救いの手
先輩は俺の唇を指でつついて口角を上げた。
触れられた唇からキスされたんだという実感が体中をめぐり、俺はわけのわからない感情に襲われて熱い体を持て余し、再びしゃがみ込みそうになる。
しかし、俺の意識が逸れるのを許さないかのように、ドアに張ってあったお札が不自然に裂けて床に落ちた。
怨霊が戻ってくる。
一気に体の熱が冷め、俺は開けっ放しになっているドアを凝視した。
「……先輩。怨霊──茂久田さんが、また……」
「実はあの怨霊、茂久田さんではあるんだけどもうそれだけじゃなくなってるみたいなんだ」
「え? どういうことですか」
「普通の魂はここまで凶悪にならない。いや、なれないと言ったほうがいいかな。どれほどの恨みがあっても限度がある。1人の怨念でここまで死者を増やせるなら世界人口はもっと少ないだろう」
先輩が話す間にも気配はものすごい速さで近づいてきている。
息が荒くなる俺の手を、先輩は力強く握ってくれた。
「茂久田さんだった怨霊は同じ思いを抱えた霊を取り込んで、より強大に、凶悪に進化してる。今となっては怨霊の集合体だ。だからマコトくんを連れ去るような芸当ができたわけだね」
瞬きをしたら、その一瞬の隙にどす黒い靄が部屋の出入り口に立っていた。
靄には数えきれないほどの口があり、目は巨大だが1つしかない。裸足の脚が何本も不規則に生え、床に食い込んでいる。
「……来ました。正面です」
俺の言葉に先輩はドアの方を見た。
先輩にとってはなんてことはない、ただ汚いリビングのドアが開いているだけだ。その空間に向かって、語りかけた。
「こんにちは。僕は菩提寺静。少しお話ししませんか」
靄に反応はなかったが、意識が俺から先輩に移ったように感じた。
「茂久田さん、山本は死んだよ。そこの廊下でハサミを喉に刺してね。キミに憑依されて精神が耐えられなかったんだ。ちょっとは憂さ晴らしになったかな。それか利用できなくなって残念かもしれないね」
靄の向こう、暗い廊下に目が行って、何かを視認する直前で見るのをやめた。無駄にトラウマが増えるだけだ。
加害者の死を告げられても、靄は微動だにしなかった。もはや奴が死んでいようがなんだろうがどうでもいいと言わんばかりだ。
先輩の言った通り、もう茂久田さんだけの存在ではないということなのだろう。
「キミが──いや、キミたちがされたこと、知るだけでも辛かった。だからキミたちの所業を、僕は責められない。やり返して当然だという意見だってあるだろう。僕も耳触りのいい言葉を並べて自己満に浸ろうとは思わない。……裁判まで辿り着けても、大した罪にはならないもんね」
先輩の言い方は物悲しかった。彼女たちの無念に寄り添い、心を痛めている。
それが伝わったのか、靄が無数の口を動かした。
『ア、アア……あぁあ……ッ』
意味を成さない音が口から発せられる。それは慟哭にも聞こえた。
『……ホシィ……ほしい……マコト……』
ひとつ目がぎょろりと俺を見た。不格好に目が歪む。
思わず体を強張らせると、先輩が俺の手を握り直して深く息を吸った。
「でも、マコトくんはあげない」
その宣言に歪んでいた目が大きく見開かれ、先輩に向く。それを見て、目は歪んでいたのではなく俺に笑いかけていたのだと気づいた。
靄は味方ではないとわかった先輩に歯を剥き出し、何本もの脚が床を踏み鳴らす。今にも飛びかかって来そうだった。
「マコトくんは関係ないよ。キミたちを苦しめた男どもとマコトくんは違う。彼を利用して復讐を果たすのは、キミたちのワガママだ。それだけは許さない」
靄の見えていない先輩は、変わらぬ口調で続けた。
「だから、ごめんね。消えてもらうよ」
先輩は目を伏せて僅かの間黙祷してから、手首に付けていた数珠を正面に投げつけた。怨霊は何本もの脚を動かして避け、数珠は床で弾けて廊下に広がる。
「マコトくん、怨霊がどこにいるか教えて」
「今は天井に張り付いてます……。こっちを見てますが動きません」
「天井じゃ難しいな。もうちょっと近づいてもらおう」
言いながら、タバコを咥えて火をつける。
俺が指差した方向に先輩が煙を吐き、怨霊は煙を嫌がって天井を離れた。壁にへばりついていたが、先輩がピアスを外し始めると歯を鳴らして威嚇をし突如俺めがけて飛びかかってくる。
「うわっ!」
俺が腕で顔を庇いながらしゃがむと、先輩が俺の前に手を伸ばし、寸でのところで怨霊は手を避けて飛び上がる。飛び上がりすぎて煙に触れそうになると不自然な動作で床に落ちた。
もっと距離を取ればいいのに怨霊が部屋を出ては行かないのは、廊下に数珠が散らばっているせいかもしれない。部屋の四隅にピアスを投げていく先輩とそれを恨めしそうに睨む目玉を見て、怨霊の行動範囲をどんどん狭めているのだと察する。
しかしこの怨霊は知能が高い。このままではこちらが隙を見せるまで場が膠着するのでは思った矢先、案の定、怨霊が床に伏せたまま攻撃してこなくなった。
(この場を切り抜けるためには──)
先輩の手を握りしめながら必死に考える。
俺の気力と体力が怨霊に勝るわけがない。持久戦に持ち込まれたら負けるのは生きた人間だ。
つまり、早々に決着をつけなければならないのは俺だ。
ここまで思い至った時、俺は先輩の手を振りほどくと怨霊に手を伸ばした。
「そんなに欲しいなら、あげるよ」
「! マコトくん何して──」
静先輩の加護を失った俺は、脳天を鉄球に殴られたような痛みと衝撃に膝をついて倒れ込む。好機とばかりに怨霊が大きく口を開けて飛び込んできた。
腕に噛みつかれ激痛が走る。顔を歪めながら俺は先輩を見上げた。
「先輩! 俺の腕です!」
ギリギリと歯が食い込んで、物凄い力で引っ張られる。
痛みで声が漏れるのと、先輩が俺の腕を掴むのが同時だった。
「茂久田さん。もういいんだ、苦しまなくて」
静先輩に触れられた怨霊はぴたりと止まり、口々に叫び声を上げてその合唱と共に靄が霧散していく。
(あ……)
消えゆく靄の中に少女の面影が見えた。泣いていたのか、目元と頬が濡れ瞳は充血している。
しかし今はもうそこに苦痛はなく、どこか晴れやかな表情で俺を見ていた。思わず手を伸ばしかけると、俺に頭を下げて消えていった。カーテンが閉め切られた暗い部屋に、光が降り注いで見える。
その光景に目を奪われていると、背後から大きなため息が聞こえた。
「もう~マコトくん。怨霊に腕食わせるなんて危なすぎるよ。ホントに無茶するのやめて。お願いだから」
「俺に学校中の悪霊を憑依させた人の台詞ですか、それ」
珍しくしっかり困っている静先輩に笑って言うと、目の前がぐらりと傾いた。
床に倒れるのを先輩が抱きとめてくれる。温かくて安心できて、自然と目が閉じていく。
「ほら、無茶するから。しっかり寝てね」
先輩の声が穏やかに響く。まだ先輩と喋っていたいのに、せめて返事くらいしたいのに、もう口が動かない。
意識を手放す瞬間、唇に何かが触れた気がした。
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