第19話

私の叫び声は、勝利の歓声に消されそうになった。

だがアシュトン様の異変に気づいた、近くの騎士がすぐに反応する。


「アシュトン様が、倒れられたぞ。」

「医者を呼べ、早く医者を呼んでこい。」


広場は、再び混乱の渦に飲み込まれた。

勝利の喜びは一瞬で消え去り、皆の顔に不安の色が浮かぶ。

ダリウスさん達が、血相を変えて駆け寄ってきた。

彼らは人々の壁を作り、私とアシュトン様を混乱から守る。


「リリアーナ様、アシュトン様の容体はいかがですか。」

「分かりません、ですがひどい熱です。早く、安全な場所へ運びましょう。」


私の言葉に、ダリウスさんが力強く頷いた。

彼はアシュトン様の体を、軽々と抱え上げる。

その屈強な腕に抱かれながら、アシュトン様は苦しそうに息をしていた。


「城へお連れします、道を開けてください。」

ギデオンさんが、先導して人混みをかき分けた。

私達は民衆の心配そうな視線を浴びて、急いで城へと戻った。


城の医務室は、負傷した兵士達で埋まっていた。

簡易的な寝台が、所狭しと並べられている。

血と汗の匂いが、部屋中に立ち込めていた。

私達は一番奥にある、領主の私室へアシュトン様を運ぶ。

そこが今一番、清潔な場所だったからだ。


大きな寝台に、アシュトン様の体がそっと横たえられた。

エマが素早い動きで、冷たい水と清潔な布を用意してくれた。

彼女はもう、昔のような臆病な少女ではない。

自分の役割を理解して、立派な侍女に成長していた。


「リリアーア様、これをどうぞ。」

「ありがとう、エマ。」


私は布を受け取って固く絞り、アシュトン様の熱い額に乗せた。

彼の顔色は紙のように白く、唇は乾ききっている。

浅く速い呼吸を繰り返す胸が、苦しそうに上下していた。

城で一番の腕を持つという、老医師がすぐに駆けつけてくれる。

彼はアシュトン様の体を診察すると、厳しい顔で首を横に振った。


「不思議なことに、外傷はほとんど治っています。」

「ですが体の中に、強力な呪いの力が残っているようです。」

「それが高熱の原因でしょう、このままでは命に関わります。」


医師の言葉に、部屋にいた全員が息を呑んだ。

ダリウスさんが、医師に詰め寄る。


「治す方法はねえのか、あんたが一番の医者なんだろ。」

「落ち着け、ダリウス。」

ギデオンさんが、その肩を抑えた。


老医師は、悔しそうに顔を歪める。

「申し訳ありません、私にできるのは薬草で熱をわずかに下げることだけです。」

「これほど強力な呪いを解くには、王都の大神殿にいる神官様のお力が必要でしょう。」


王都という言葉に、誰もが絶望的な表情を浮かべた。

今の私達にとって、王都は敵地と同じだ。

助けを求めたところで、まともに取り合ってくれるはずもない。

それどころか、この機会に辺境領を潰しにくる可能性さえあった。


重い沈黙が、部屋を支配する。

アシュトン様の、苦しそうな寝息だけが響いていた。

私は眠る彼の顔を見つめ、必死に考えを巡らせる。

何か方法があるはずだ、諦めるのはまだ早い。


前の世界の知識が、私の頭を駆け巡った。

心理学の知識は、直接的な治療には役立たない。

だが人の心を癒やすことは、体の治癒力を高めることに繋がるはずだ。

呪いというものが、人の精神力と深く関わっているのなら。


私は、一つの可能性に思い至った。

「医師様、一つお尋ねします。」

「アシュトン様の呪いは、どのような性質のものでしょうか。」


私の問いに、老医師は少し驚いたようだ。

だがすぐに、真剣な顔で答えてくれる。


「おそらく、精神に作用する呪いです。」

「悪夢を見せ続け、気力を奪い、少しずつ弱らせていくのです。」

「非常に、たちの悪い呪いじゃ。」


やはり、そういうことか。

敵は最後まで、私達の心を攻撃してくるのだ。

ならば、こちらも心で対抗するしかない。

私がアシュトン様の心の中に入り、彼を悪夢から救い出す。

そんなことが、本当に可能なのだろうか。

確信はなかった。でも、今できることはそれしかない。


私は、覚悟を決めた。

「皆様、少しだけ、私とアシュトン様を二人きりにしてください。」

私の突然の申し出に、誰もが戸惑いの表情を浮かべる。

ギデオンさんが、代表して私に尋ねた。


「リリアーナ様、何をなさるおつもりですか。」

「アシュトン様の、心の中に入ります。」

「心に、ですと。」

「はい、私なら彼を悪夢から救い出せるかもしれません。」

「保証はありませんが、今の私達に残された唯一の希望です。」


私の真剣な瞳を見て、ギデオンさん達は何かを察したようだった。

彼らは顔を見合わせ、静かに頷き合う。


「分かりました、アシュトン様のことをお頼み申します。」

「リリアーナ様、無茶だけはしないでください。」

「ええ、分かっています。」


ダリウスさん達が、心配そうな顔で部屋を出ていく。

最後に残ったエマが、私の手をぎゅっと握りしめた。


「リリアーナ様、信じております。」

「ありがとう、エマ。」

彼女の励ましに、私の心は少しだけ軽くなった。


部屋には私と、眠るアシュトン様だけが残された。

私は彼の寝台の横に椅子を寄せ、深く腰掛ける。

そして彼の大きな手を、そっと両手で包み込んだ。

ひどく熱いが、その手から確かな生命力が伝わってくる。


目を閉じて、意識を集中させた。

私の全ての意識を、握りしめた彼の手へと注ぎ込む。

彼と私の心を、繋げるのだ。

それは私が今まで、試したこともない未知の領域だった。

だが不思議と、恐怖はなかった。

この人を救いたい、その一心だけが私の心を支配していた。


私の意識が、ゆっくりと現実の世界から離れていく。

温かい光に包まれたかと思うと、次の瞬間、私は全く別の場所に立っていた。

そこは暗く、冷たい霧に覆われた荒野だった。

空には月も星もなく、不気味な黒い雲が渦巻いている。

足元には無数の折れた剣や、砕けた鎧が散らばっていた。

ここは戦場だ、そしてアシュトン様の心象風景なのだ。


遠くから、うめき声や悲鳴が聞こえてくる。

霧の向こうに、人影が見えた。

アシュトン様だった。

彼はたった一人で、次々と現れる魔物の幻影と戦い続けている。

その体は傷だらけで、表情は深い絶望に彩られていた。


「どうしてだ、なぜ誰も救えない。」

「俺が、弱いからだ。」

彼は自分を責める言葉を、何度も繰り返している。

彼の周りには、倒れていく仲間達の幻影が見えた。

先代辺境伯である、彼の父親の姿もある。

『お前のせいだ、アシュトン。』

幻影達は、彼を指差して責め立てる。

これこそが、彼を苦しめる呪いの正体だったのだ。


私は、彼の元へ駆け寄ろうとした。

だが私の体は、透明な壁に阻まれたように前に進めない。

私の声も、彼には届かないようだった。

彼は私の存在に、全く気づいていない。

ただ虚空に向かって、剣を振り続けている。

このままでは、彼の心は完全に壊れてしまうだろう。


どうすればいいのか、私の声が届かないのなら別の方法で知らせるしかない。

私はそっと目を閉じた。

そしてこの絶望の世界で、歌を歌い始めた。

あの希望の歌を、私とこの土地の人々の想いが込められた歌を。


私の歌声は、最初は弱々しかった。

荒野を吹く、冷たい風に消されそうだった。

それでも、私は歌い続けた。

アシュトン様への想い、この土地への想い、未来への祈り。

その全てを、声に乗せて。


すると、奇跡が起きた。

私の歌声が、小さな光の粒となってこの闇の世界に舞い始める。

光の粒はホタルのように、彼の周りを飛び交い始めた。

その優しい光に、アシュトン様がはっとしたように顔を上げる。

彼は初めて、私の方へと視線を向けた。

そのうつろな瞳が、私の姿を捉える。


「リリアーナ。」

彼の唇が、か細く動いた。

私の声は届かなくても、私の想いは確かに彼に届いたのだ。

私は涙をこらえながら、彼に向かって力強く頷いた。

そして、歌い続ける。

私の歌声は、次第に力を増していった。

光の粒は数を増し、この闇の世界を少しずつ照らし始める。

彼を責め立てていた幻影達が、光に触れて苦しそうに顔を歪めた。

そして次々と、霧の中へと消えていく。


「やめろ、お前は一人で苦しむべきなのだ。」

「誰も、救うことなどできはしない。」

闇の奥から、呪いの声が響いてくる。

だがその声も、希望の歌声の前では力を失っていくようだった。

アシュトン様は、呆然とその光景を見つめていた。

彼の心の中で、絶望と希望が激しくせめぎ合っている。

私は彼に向かって、そっと手を差し伸べた。


「アシュトン様、あなたは一人ではありません。」

「あなたの痛みは、私が半分背負います。」

「あなたの罪悪感も、あなたの悲しみも全て。」

「だから、もう一人で戦わないでください。」

私の想いが、直接彼の心へと流れ込んでいく。

彼と私を隔てていた壁が、音を立てて砕け散った。

私は彼の元へと、駆け寄ることができた。

そして傷だらけの彼の体を、後ろから優しく抱きしめる。


「リリアーナ。」

「はい。」

「俺は、ずっと怖かったんだ。」

「また、大切なものを失うのが。」

彼は初めて、私に弱さを見せた。

子供のように、声を震わせて。

「ええ、知っています。」

「俺は、弱い人間だ。」

「いいえ、あなたは誰よりも強い人です。」

「そして、誰よりも優しい人です。」

私は彼の背中に、自分の頬を寄せた。


私の温もりが、彼の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。

彼の体から、黒い靄のようなものが立ち上り始めた。

それが彼の体を蝕んでいた、呪いの正体だった。

呪いは私の歌声と、彼の生きようとする強い意志の前に居場所を失う。

黒い靄は断末魔の叫びと共に、完全に消え去った。


それと同時に、この悪夢の世界が音を立てて崩れ始めた。

闇が晴れて、空から温かい光が差し込んでくる。

荒れ果てた戦場は、いつの間にか美しい花畑へと変わっていた。

私達は花畑の真ん中に、二人きりで立っている。

アシュトン様は、ゆっくりとこちらに振り返る。

その顔には、もう苦悩の色はなかった。

穏やかで、澄み切った表情だ。

彼が本来持っていた、優しさに満ちた顔だった。


「ありがとう、リリアーナ。」

「君が、俺を救ってくれた。」

「いいえ、あなた自身が打ち勝ったのです。」

私達は顔を見合わせ、微笑んだ。

彼の体が光に包まれ、次第に透き通っていく。

現実の世界へ、戻る時が来たのだ。


私もまた、温かい光に包まれる。

意識が、急速に浮上していくのを感じた。

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