第03話「初めての『仕事』と、小さな信頼の芽」
嵐の夜から数日後、カイは少しずつだが変化を見せ始めていた。
部屋の隅で膝を抱えている時間は減り、窓から庭を眺めたり、アキラが差し入れた本を手に取ったりするようになった。食事も、まだ少量ではあるが、毎日きちんと食べるようになった。
カイが部屋から出てくることはまだなかったが、アキラはこの小さな進歩が嬉しかった。そして、次の段階に進む時が来たと感じていた。
アキラは、カイの部屋の扉をノックした。
「カイ、入ってもいいか?」
中から返事はない。だが、以前のような拒絶の気配も感じられなかった。
アキラはそれを肯定と受け取り、静かに中へ入った。カイは窓辺の椅子に座り、庭の木々をぼんやりと眺めていた。
「カイ、君に一つ、提案があるんだ」
アキラがそう切り出すと、カイの肩がかすかに揺れた。また何かを要求されるのではないか。その警戒が、背中から伝わってくる。
アキラは慌てて言葉を続けた。
「もちろん、嫌なら断ってくれて構わない。ただ、もし君さえ良ければ、なんだが……仕事を手伝ってはくれないだろうか」
「……しごと?」
初めて聞く、カイの声だった。少しだけハスキーで、鈴が鳴るような、綺麗な声だった。
アキラは嬉しさを悟られないように、努めて平静に話を続ける。
「ああ。屋敷の西棟に、古い書庫があるんだが、誰も整理する者がいなくて、資料が山積みになっているんだ。それを、分類して棚に戻すのを手伝ってほしい」
それは、誰とも顔を合わせずに一人でできる仕事だった。部屋から出られないカイにとって、負担が少ないだろうと考えたのだ。
何より、誰かに必要とされる経験は、彼の自尊心を回復させるきっかけになるかもしれない。
「もちろん、これは命令じゃない。君との間にあるのは奴隷契約じゃないからな。これは、対等な立場での『依頼』だ。だから、引き受けてくれたら、きちんと給金も支払うつもりだ」
アキラは、カイをただ保護されるだけの無力な存在として扱いたくなかった。
彼に、自分の力で生きる喜びを取り戻してほしかったのだ。
カイはしばらく黙ってアキラの言葉を聞いていた。その空色の瞳が、アキラの真意を探るように、じっと彼を見つめている。
やがて、カイはほとんど聞き取れないような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……やる」
「本当か!?」
思わず大きな声を出してしまい、アキラは慌てて口を押さえた。カイの肩がまた少し跳ねる。
「す、すまない。嬉しいよ、カイ。ありがとう」
アキラが心からの笑顔を向けると、カイはふいと顔をそむけ、窓の外に視線を戻してしまった。
だが、その猫の耳が、ほんの少しだけぴくりと動いたのを、アキラは見逃さなかった。
次の日から、カイの「仕事」が始まった。
アキラは書庫の鍵をカイに渡し、あとはすべて彼に任せた。書庫は西棟の突き当りにあり、ほとんど人が立ち入らない場所だ。
カイは毎日、日が昇ると自分の部屋から出て、誰にも会わないように静かに書庫へ向かい、日が暮れるまで黙々と作業に打ち込んだ。
書庫は、アキラが言った通り、ひどい状態だった。
羊皮紙の巻物や、革張りの分厚い本が床にまで山積みになり、埃っぽい空気の中にかび臭い匂いが漂っている。
カイはまず、山積みの資料を年代別、種類別に大まかに分類することから始めた。
獣人特有の鋭敏な五感は、こういう作業に向いていた。紙の匂いや質感、インクのかすかな違いを嗅ぎ分け、人の目では見逃してしまうような法則性を見つけ出していく。
それは、ひどく地味で、根気のいる作業だった。
だが、カイにとっては苦ではなかった。誰にも邪魔されず、何かに没頭できる時間は、余計なことを考えずに済んだ。
そして何より、アキラが自分を信じて、この場所を任せてくれたことが、カイの心に小さな誇りのような感情を芽生えさせていた。
時々、アキラが書庫に様子を見に来ることがあった。
「どうだ、カイ? 進んでいるか?」
「…………」
カイは返事をせず、作業を続けるだけだった。しかし、以前のようにアキラを拒絶するような硬い雰囲気はない。
アキラもそれ以上は話しかけず、カイの邪魔にならないように、書庫の隅で自分の仕事――領地の経営に関する資料を読みふけっていた。
静かな書庫に、羊皮紙をめくる音と、本を棚に収める音だけが響く。
奇妙な空間だったが、二人にとっては心地の良い時間だった。
カイは作業の合間に、真剣な眼差しで資料と向き合うアキラの横顔を盗み見た。
彼はいつも、領地のこと、民のことを考えている。どうすれば皆が豊かになれるか、笑顔で暮らせるようになるか。
その真摯な姿を見ていると、カイの胸に、今まで感じたことのない温かい感情がじんわりと広がっていくのだった。
そんなある日のことだった。
カイは、古びた木箱の底から出てきた、一枚の羊皮紙を手に取った。
それは他のどの資料とも違う、奇妙な匂いを発していた。植物のような、鉱物のような、そして微かな魔力の匂い。
獣人であるカイの鋭い嗅覚が、そのインクに特殊なものが使われていると告げていた。
興味を引かれたカイがその羊皮紙を広げてみると、そこには見たこともない古代の文字で、何かの術式のようなものがびっしりと書き込まれていた。
その時、ちょうどアキラが書庫に入ってきた。
「カイ、休憩にしないか? お茶を……おや、それは何だ?」
アキラはカイが持つ羊皮紙に気づき、興味深そうに覗き込んだ。
「……変な、匂いがする」
カイがぽつりと言うと、アキラは「匂い?」と不思議そうな顔をして羊皮紙を受け取った。
「俺には普通の古い紙の匂いにしか……いや、待てよ。この文字は……古代魔法文字じゃないか!」
アキラは興奮した様子で羊皮紙にかじりつくように見入った。彼は領主としての教育を受ける中で、古代語も学んでいたのだ。
「これはすごい……信じられない……」
アキラはぶつぶつと呟きながら、必死に文字を解読していく。カイは、そんなアキラの姿をただ黙って見つめていた。
しばらくして、顔を上げたアキラの目は、興奮で爛々と輝いていた。
「カイ! これはすごい発見だぞ! ここに書かれているのは、土地そのものに魔力を与え、豊かにするための古代魔法の術式だ! これさえあれば、うちの痩せた土地も、豊かな実りをもたらす大地に生まれ変わるかもしれない!」
アキラはカイの両肩を掴み、ぶんぶんと揺さぶった。
「君がこれを見つけてくれなかったら、永遠にこの箱の底で眠っていたはずだ。すごいぞ、カイ! 君のその鋭い感覚が、この領地を救うことになるかもしれないんだ!」
アキラはそう言うと、カイの手を強く、強く握りしめた。その手は、興奮のせいか少し汗ばんでいて、熱かった。
「君のおかげだ。本当に、ありがとう」
真っ直ぐな瞳で、心の底からの感謝を告げられる。
今まで、誰かに感謝されることなど一度もなかった。お前は役立たずの獣だ、と罵られるだけの日々だった。
アキラの言葉と、握られた手の熱が、カイの心の奥深くにまで届く。胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように熱くなった。
カイは、握られたアキラの手を見つめたまま、俯いた。
そして、ほんの少しだけ、本当にわずかに、その口元に笑みのようなものが浮かんだ。
それは、他の誰かが見れば気づかないほどの、ささやかな変化。
だが、アキラには、それがカイの精一杯の喜びの表現だと分かった。
失われた文献の発見。それは、アキラの領地にとって大きな希望の光となった。
だがそれ以上に、アキラにとっては、カイの心に芽生えた小さな信頼の光の方が、何物にも代えがたい宝物のように思えたのだった。
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