異世界転生のされる側
土の匂いと家畜の鳴き声が世界のすべてだった。少なくとも、十歳になるあの日までは。
俺、カイが住む村は、どこにでもあるような穏やかな農村だ。朝は鶏の声で目覚め、日中は畑を耕し、夜は家族とささやかな夕食を囲んで眠りにつく。そんな代わり映えのしない、しかし温かい日々。それが永遠に続くと信じていた。
異変は十歳の誕生日を迎えた翌朝に訪れた。目を覚ますと、右手の甲に奇妙な違和感があった。見れば、そこには薄ぼんやりとした人の顔のような痣が浮かんでいたのだ。驚いて母さんに見せたが、「寝ぼけてるのかい?」と笑われるだけ。父さんも、村で一番物知りなババ様でさえ、首を傾げるばかりで、俺の右手に浮かんだ顔を認識することはなかった。
それは俺にしか見えない呪いだった。
最初の数日、顔はただそこに在るだけだった。だが次第に、まるで赤子が悪戯するかのようにぱくぱくと口を動かし始めた。恐怖よりも好奇心が勝った俺は、ある晩、こっそりとパンの欠片をその口元に運んでみた。すると、痣のはずの唇がぬるりと開き、パン屑を吸い込んだのだ。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。しかし同時に、この秘密を共有する唯一の存在に対する歪んだ親近感が芽生え始めていた。俺はその日から「奴」に食事を与えるようになった。
食事を続けるうち「奴」はみるみるうちに明瞭な顔つきになっていった。深く窪んだ目に光が宿り、ある夜、か細い声で俺に話しかけてきた。
『……腹が、減った……』
それが俺と「人面瘡」……後に俺がそう呼ぶようになった存在との、最初の対話だった。
恐ろしかった。だが、「奴」は俺を害そうとはしなかった。それどころか、ババ様ですら知らない薬草の知識を囁き、流行り病に苦しむ村の家畜を救う方法を教えてくれた。おかげで俺は村の子供たちから一目置かれるようになった。
『カイ、このままではお前は畑を耕して一生を終えるぞ』
ある日、「奴」は言った。
『強くなれ。金を稼げ。世界は、この村よりもずっと広く、お前が望むものはすべて手に入る』
「奴」の言葉は甘い毒のように俺の心に染み渡った。俺は「奴」の教えに従い、来る日も来る日も体を鍛え、剣の真似事を始めた。そして十五の春、両親の反対を押し切り、村を出て冒険者になることを決意した。
都会での生活は俺が想像した以上に過酷だった。しかし俺には「奴」がいた。魔物の弱点、迷宮の隠し通路、有利な依頼の見分け方、貴族との交渉術……。「奴」の知識は底が知れず、俺はそれを自らの才覚であるかのように振る舞い、着実に名声を高めていった。他人に見ることができないとはいえ、「奴」の存在を表沙汰にできない俺は、常に右手の甲に包帯を巻いていた。その理由を尋ねられることもあったが、「古い傷だ」と答えれば、それ以上詮索する者はいなかった。いつしか「奴」は、俺にとって恐怖の対象ではなく、唯一無二の相棒であり、俺自身の半身となっていた。
そして、エマと出会った。男爵家の令嬢である彼女と、駆け出しの冒険者に過ぎない俺。本来なら言葉を交わすことすら叶わぬ身分違いの恋だった。だが「奴」の策謀が、偶然を装った出会いを演出し彼女の父親が抱える問題を解決へと導き、ついに俺たちは結婚の許しを得た。
十九歳最後の夜。
窓の外では月が煌々と輝いていた。壁には幸せそうに微笑むエマの肖像画がかけられている。来週にはこの絵ではなく本物の彼女が俺の腕の中にいる。俺は満たされた心で、右手の包帯をそっと解いた。
「……ありがとう。お前がいなければ、俺は今頃、村で泥に塗れていただけだ。エマと結ばれることもなかった。本当に、感謝している」
心からの言葉だった。すると手の甲の顔が、これまで見たこともないほど深く、醜く、歪んだ笑みを浮かべた。
『なに、気にするな。すべては俺のためだ』
ぞっとするほど低い、粘ついた声だった。
「……お前の、ため……?」
『ああ。この世界に飛ばされた俺はお前の体に宿り、少しずつ養分を吸い上げながら魂に根を伸ばしていた。この肉体の隅々まで侵食し、お前の魂を乗っ取れるまで成長するのをずっと待っていたんだよ。お前が得た知識も、力も、名声も、そしてあの女も。すべては、俺がこの世界で生きていくための礎だ。お前は最高の苗床だったぞ、カイ』
全身の血が凍りつく感覚。感謝も、友情も、すべてが一方的な幻想だったのだと悟った。こいつは最初から、俺の体を簒奪するためだけに存在していたのだ。
「ふざけるな……! この体は、俺のものだ!!」
叫び、抵抗しようとする。だが、指一本動かせない。まるで全身が鉛になったかのように、意識が体の内側から引きずり込まれていく。闇が、視界を、思考を、存在そのものを塗りつぶしていく。
『そうだな。もうすぐ、"俺のもの"になる』
人面瘡の嘲笑を最後に、俺の意識はぷつりと途切れた。
翌朝。
眩い光に、男はゆっくりと目を開けた。ベッドから体を起こし、慣れない手足の感触を確かめるように、指を開いたり閉じたりする。十分に確認が取れた後、すっくと立ち上がると鏡台の前へ歩み寄った。
鏡に映るのは、カイの顔。しかしその瞳の奥に宿る光は、昨日までの彼とは明らかに異質だった。冷徹で、貪欲で、それでいて歓喜に満ちている。男は自分の顔を、まるで初めて見る美術品のようにあらゆる角度からうっとりと眺めた。
階下から、愛らしい声が響く。
「カイ? 起きてるの? パンを買ってきたから朝食にしましょう」
恋人の声。男は鏡の中の自分に向け、口の端を吊り上げた。それは、かつてカイが絶望の中で見た、あの醜く歪んだ笑みだった。
<完>
次の更新予定
ファンタジー大喜利ショートショート 亞酩仙介 @CaTiSiO5
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