ファーブル貞操逆転記

「うおおっ、マジかよ……!」


 俺、山田太郎(30歳・童貞)は、湖面に映る自分の姿を見て叫んだ。黒く艶めく強靭な肉体、均整の取れた顔立ち、そして何より、頭から天を突くように伸びる、雄々しく立派な一本角。どうやら俺は、異世界に転生してしまったらしい。カブトムシの「昆虫人」として。


 しかもこの世界、どうやら男女の立場が逆転しているらしい。街を歩けば、すれ違う美女たちが皆、俺に熱い視線を送ってくるのだ。


「見て、あの子の角……なんて立派なのかしら」

「ああん、たくましいお背中……食べちゃいたい❤」


 ……天国か? ここは天国なのか!?

 前世では考えられなかったハーレム展開に、俺の心は歓喜に打ち震えた。ありがとう神様! 今度こそ、俺は幸せになってみせる!


 熟れた体を持て余した未亡人の集まる社交場があるらしい。そんな噂を聞いて俺の角はビンビンに滾っている。初めてはやっぱり経験者がいいな、上手くリードして欲しい……そんな淡い期待を胸に、招待状を見せてティーパーティの会場へと足を踏み入れる。

 最初に声をかけてきたのは、優雅な緑のドレスを纏う貴婦人だった。ドレスのスリットが深く、大きく開けられた胸元から覗く特大の果実に、思わず目を逸らしてしまう。ウソだろ、いきなりこんな大当たりかよ!


「わたくし、マキリと申します。あなたのその逞しいお姿、とても素敵ですわ」


 透き通るような白い肌、おっとりとした物腰。完璧だ。これぞ理想の貴婦人! 俺はすっかり舞い上がり、彼女との会話を楽しんでいた。

 しばらくして互いに酔いが回り、彼女が俺の口元を拭こうとハンカチ取り出そうとして落としてしまった。緊張も解けた俺は紳士ぶって屈み、それを拾おうとした、その瞬間。


 ヒュッ!


 鋭い風切り音と共に、彼女の腕が俺の首筋をかすめた。見ると、彼女の細腕が一瞬だけ鋭利な鎌のように変形していた。


「あら、ごめんなさい。あなたがあまりに素敵なので、少し興奮してしまって……」


 にっこりと微笑む彼女の顔とは裏腹に、俺の脳裏には前世の知識が稲妻のように駆け巡る。


 ―—カマキリの雌は、交尾の後、雄を捕食することがある。


「あ、あの、ちょっとお手洗いに!」


 俺は悲鳴を押し殺し、パーティー会場から逃げ出した。背後から「ディナーには戻っていらしてね」という声が聞こえた気がした。


 一回目はアレだったが、その程度でめげる俺ではない。二度も脱童貞せずに死ねないのだ。

 次に訪れたのは、芸術家が集うサロン。そこで出会ったのは金の刺繍が入った黒いドレスをまとう、妖艶な美女だった。


「わたくしはジョウグ。あなたのその完璧な肉体美……ぜひ、わたくしの作品のモデルになっていただきたいの」


 甘い香りに誘われ、俺は彼女のアトリエに通された。ふかふかのソファに身を沈め、今度こそ上手くいくはずだと自分に言い聞かせる。彼女がそっと背後から俺を抱きしめた。柔らかい感触、チョコレートのような芳しい香り……。


「ん…? あれ、腕が……一本、二本…なんか……多くないか!?」


 気づくと、俺の体には六本の腕が絡みついていた。さらに、ソファの周りには粘着性の高い、金色の糸が張り巡らされている!


「ふふ、動かないで。あなたを最高傑作にして差し上げますわ……永遠にね」


 部屋の隅に飾られた、やけにリアルな男性の彫刻が糸でグルグル巻きにされているのが目に入った。彼女の妖艶な唇の間から鋭く巨大な牙が覗く。


「うわああああああ!」


 俺は全身の力を振り絞って糸を引きちぎり、窓から飛び降りて逃走した。





「アンタ、なかなか良い体してるじゃないか! 気に入った!」


 性欲を転化し発散させるには体を動かすしかない。訓練場で汗を流していた俺に、ポニーテールが似合う快活な美人騎士が声をかけてきた。彼女はズメバと名乗った。最初こそ警戒したが、その裏表のない性格と純粋に武力を追い求める姿に、俺は今度こそ、と淡い期待を抱いた。一緒に剣を交え、汗を流す。健全な関係って素晴らしい!


「よし、決めた! アンタを女王陛下に献上する!」

「へ?」


 彼女は満面の笑みで、とんでもないことを言った。


「アンタほど立派な雄なら、女王陛下もお喜びになる! 一族の英雄になれるぞ、光栄に思えよな!」


 彼女が腰のあたりに手をやると、美しい尻から長大な毒針が「シュイン!」と音を立てて伸びた。


 ―—ハチの雄の末路。


「俺、英雄とかそういうの興味ないんで!」


 仲間の騎士たちが集まってくる前に、俺は訓練場から全力で逃げ出した。





 心身ともにボロボロになった俺は、場末の酒場にいた。そこで出会ったのは、エキゾチックな衣装をまとった褐色の美女。


「あんた、いい男だね。あたしはサリー。一杯おごるよ」


 ワイルドで情熱的な彼女と酒を酌み交わすうち、俺は少しだけ自信を取り戻していた。そうだ、男は強くないとダメだよな!

 いい感じに酔いが回った頃、彼女が俺の肩に腕を回してきた。その時、俺は見てしまった。彼女の腰の後ろで、ゆらりと揺れる、節くれだった見事な尻尾を。先端は、毒々しい光を放っている。


「なあ、あんた……あたしと夫婦にならないかい?もし夜にあたしを満足させられなかったら……チクッとしちゃうかもだけどさ」


 その目は、完全に獲物を狩る捕食者の目だった。

 俺は有り金全部をテーブルに叩きつけ、「トイレから戻らない男はクズだぜ!」と謎の捨て台詞を残して裏口から夜の闇に消えた。



 もう嫌だ。強い女はこりごりだ。ハーレムなんていらない。ただ静かに、普通に暮らしたい。

 絶望に打ちひしがれた俺が逃げ込んだのは、町の片隅にある古びた図書館だった。


「あら……どうかなさいましたか?」


 そこにいたのは、銀色の髪を三つ編みにした、地味なメガネの司書さんだった。派手さはないが、優しそうな声に俺の心は癒されていく。


「シミ、と申します」


 シミ……? 昆虫っぽくない名前だ。地味で、おとなしくて、知的。これだ! 俺が求めていたのは、こういう普通の女の子なんだ!

 俺は涙ながらにこれまでの経緯を打ち明けた。彼女は静かに、そして優しく俺の話を聞いてくれた。


「大変でしたのね……。わたくしでよければ、お力になりますわ」


 手のひらを握ってくれるその温かさと柔らかさにむせび泣く。彼女こそ、俺の運命の女神だ!

 俺が感動に打ち震えていると彼女はおずおずと一冊の古書を差し出した。


「あの、わたくしの手作りなんです……。もしよろしければ、わたくしたちの愛の誓いの証として……」


 俺は感謝と共にそれを受け取った。手作りの本! なんて健気なんだ!

 表紙に書かれた、可愛らしい文字を読む。


『あなた(の角と甲冑)を美味しくいただくためのレシピ集 〜煮込み・丸焼きからふりかけまで〜』


 俺が呆然とページをめくると、そこには無数の小さな子供たち(シミの幼虫)が、本の繊維をもしゃもししゃと食べながら、こちらに手を振っている挿絵が描かれていた。


「あああああああああああああ!!」


 静かな図書館に、転生者の断末魔が響き渡った。この世界に男が安心して暮らせる場所は無いらしい。








 <完>

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