救出

 静先輩は俺のいる部屋──ゴミ屋敷状態のリビングが見えているかのように指示を出した。

 腐ったゴミはひとつにまとめて南の窓辺へ。

 水回りは入念に拭くこと。

 俺はこの2つの指示を実行しながら、頭痛と吐き気、加えて三半規管が壊れたかのようなめまいと戦っていた。

 いや、正直戦えていない。負けている。今にも座り込んで動けなくなりそうだった。


(……いったい、あとどのくらい耐えれば……)


 先輩は電話口で『到着するまでもう少しかかる』と言っていた。

 俺が新幹線から落ちてどのくらい経ったのかわからないが、名古屋周辺から兵庫まで少なくとも2時間はかかるだろう。

 少し前にお守りが完全にちぎれ、今は床に落ちている。代わりに持っていたお札はすべてドアに貼ってあった。怨霊の侵入は免れているものの廊下の圧は変わらない。俺に突き刺すような視線を注いでいるのがわかる。

 17歳で死んでしまった茂久田さん。

 今はもう怨念だけになってしまった女の子が、俺を渇望している。


「俺の体……そんなに欲しいんだ……」

『ほしい』


 思わず呟くと、耳元で女の子の声がした。

 声の方を振り返った瞬間、脚の力が抜けて俺はそのまま体を投げ出すように倒れていた。


「はっ……、はっ……!」


 どんどん息が苦しくなっていく。

 首を絞められているような、ビニール袋を被せられているような。俺は1人で床に倒れているだけなのに、空気を吸えずにもがいていた。

 バン!とドアが叩かれ、お札が1枚剥がれた。


(……ああ……もう……)


 入ってくる。怨霊が、地縛霊が、何人も呪い殺した女の子が。

 抗えずに目を閉じた。今にも意識が途絶えそうだった。


(……静先輩……)


 最後に思ったのは先輩のことだった。思い出が浮かんでは消えていって、どこか幸せな気持ちになる。このまま死ぬんだなと思った、その時。

 ドアの前にあった圧が突然消えた。

 直後にドアが開かれ、金髪の男性が内見にでも来たかのように平然と入ってくる。


「せ、先輩……?」


 幻覚か?

 床に這いつくばるしかない俺からしたら、先輩はあまりにも普通に立っていて信じられなかった。しかし、ずっと俺を監視していた怨霊の気配はすっかりなくなっており、そんなことができるのは本物の先輩だけだ。

 やっと呼吸を取り戻した俺は、それでも立ち上がることはできずに先輩を見上げた。


「もう大丈夫だからね」


 先輩はそう言って俺の前に膝をつくと、すぐに俺の頬に触れる。触れられたところからじわりと暖かさが広がるのがわかったが、いつものように一気に体調がよくなる感覚はなかった。

 俺の顔を見た先輩が「……手強いな」と呟く。効果が薄いことに底知れぬ不安を覚えながら先輩を力なく見返えすと、安心させるように目を細められた。


(……抱きしめてほしい……)


 不安から、回らない頭でそんなことを思う。

 先輩は黙って少し目を伏せた後、俺の頬に手を添えたままゆっくり近づいてきた。

 もしかして本当に抱きしめてくれるのかな、と思った矢先、気付けば唇が重なっていた。


「っ……!」


 俺が目を見開く間に、先輩は2回ほど唇を食んで顔を離す。

 一気に体が熱くなるのを感じながら、俺はひたすら目を泳がせた。


「……よかった、効いた」


 先輩は再び俺の顔を覗き込むと、今度はホッと息を吐いた。

 俺はいまだ今起きた出来事を飲み込むに至らず、目を泳がせ続けながら自分の唇に触れる。


「え、あの、今──」

「どう、立てる?」


 先輩に手を引かれ、混乱したまま立ち上がる。

 吐き気も頭痛も、めまいも息苦しさもすべてがなくなっていた。

 しかし、俺は体調の改善を喜ぶよりも、今起きたことにすべての意識を奪われていた。


「……先輩、今俺に──」

「ああ。もっとしてもよかったね」

「っ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る