蒸気と恋心

奈良まさや

第1話

第一章 夢の車、親孝行


 まだ麦の青さが残る村のはずれ、土間の奥で湯気が白蛇のように揺れていた。

 釜の腹を抱えた木車、黒く煤けた銅管、鍋蓋を継ぎ足した弁。娘の華奢な肩が、荒縄で括った梁から吊るされた滑車を引くたび、ぎい、と軋む音を上げる。


「お初、もう少し右。釜の座りが歪んでらあ」


 声の主は幼馴染の九兵衛だ。十七にして長身、腕は太いが喧嘩は負けたことがない。その上、手先は器用で、針金も板金も、言われたとおりに曲げてしまう。

 剣術は、彼の師が「最強の無名の流派」と呼んでいる新しい分派で、江戸に出ても名の知れた高弟であった。


「右は一分、左は半分。……そこで止めて」


 お初は目を細め、指先で弁の遊びを確かめた。煤の粉に染まった頬は汗で光り、普段ののんびりした表情が、そのときだけは刀の背のように鋭くなる。

 彼女がこの「車」を作り始めたのは、昨秋、母が床に伏せてからだった。腰が弱り、遠出が難しい。だが一度でいい、伊勢の大神さまに礼を言いに行きたい――母が笑ってそう言った夜、お初は煤けた手帳に、竹と鉄の夢を描きはじめた。


 地面に置かれた木板の上で、釜の水がぐらりと揺れる。お初は火口に藁束を差し込み、九兵衛は慎重に火加減を見る。

 やがて――


「弁、開けるよ」


 ドン、と低く腹に響く音。太い銅管から解き放たれた蒸気が歯車を噛み、鎖が唸りを上げて前後の車輪を押し出した。土間の外、朝の光の中へ、黒光りする「車」は、最初ゆっくりと、すぐに猫の跳ねる速さで、土埃を上げて進む。


 軒先の雀がいっせいに飛び、井戸端の女たちが桶を落とす。


「妖怪の乗り物だぁ!」


 年寄りが腰を抜かし、豆腐屋の音頭が止まる。だが、お初は弁を締め、車体をくるりと回して戻してきた。長い竹の棒に括りつけた「舵」が、左右の車輪に微妙な偏りを生み、まるで舟が川を読むように、道幅を滑る。


「九兵衛、ブレーキ!」

「お、おう!」


 足木に仕込んだ木栓を蹴り込むと、車はぎゅ、と音を立てて止まった。二人は顔を見合わせ、そして笑う。笑いながら、同時に地面に座り込み、そのまま仰向けになった。天の白さが眩しい。


「できたね」

「ああ。できちまったな……お初」


 そのとき、背後からゆっくりとした足音がした。

 戸口に、お初の母が立っている。痩せてはいるが、目だけは若いころのまま澄んでいた。


「まあ……ほんに、走るんだねえ」


 お初は慌てて立ち上がり、煤のついた両手を前掛けで拭いた。


「母さま。伊勢まで、これで行こう。揺れはするけど、馬よりは楽だよ。……わたし、どうしても、母さまに見せたいんだ。海の光も、伊勢の松も」


 母は目頭を押さえ、静かに頷いた。

「行こう。神さまに、お礼を言いにね」


 村は最初こそ騒いだが、次第に面白がり、最後には餅と酒が振る舞われた。

 お初は車の側板に楷書で二文字を書きつける――「日和」。

 九兵衛は笑って言った。


「いい名だ。晴れ女の車だ」

「いつか海も越えるから。日と風を読む舟の名だよ」


 翌朝。薄靄のなか、母を毛布でくるみ、荷を括り、火種を甕に詰める。

 九兵衛は、腰に短刀を差し、肩に縄をかけた。強がってはいるが、指の先が少し震えているのを、お初は見逃さなかった。


「怖い?」

「怖いに決まってらあ。けど、お前と母上が笑ってりゃ、俺は前に進むんだ」


 日和は、村の辻を抜け、野面を割り、街道の土煙の先へ、ゆっくりと、そして確かに走り出した。

 親孝行の旅は、歓声と手拍子に送られて始まった。


---


第二章 伊勢の道、風の噂


 街道は、麦の穂の間を渡る風の匂いがした。

 日和の釜は一日二度、水と薪を求めて止まる。止まるたびに人が集まり、止まるたびに笑いが増え、また噂が広がる。


「お武家さまの御道具かい?」


「いやいや、村娘の知恵だとよ。世も末だ」


「末じゃないよ、始まりだよ」


 お初はそう言って笑った。

 母は車上から手を振り、子どもたちに飴玉を配る。九兵衛は人だかりの外側で、視線の鋭い者を探す癖がついた。

 ある宿場で、派手な羽織の男が、煙管の灰をはたきながら低く呟いたのを、耳が拾った。


「運上金を握る越後屋に見せりゃ、千両札の雨が降るぜ」


 別の町では、旅籠の奥で浪人が二人、膝を寄せ合っていた。


「車の図面を押さえりゃ、御家再興の目もあろう」


 九兵衛は、夜番を買って出た。お初には言わない。言えば、彼女はきっと申し訳なさそうに笑って、また釜の調整に没頭してしまうから。

 彼は眠る母の足元で膝を抱え、闇に馴れる目で障子の隙間を見張った。

 音は、まず屋根から落ちた。瓦を踏む、猫ではない重さ。


「お初、起きろ。静かに、火を消せ」


 ささやき声に、お初は瞬きもせず頷き、火口を塞ぐ。闇が濃くなる。

 障子がするりと動き、影が二つ、床に伸びた。

 次の瞬間、九兵衛は躊躇なく飛び込んだ。障子を肩で破り、影と影の間に身をねじ込ませる。短刀が鳴り、男の手首が壁に打ち付けられた。もう一人が抜き身に手をかけた刹那――


 轟、と音がして、部屋いっぱいに白い霧が走った。

 お初が、釜の逃し弁を指で弾いていた。熱い蒸気が障子も畳も洗い流し、影は咳き込み、目をこする。

 九兵衛はその隙に、男の足を払って転ばせ、柄で顎を打つ。もう一人は刀を落とし、這いながら裏口へ消えた。


 宿の者が駆け込み、騒ぎはすぐ藩の役人の耳に入った。短い詮議ののち、二人は旅籠の主人に深く頭を下げて宿を替えた。

 お初は火の落ちた釜に手をかざし、ぽつりと言った。


「ごめん、九兵衛。わたし、楽しい旅にしたかったのに」


「楽しいさ。危ねえときに、こんな芸当、他に誰ができる。……でも、油断はもうできねえ」


 翌朝、彼らは人の多い街道を避け、川沿いの細い道を選んだ。葦の中を渡る風が、車体を軽く押し戻す。

 母は静かに空を見ていた。白い雲が、海の匂いを少し運んでくる。


「お初。神さまは、きっと見ていてくださるよ」


「うん。だから行く。必ず」


 伊勢は近かった。松並木の向こうに海がのぞき、潮の香りが釜の熱をやさしく包む。

 二人は母を支えて下り、手を取り合って内宮へ向かった。

 石段を上がる足取りは、どこかふしぎに軽かった。拝殿前で母はゆっくりと膝を折り、長く長く祈った。

 お初は横で目を閉じ、心の中でだけ、そっと呟く。


(母さまが、笑っていられますように。わたしの作った車が、人を苦しめるものになりませんように)


 祈りが終わったとき、潮風が一陣、木々を渡り、鈴の音を遠くまで運んだ。

 三人は肩を並べ、笑った。

 その笑みを、境内の隅から一人の男が見ていた。旅僧の衣に身を包み、袖の中に竹簡を隠し持つ。

 男は視線だけで日和を測り、釜の位置、弁の数、車輪の径を記した。袖口から一羽の小さな鳩を放つ。鳩は斜めに空を切り、南――遙か薩摩の方角へと消えていった。


 帰り道、街道では人の波がさらに濃くなった。

 噂は風より速い。越後屋の手代、諸藩の目付、浪人者、香具師――誰もが遠巻きに、黒い釜の車と、煤で頬を汚した娘を見つめていた。

 九兵衛は視線の海に身を滑り込ませ、そっとお初の前に立つ。


「お初。……ここから先は、道が変わるかもしれねえ」


「変わっても、進むよ。母さまを家に連れて帰るまでが旅だから」


 日和は再び唸りを上げた。

 松風が鳴り、海がきらめき、人の心の底で欲の波が静かに満ち始める。

 彼らの背に落ちた影は、まだ薄かった。だからこそ、その影がどれほど深く長いものになるかを、三人はまだ知らなかった。


第三章 狙われる才女


 伊勢参りを終え、帰路についた「日和」は街道の注目を一身に集めていた。

 その日、桑名の宿場を過ぎたあたりで、九兵衛の背筋に鋭い寒気が走った。往来のざわめきの奥に、武の匂い――血と鉄が混じった、馴染み深い気配。


 夕暮れ、旅籠に落ち着くと、九兵衛は腰の刀を外さなかった。江戸最強流で鍛え抜かれた感覚が、休めと告げなかったからだ。


 母がお初に髪を梳いてもらっている間、九兵衛は廊下の灯火を睨む。紙障子の揺らぎが一瞬止み、外から影が五つ滑り込んできた。


「来たな」


 呟くより早く、障子が割れた。覆面の浪人たちが雪崩れ込む。目は血走り、刃は光る。


「娘を渡せ! 越後屋様のお達しだ!」


 先頭の男が叫んだ。


 お初は息を呑み、母を庇うように立ち上がる。

 だがその前に、九兵衛の影が音もなく伸びた。


 刹那、居合の一閃。

 鞘から放たれた刀は、燭台の火を切り裂き、二人の男の手首から先を同時に叩き落とした。血煙が舞う。


「この娘は俺が守る。命が惜しければ退け」


 低い声に、浪人たちは怯むどころか逆上した。

 三人が一度に斬りかかる。


 九兵衛の身体が流れるように動いた。

 一歩目で斜めに踏み込み、二歩目で刀を返す。三歩目にはすでに二人の胸を裂いていた。最後の一人が振り下ろす刃を、木板に足をかけて宙に跳び、空から打ち落とす。稽古場で鍛えた理合が、実戦の只中で燃え上がる。


 残るは一人。恐怖に目を剥いた浪人は、手を震わせながらも叫んだ。


「女の才は、この国を変える! てめえ一人で抱えられるもんじゃねえ!」


 叫びは夜の外にまで響いた。次の瞬間、矢の雨が屋根を貫いた。

 宿場の外周を、さらに多くの賊が取り囲んでいたのだ。


 九兵衛は舌打ちした。五人どころではない。十、二十。これでは斬っても切りがない。


「お初、母上を連れて裏へ!」


「九兵衛は……?」


「俺は負けたことがない」


 彼は微笑んだ。血に濡れた刀を掲げ、再び前に躍り出る。

 お初は母の手を引きながらも、その背を振り返った。

 炎に照らされた九兵衛の輪郭は、巨岩のように揺るぎなく、彼女の胸に焼きついた。

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