分の家かのように食器を用意した。


「今日はザリガニと川魚のアクアパッツァを作りました!」

「あくあ……なんて?」

「アクアパッツァです。イタリア料理だったかな? 廃棄寸前のトマトをゲットできたので、使ってます。まぁレシピは適当ですが」


 鍋の中にはザリガニ、川魚、そしてトマトが入っている。ニンニクの香りがして自分が空腹だったのを思い出したが、俺はそれよりもいつ本願くんにお父さんの件を切り出すかで頭がいっぱいで、本願くんによそってもらったアクアパッツァの味はよくわからなかった。


「ザリガニってロブスターの仲間なんですよ。味も実質ロブスターだから、コスパ抜群ですよね。身が少ないのが残念」

「うん、確かに……」


 俺は話を合わせようと少しだけザリガニをかじった。でも感想がうまく出てこなくて黙っていると、本願くんは俺の様子が変なことに気づいたのか、食べる手を止めて俺を見る。

 今、言っておこう。言うしかない。先延ばしにしていい話題でもない。


「あのさ……本願寿って人、知ってる? ことぶきって書いて寿。さっき会ったんだ」


 本願くんが息を飲む音が聞こえた。見つめると、何も言わず目を泳がせている。この反応はドンピシャだ、と思わせた。


「……お父さんなんでしょ? 本願くんが家出したって聞いた。すごく心配してたよ」


 本願くんは唇を噛んで、少しだけうつむいた。しばらく沈黙が続いたが、やがて顔を上げた本願くんは諦観の表情をしていた。


「どこで。……どこで、会ったんですか」

「今日デリバリーのバイトしてた時に、たまたま『本願寿』ってアカウントから依頼があって。それで、〇〇区の家に配達しに行って。本願なんて珍しい苗字だから、もしかしたら蒸発したお父さんなのかもって思ってさ。出てきた男の人に聞いちゃったんだ。息子さんいますかって」


 本願くんは静かに俺の話を聞いている。手は膝の上で握り締められていた。


「そしたら、祈のことかって聞かれて。待ち受けの写真、本願くんとその人が映ってて。ああ、本当に父親なのかって思って。そのあと息子は家出をしているって言われたんだ」


 俺は反応を待ったが、沈黙が続いた。問い詰めたいわけではないので、優しい声を出そうと意識して息を吸う。


「高校も休学してるって聞いたよ。家出してからお父さんが手続きしたって」

「……はい。学校にはもう長らく行ってません。……家出、というのも事実です」


 本願くんは、手で顔を覆いながら認めた。今まで見てきた彼とは全く違う、張り詰めた空気をまとっていた。


「俺に事情はわからないけど……。帰れるなら帰った方がいいんじゃないかな。俺で力になれることがあれば──」

「いえ、大丈夫です。家出なんてよくないって思ってました。……家に帰ります」


 俺の言葉を遮って、本願くんは立ち上がった。


「父が探しに来たら、竹原さんにもご迷惑がかかるかもしれません。だから、僕は家に帰ります。帰った方がいい」


 本願くんは自分に言い聞かせるように言っていた。


「ウソをついてしまって、すみませんでした。それから、今まで仲良くしてくれて、ありがとうございました。本当に、楽しかったです」


 深くお辞儀をして、顔を上げた本願くんは泣きそうに見えた。でも、彼はすぐ背を向けてしまって表情がわからなくなる。


「落ち着いたら、また会おうよ。LINEもあるしさ、困ったことあったら何でも連絡して。……ごめん、月並みなことしか言えないな」

「いえ、そう言ってもらえて嬉しいです。ちょっと荷造りしてきます。アクアパッツァは食べちゃってください」


 本願くんは明るい声をしていたけど、もう振り返らなかった。背を向けたまま、俺の部屋を出て行った。

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