大日本帝国T県S市影沢村、異世界に転移す

 影沢村は地図に辛うじて載っているだけの、忘れられたような村だった。電気も水道もまだ通っておらず、村人たちの暮らしは日の出と共に始まり、日の入りと共に終わる。それが三平が知る世界の全てだった。


 異変に最初に気づいたのは、誰だったか。いつも見えるはずの、連なる山の稜線がどこか違う。太陽が、心なしか青白い。森の木々の葉の色が、妙に鮮やかすぎる。だが大人たちは「気のせいだろ」「それより畑の草むしりだ」と、誰も気に留めなかった。日常は、何よりも強い。


 その日、村で一番の腕白小僧である三平は栗拾いのついでに、いつもは入らないと決められている沢の奥へと足を踏み入れていた。目当ては幻とも言われる「大甘栗」だ。


「じい様なら、この辺の匂いで見つけるんだろうな……」


 ぶつぶつ言いながら地面を睨んでいた、その時だった。

 ガサッ、と背後で獣とは違う、粘つくような物音がした。振り返った三平は、息を呑む。そこにいたのは緑色の肌に醜く歪んだ顔をした、背丈は自分と同じくらいの奇妙な生き物だった。手には錆びた短剣を握っている。見たこともない。だが、本能が叫んでいた。これは、熊や猪よりもずっと危険なものだ、と。


「ヒ、ヒィッ……!」


 恐怖で足がすくむ。緑の化け物が、下卑た笑い声をあげて飛びかかってきた。

 パニックになった三平は無我夢中で足元の石を掴み、力任せに投げつけた。


 ビシュッ!


 石は化け物の眉間に吸い込まれ、ゴツッ!と鈍い音を立てた。化け物は白目を剥いて、そのまま仰向けに倒れる。


 その瞬間、三平の頭の中に、誰のものでもない、澄んだ声が響いた。


 ≪クリティカルヒット。『投擲』スキルレベルが2に上がりました≫


「……は?」


 呆然とする三平の耳に、新たな物音が届く。仲間がやられたことに気づいたのか、茂みの奥から、同じ緑の化け物がもう一体、姿を現した。


 ≪『危機回避』スキルが発動しました≫


 再び声が響く。三平は考えるより先に体が動いていた。化け物が短剣を振り下ろすよりわずかに早く、木の根に足を取られたフリをして転がる。空を切った刃が、先ほどまで自分の頭があった場所を通り過ぎた。


「う、うわああああああ!」


 三平はあとはもう、命からがら村へと駆け出した。背後で化け物の怒鳴り声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。




「はあ、はあ、ぜえ……じ、じい様!」


 三平は、村の猟師である源次の家の軒先に転がり込んだ。源次は、仕留めたばかりの兎を捌きながら、眉一つ動かさずに孫のような三平を見やる。


「なんだ三平。そんなに慌てて。またイタズラでも見つかったか」

「ち、違う! 化け物が出たんだ! 緑色で、変な剣を持った……!」


 息も絶え絶えに事情を説明する三平。そして、一番不可解だった「頭の中の声」についても話した。

「石を投げたら『とうてきすきる』がどうとか……」


 それを聞いた源次は、ふう、とため息をつき、三平の頭を大きな手でわしわしと撫でた。


「三平。沢の奥には行くなと、いつも言っとるだろうが」

「で、でも、声が!」

「さては、転んだ時に頭でも打ったんだろ。まあ、無事だったならそれでええ。どれ、じい様が手本を見せてやる」


 源次はそう言うと、足元に転がっていた手頃な石をひょいと拾う。そして、三十メートルは先にある松の木を見据えた。常人なら届きもしない距離だ。


「狙うのは、あのてっぺんの松ぼっくりだ。猿を追い払う時は、ああやって一番偉そうなやつを狙う。いいか、腕の力じゃねえ。腰を入れて、こうだ」


 ヒュッ、と乾いた風切り音。源次の手から放たれた石は、美しい放物線を描き、遥か先の松ぼっくりに寸分たがわず命中した。ポトリ、と松ぼっくりが地面に落ちる。


「な? 簡単だろ。お前も十年も山で遊べば、これくらいできるようになる」


 源次はこともなげに言う。だが、三平には分かった。今じい様がやったのは、ただの石投げじゃない。きっと頭の中で、ものすごい数の「声」が響いていたに違いないのだ。ただ、ちょっと耳の遠いじい様に聞こえてないのだろう。




 数日後、村に初めての「お客様」がやってきた。

 全身を金属の鎧で固めた大男、先のとがった帽子をかぶった若い娘、そして、鋭い目つきで弓を背負った、耳の長い男。彼らはボロボロの様子で村の入り口にたどり着き、警戒しながらも助けを求めてきた。


 言葉は不思議と通じた。彼らは自らを「冒険者」だと名乗り、道中で魔物に襲われ、食料も水も尽きてしまったのだという。村人たちは物珍しそうに遠巻きに見ていたが、村一番のおせっかい焼きであるおトメ婆さんが、大きな握り飯と漬物の入った桶を抱えてやってきた。


「まあまあ、旅の人は助け合いだ。こんなものしかないけど、食うかい?」


 冒険者たちは、差し出された質素な食事に涙を流さんばかりに感謝した。若い娘――魔法使いのエリアーナは、念のためにと、懐から取り出した水晶玉を握り飯にかざす。


「【鑑定(アプレイズ)】」


 瞬間、エリアーナの目がカッと見開かれた。


「なっ……!? こ、この握り飯…『状態異常を完全に回復し、一日活力が漲る』……? ただの塩むすびが、エリクサー級の効果!?」

「何言ってんだい、嬢ちゃん。うちの米と、裏山で採れた塩で作っただけだよ。疲れてるのかい?」


 きょとんとするおトメ婆さん。エリアーナは信じられない思いで、次におトメ婆さん自身に鑑定魔法を行使した。


「【鑑定】!」


 しかし、魔法はバチッという音と共に弾かれ、水晶玉にヒビが入る。『鑑定不能(アンノウダブル)』。格上すぎる相手に鑑定を使った時の拒絶反応だ。目の前の、腰の曲がった小柄な老婆が?


 おトメ婆さんは、顔をしかめるエリアーナの額に手を当てた。

「おやまあ、熱でもあるのかい。こりゃいかん。ちょっと待ってな」


 そう言うと、おトメ婆さんは自分の家の軒先に吊るしてあった干し草の中から、一本のひからびた薬草をむしり取り、エリアーナに渡した。


「これ、煎じて飲むといい。腹の痛いのも、頭の痛いのも、大概のことはこれで治るから」


 それを見た、耳の長いエルフの弓使い――ファエランが、ゴクリと喉を鳴らした。

「そ、それは…『月の雫草(ルナ・ドロップ)』……。エルフの里の聖域にしか自生しないはずの、伝説の万能薬草……。なぜこんな場所に、ただの干し草のように……?」


 おトメ婆さんは首を傾げた。

「るな……? なんだいそりゃ。これはただの『腹下し知らず』だよ。その辺にいくらでも生えてるさね」




 冒険者パーティのリーダーである騎士のレオは、薪割りを手伝おうと申し出た。彼は愛用のロングソードを抜き、「奥義・断岩斬!」と叫んで、丸太に叩きつける。剣は確かに丸太を断ち割ったが、一本割るのに大層な隙が生まれた。


 それを見ていた源次が、自分の鉈を片手にひょいと出てくる。

「兄ちゃん、危なっかしいな。そんな大振りじゃ、熊が来た時にやられちまうぞ」


 トォン、トォン、トォン。

 源三は、まるで呼吸でもするかのように、リズミカルに鉈を振り下ろす。その度に、丸太は吸い込まれるように綺麗に二つに割れていく。無駄な動きが一切ない。それは、洗練され尽くした「技」だった。


 エリアーナの目には、信じられない光景が映っていた。

 ≪斧術(ゴッド)≫ ≪熟練度(マスター)≫ ≪心眼≫ ≪剛力≫

 彼女が知るどんな英雄よりも、目の前の老猟師のステータスは、薪割りの分野において遥か高みにあった。


「いいか、薪割りは肩じゃねえ。腰だ。こう、すっと力を抜いて……」


 生活の知恵を教える源次の言葉は、レオには神託のように聞こえた。


 その光景を少し離れた場所から見ていた三平は、ようやく全てを理解した。

 この村では、誰もが「スキル」を持っている。でも、それは特別な力なんかじゃない。生きるために、毎日毎日繰り返してきた、当たり前のこと。じい様の石投げも、おトメ婆ちゃんの薬草も、全部そうだ。


 三平は呆然と立ち尽くす冒険者たちのもとへ駆け寄った。そして、源三を指さして、誇らしげに言った。


「すげえだろ! じい様の『スキル』!ばあちゃんは、それを『知恵袋』って呼んでるんだ!」


 若き冒険者たちは顔を見合わせた。

 聖剣より切れる農具。エリクサーより効く握り飯。そして、神の領域に達した生活スキルを持つ、無自覚な村人たち。


 レオは目の前の、静かで、穏やかで、そしてあまりにも異常な村を見渡しつぶやいた。


「我々は……とんでもない場所に来てしまったのかもしれない……」


 影沢村の異世界での日常はまだ始まったばかりである。






 <完>

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