メランコリーキッチン

石野 章(坂月タユタ)

メランコリーキッチン

 冷蔵庫の奥が、どこか別の世界へと繋がっているらしい。そう気づいたのは、諒介がこの部屋を出て行ってから、ちょうどひと月が過ぎたころのことだった。


 湿った匂いが漂うキッチンの片隅に、黙って鎮座している銀色の筐体。諒介がせっせと買い込んだ食材や、缶ビールの山は跡形もなく消え失せ、今はといえば、小食な私が気まぐれに買い足すヨーグルトくらいしか入っていない。


 だから、冷蔵庫の奥の壁が忽然と消えていることに気づいたのだ。「あれ?」と半ば無意識に手を伸ばすと、私の指先は、明らかに冷蔵庫の奥行を越えて、ずるずるとどこまでも潜り込んでいく。


 慌てて裏をのぞいてみれば、そこには年季の入った灰色の埃が、無秩序に絡まる配線を捕食する光景が広がっているだけ。穴はどこにも空いていない。向かい合う壁も健在で、当然のことながら、そこに秘密の扉なんてものはないのだった。


 私はもう一度、冷蔵庫の中を覗き込む。飲みかけの麦茶のペットボトルの向こうに広がっているのは、墨を塗りたくったみたいな底知れぬ闇だった。奥に何かがあるかは見えない、ただの無愛想な暗がり。


 けれど、不思議と冷気が漏れている様子もなかった。まあ、ならいいか、と半分寝ぼけていた私は、そっと扉を閉じた。それから歯を磨いてパジャマに着替えて、布団に体を沈める。目を閉じれば、冷蔵庫の奥にぽっかりと空いた暗黒の穴のことなんて、昨日のランチに食べたものと同じくらい、あっさり記憶の底へ沈んでいった。黒い穴だけに、頭のブラックホール行き。


 しかし、奇妙なことが起こり始めた。数日が過ぎたある夕暮れ、残業でくたびれた体を引きずりながら帰宅した私は、乾いた喉に麦茶でも流し込もうと冷蔵庫の扉を開ける。そして、目を丸くした。


 そこにあったのは、皿にのせられ、表面がこんがりと焼きあがった美味しそうな魚だった。それだけじゃない。隣には、なめこがゆらゆら浮かんだ味噌汁まで、うちの茶碗にきちんとよそわれていた。しかも、ご丁寧にもラップで蓋までしてある。


 一瞬、諒介がこっそり戻ってきて、罪滅ぼしの夕食でも置いていったのかと思った。でも現実にそんなことは起こらない。諒介の合い鍵は、出ていくときにしっかり回収したはずだ。第一、彼にそんな気の利いた芸当ができたなら、今ごろ二人は幸せに暮らし続けていただろう。


 恐る恐る焼き魚に手を伸ばしてみる。指先に触れた瞬間、ふわりと立ちのぼる香ばしい匂いが鼻をくすぐった。意味が分からない。私の冷蔵庫に、なぜこんなものがあるのだろうか。


 ただそのとき、正直な私の腹が間抜けな音を響かせた。少しだけ考えてみたものの、結局欲望に屈してその皿を電子レンジに放り込み、軽やかにボタンを押す。古いレコードのように回る魚を見ながら、私は滲む涎を飲み込んだ。


「いただきます」


 小さくつぶやいた声は、冷えた部屋の空気に吸い込まれて、どこかへ消えていった。箸を入れると、白い湯気をまとった魚の身がほろりとほどける。口に運べば、皮の焦げ目の苦みに寄り添うように、脂の甘みが舌の上で溶けていった。美味しい。しばらくまともな食事をしていなかった身には、罪深いほどの滋味だった。


 続けて、味噌汁をすする。なめこのぬめりが喉を滑り落ちていき、味噌のやわらかい塩気が舌に広がった。ちゃんと出汁をとってある。ずいぶん料理がうまい冷蔵庫だ。私はキッチンにずんぐりと居座る、無駄に大きな料理人を眺めた。子どもができるかもしれないからと、わざわざ大きめのファミリータイプを選んだのは誰だったか。未来に投資したつもりが、今となっては詐欺に遭ったような気分がした。


 次の日も、その次の日も、冷蔵庫には夕食が用意されていた。昨日は回鍋肉、今日は鍋焼きうどん。いったいどこから湧いて出たのか、いまだに見当もつかないけれど、味はいつだって確かだった。私はすっかりその贅沢に味を占め、ほとんど毎日のように家庭のぬくもりを口に運んだ。冷蔵庫直送デリバリー、あるいは新手のサブスクかもしれない。そんな馬鹿げた想像をしては、ちゃっかり楽しんでいる自分がいる。


 正直なところ、この不思議な夕食はかなりありがたかった。私は料理がどうにも苦手で、これまでは料理好きの諒介にすべてを任せていたのだ。その代わり、掃除も洗濯も私の担当。公平な分担のつもりだったけれど、本当は彼に掃除を任せると、落ちきらない汚れやら洗わない雑巾の匂いやらに、こちらの神経が逆撫でされるからだった。


 そういえば、冷蔵庫に現れる夕食は、どこか諒介の料理と味付けが似ている。ふと、キッチンに立つ彼の姿がよみがえった。整った横顔に、少し明るい髪色が蛍光灯に反射して、まるで雑誌の料理特集の一枚みたいだった。顔だけは、本当に惜しいくらい良かった。料理の腕も、そこそこ。つまり、見栄えだけなら完璧な彼氏だった。


 でもそれ以外は、からっきしだった。仕事は長続きせず、転職を繰り返しては文句ばかり垂れ流す。金曜の夜は決まって缶ビールとスマホゲームの二刀流。約束の時間は時計が存在しない惑星から来た人みたいに守れない。おまけに、洗濯機の中に靴下を化石みたいに放置する癖まであった。


 いいや、やめておこう。もう別れた男のことなんて。四年半も捧げてしまった相手はどこにもいない。少なくとも、私の隣には。


 思い返せば思い出すほど、彼はろくでもなかった。でも、それでも好きだったのだから、私の見る目のほうが深刻にダメだったのかもしれない。未練なんてもうない、と言い聞かせるたび、逆に胸の奥で小さく何かが燻ぶるのを感じる。まるで消し損ねた線香の煙のように。


 私が冷蔵庫に胃袋をがっちり鷲づかみにされていた、ある日のこと。いつものように銀色の扉を開けた瞬間、私はまたもや目を丸くした。


 そこに鎮座していたのは、眩しいほどの朱をまとったいくら丼。まるで宝石箱をそのまま白米にぶちまけたみたいな光景だった。


 やったあ、と小躍りしかけた矢先、胸の奥が針で刺されたようにずきりと痛んだ。このいくら丼、どこかで見た覚えがある。いや、この器もそうだ。私のものだけれど、やたらと大きすぎて普段は食器棚の肥やしになっている。


 だから、記憶の糸をたどれば答えはすぐに浮かんできた。ああ、あの時だ。すっかり忘れてたのに、なぜか鮮明に蘇ってくる、あの場面。


「ほら、これあげるよ。スタンプがたまったら、好きなものを何でもご馳走してやる」


 そう言って諒介がにやついた顔で差し出したカード。まだ付き合って一年ほどの頃だったと思う。名刺くらいの白い紙に、器用とも不器用ともつかない手描きの猫がちょこんといて、その横には十個の四角い枠。いわば私専用のジム通いスタンプカードだ。


 当時ダイエットに挫折しかけていた私を見て、彼が思いつきで作ったらしい。痩せたい人間へのご褒美が食べ物ってどうなのよ、と突っ込んだものの、結局は花丸のスタンプを押してもらうたびに子供みたいに浮かれていた。あれほど足が向かなかったジムに、十回も通ったのだから効果はあったのだろう。まあ、痩せた記憶はあまりないけれど。


 そのとき私がおねだりしたのが、いくら丼だった。せっかくならと、諒介はわざわざ車を飛ばして漁港まで出向き、獲れたてのいくらを抱えて帰ってきた。台所で炊きたてのご飯を丼にどさりと盛り、その上からいくらを、ざあっと雨を降らすみたいにかけていく。粒は宝石のように透きとおり、ひとつひとつが小さな太陽みたいに艶めいていた。


 あの時の味は、いま思い返しても鮮烈だった。幸福の輪郭を舌でなぞったら、こんな味がするかもしれない。そんな風にすら思った。


 あの時のままの二人でいられたらと、どれほど願ったことだろう。季節も時間も止まって、笑い声だけが部屋に満ちている、そんな幻のような世界に閉じ込められていたかった。


 でも、そういうものだ。価値観の違いなんて、仰々しい言い方をしなくてもいい。たとえば、洗濯物を裏返したまま干すか、きちんと直してから干すか。あるいは、トイレットペーパーの三角折りを律儀にするか、しないかとか。そんな取るに足らないボタンの掛け違いが、日に日に積み重なっていく。小石くらいのつもりが、気づけば背中に岩山を背負わされているような重荷に変わり、やがては二人を真ん中から引き裂いてしまう。


 わかっていたはずなのに、止められなかった。ドラマで見飽きた筋書きで、友達の愚痴でも耳にタコができるほど聞いていた話だ。それなのに、いざ自分の目の前に転がってきたとき、私は情けないくらい右往左往するだけで、正しい答えを出せなかった。だから、私たちは別れたんだ。


 いくら丼をほおばると、ひと粒ひと粒が口の中で小さな水風船みたいにはじけ、海の匂いを含んだ甘じょっぱさが舌に広がった。ぷちり、ぷちりと連鎖して弾けていくその感触は、まるで暗い胸の奥を少しずつ浄化していくみたいで、妙に胸に沁みた。


 ああ、いっそ嫌なことは全部いくらになってしまえばいいのに。諒介の横顔も、終わりの見えない後悔も、ぜんぶぷちっと噛み砕いて、舌の上で溶けて消えてしまえ。そう思えば思うほど、私は無心にご飯をかき込んでいた。ただただ、涙がとめどなく溢れて止まらなかった。


***


 冷蔵庫の扉を開けると、今日もきちんと夕食が待っていた。皿の上の生姜焼きは美味しそうに私を誘惑しているのに、目はどうしてもそこに向かわない。その奥にぽっかりと口を開けた深い闇へと吸い寄せられてしまう。


 きっと、あの向こうは私が選ばなかった未来だ。いや、選べなかったのかも。諒介と、相も変わらず痴話喧嘩をしながらも、何となく幸せに暮らしている世界。冷蔵庫はきっと、そこへつながる抜け道なのだろう。向こうの諒介は、今も私にご飯を作り続けてくれているのかもしれない。


 一瞬だけ、食卓を挟んで笑い合う二人の姿が、闇の向こうにちらりと灯った気がした。幻だとわかっていても、胸がわずかに疼く。あのとき少し違う言葉を選んでいたら、少し違う態度をとっていたら、私はまだそちら側に座っていたのだろう。無数の後悔が、泡のように浮かんで弾けて消えていく。


 でも、でもきっとこれでいいのだ。選ばなかったことばかり、後悔ばかりが積もっていくけれど、どの道を歩いたって結局は同じなのだろう。あちらの私は、諒介のだらしなさに毎日うんざりして、冷蔵庫からこちら側をうらやましそうに覗き込んでいるかもしれない。そういうものなのだ。いま私が抱えている虚しさも、あちらの私の皿に盛られた不満も、どちらも大差はないだろう。


「結局、人は自分の人生しか食べられないってことか」


 ぽつりと声に出して、私は冷蔵庫の扉を閉めた。生姜焼きの存在を無理やり頭の中からふるい落として、代わりにコンビニで買った弁当を電子レンジに滑り込ませる。カチリと回り始めるターンテーブルを見つめながら、私は私の道を生きていくのだと、誰に聞かせるでもなく思った。だって、そうするしかないのだから。


 もしまた過去を悔やむ夜が訪れたとしても、それだって私の人生の一部なのだ。後悔も未練もため息も、全部まとめて丼に盛りつけてしまえばいい。味が濃かろうと薄かろうと、かき込んで飲みこんでやる。そうして私は、ようやく自分の腹の底に人生を引き受けていくのだ。


 チン、と乾いた音がキッチンにひびいた。麦茶を取り出そうと冷蔵庫を開ける。そこにはもう、生姜焼きの影すら残っていなかった。


(了)

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メランコリーキッチン 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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