鬼哭のオラトリオ


 ◇ 青き屈辱


 風は鉄錆と獣の血の匂いを運び、雲は鉛のように低い。ここは人が神に見捨てられ、あるいは神を喰らった果ての荒野、『葦原(あしはら)』。かつて鬼神が統べたというこの大地は、今や大小の"組"が覇を競う、仁義なき戦場と化していた。


 その中でも最大勢力を誇るのが、英雄の名を騙る冷血の支配者、桃太郎が率いる『桃源郷』。そして、もう一方の雄が、巨大な化け蟹の甲殻を纏う武人カニを頭目とする『甲殻団』である。両者は互いに牙を剥き、牽制し合いながら、この荒れ果てた世界の支配を目論んでいた。


『桃源郷』の使いとして、『甲殻団』の砦に足を踏み入れた一人の男がいた。彼の名は誰も知らない。ただ、その獣じみた俊敏さと皮肉にも似た忠誠心から、誰もが彼をこう呼んだ――サル、と。


「――で、話はそれだけか? "桃"の字の使い殿よぉ」


 玉座に鎮座するカニが、ギロリとサルを睨みつけた。その巨躯は、かつてこの地の湖を支配したという伝説の化け蟹『癌陀羅(ガンダラ)』の甲殻を削り出して作られた鎧に覆われている。その両腕には鋼鉄をも断ち切る巨大なハサミが移植され、不気味な光を放っていた。


 背後に控えるのは、カニ一味の幹部たち。影に潜むように立つのは、毒針を仕込んだ双剣を操る暗殺者、亜人族のハチ。その隣では、全身を硬い殻で覆った小柄な魔導師、クリが、指先で爆ぜる魔力の火花を弄んでいる。そして玉座の脇には言葉を発しない巨大な岩石のゴーレム、ウスが、地響きのような存在感で佇んでいた。


「はっ。我が組長、桃太郎様は、貴殿らとの友好の証として、かの『黄金柿』の共同管理を提案しておられる。これは互いの利となる話のはず」


 サルの声は、緊張に震えていた。ここは敵地。一挙手一投足が死に繋がる。


 カニは鼻で笑った。

「共同管理、ねぇ。聞こえはいい。だがよ、サル。お前さん、自分の立場が分かっているのか?」


 カニが合図すると、ハチが音もなくサルの背後に回り込み、喉元に毒針を突き立てた。冷たい感触が、サルの全身を貫く。


「まずは貴様が、我らの"誠意"を見せろ。あの黄金柿の木の番人だ。水やり、害虫駆除、もちろん収穫も、全て貴様一人でやれ。それが我らに対する『桃源郷』の"仁義"ってもんだろうが!」

「なっ……それは、話が……!」

「口答えか?」


 ゴッ、と鈍い音。ウスの岩の拳が、サルの腹部にめり込んだ。内臓が悲鳴を上げ、口から胃液が逆流する。サルは無様に床に崩れ落ちた。


「これは……組のため……」


 サルは己に言い聞かせた。屈辱を噛み締め、歯を食いしばり、泥水をすするような日々が始まった。夜明けと共に起き、黄金に輝く果実を実らせる神聖な柿の木へ向かう。栄養豊富な霊水を運び、枝に巣食う魔性の虫を素手で潰し、その糞尿にまみれた。カニ一味の者たちは、そんなサルを嘲笑い、石を投げ、罵声を浴びせた。


 約束の期日が来た時、サルの身体は骨と皮ばかりになり、その瞳からは光が消えかけていた。だが、彼の労苦の甲斐あって、黄金柿は見事な果実をたわわに実らせていた。


「ご苦労だったな、サル」


 カニは満足げに頷き、幹部たちに収穫を命じた。そして、報酬を待つサルの前に、一つの籠を投げ捨てた。中に入っていたのは、まだ固く、売り物にもならない青い柿の実だった。


「……これが、報酬か」

「ああ。手間賃だ。有り難く受け取れ」


 次の瞬間、カニの鉄槌のような拳がサルを襲った。ハチの蹴りが、クリの放つ小規模な爆裂魔法が、ウスの岩礫が、無抵抗なサルに叩き込まれる。意識が遠のく中、サルは泥の中に転がった青い柿の実を、ただ見つめていた。


 這々の体で『桃源郷』に帰還したサルを待っていたのは、労いの言葉ではなかった。


「――無様だな、サル」


 玉座に座る桃太郎は、その美しい顔を氷のように冷たく歪めていた。その傍らには、顔面に『犬』という屈辱的な刺青を彫られた盗人上がりのイヌと、賭場の女元締めであるキジが、嘲笑を浮かべて立っている。


「てめえがだらしねえから、カニの連中にナメられるんだ! 我が『桃源郷』のメンツを潰しやがって!」


 桃太郎の蹴りが、サルの顎を砕く。


「もはや貴様に用はない。その青い柿でも食って、どこへなりと失せろ!」


 放り出されたサルは夜の荒野に一人、横たわっていた。忠誠を尽くした組からも、命懸けで仕事をした相手からも、ただ暴力と屈辱だけが返ってきた。手元に残ったのは、泥にまみれた、あの青い柿の実だけ。


「……鉱泉……」


 誰かが言っていた。この先の山には、あらゆる傷を癒すという奇跡の鉱泉があると。サルは最後の希望をそれに託し、震える足で立ち上がった。復讐も、怒りも、まだ彼の中では形を成していなかった。ただ、生きたい。その一心だけで、彼は闇の中を歩き始めた。




 ◇ わらしべの流転


 荒野の旅は過酷を極めた。傷口は膿み、熱に浮かされ、サルは何度も意識を失いかけた。食料は尽き、懐にあった青い柿の実を、いっそ食べてしまおうかと何度も思った。だが、これは己の屈辱の象徴。これを食らうことは、敗北を認めることだと、彼のなけなしの誇りが叫んでいた。


 朦朧としながら歩いていると、小さな祠の前で、赤子を抱いた女が泣いていた。赤子は乳を欲しがっているが、女の乳はもう出ないらしい。その手には、一本の干からびた藁が握られていた。


「もし……よろしければ……」


 サルは、懐から青い柿の実を取り出した。

「まだ固いが、砕いて汁を吸わせれば、赤子の渇きを癒せるやもしれん」


 女は驚き、何度も頭を下げた。そして、感謝の印として、その干からびた藁を差し出した。サルはそれを受け取った。今の彼にとって、それは何の役にも立たないものだったが、断る気力もなかった。


 藁を手に、再び歩き出す。すると今度は、巨大な毒蜂に襲われている行商人の一団に出くわした。彼らの荷馬車は横転し、積み荷が散乱している。毒蜂の羽音は不気味に響き、誰も手出しができない。サルは咄嗟に、持っていた藁に火をつけ、煙で蜂を追い払った。


「おお、助かった! この御恩は忘れねえ!」


 行商人の頭は、礼として上等な絹の布をサルに渡した。それは、傷だらけの彼の身体には不釣り合いなほど、滑らかで美しい光沢を放っていた。


 絹の布は、旅の途中で出会った、名馬を求める没落貴族の手に渡った。貴族は、その布を鞍の下に敷けば、どんな荒馬も鎮まると信じていた。そして、礼として彼が愛用していたという、一頭の黒い軍馬をサルに譲った。


 軍馬は、サルを遠くまで運んでくれた。そして、ついに鉱泉のある山の麓の町にたどり着いた時、彼は一人の刀鍛冶と出会った。刀鍛冶は、伝説の黒鋼(くろがね)を探し求めており、その在り処を知るという黒い軍馬を欲しがった。


「この馬を譲ってくれるなら、俺の最高傑作をあんたにやろう」


 そう言って刀鍛冶が示したのは、鞘に収められた一振りの剣だった。抜き放つと鈍い鉄色の刀身が、月光を吸い込むように静かに輝いていた。それは業物であったが、魔法の力も、伝説の金属も使われていない、ただの鉄の剣。しかし、今のサルにとってそれは何よりも頼もしい存在に思えた。


 ついにサルは目的の鉱泉にたどり着いた。月光が差し込み、乳白色の湯気が立ち上る神秘的な泉。彼は服を脱ぎ捨てて傷だらけの体を泉に沈めた。じわり、と骨の髄まで染み渡るような温もりが、彼の心と体を癒していく。その傍らには彼の全財産となった鉄の剣が置かれていた。


 安堵からか、蓄積した疲労が一気に噴き出した。サルの意識は混濁し、その手が、無意識に剣を泉の中へと滑り落としてしまった。


 ザブン、という音と共に、剣は乳白色の泉の底へと消えていった。


「あ…あ、ああ……!」


 サルの喉から、絶望の叫びが漏れた。青い柿の実から始まった、ささやかな希望の連鎖。その果てに手にした、唯一の力。それが、今、失われた。全てが無に帰した。膝から崩れ落ち、彼はただ嘆き、嗚咽した。


 その時だった。泉の水面がにわかに輝き始め、光の柱と共に、水の中から神々しいまでの美しさを持つ女神が現れた。


「嘆きの子よ。あなたが落としたのは、この金の剣ですか?」


 女神が掲げたのは、太陽のように輝く黄金の剣。


「それとも、こちらの銀の剣ですか?」


 次に掲げたのは、月光を固めたような、清らかな輝きを放つ銀の剣だった。


 サルは、息を呑んだ。どちらも、彼が持っていた鉄の剣とは比べ物にならない、至高の宝剣。どちらか一つを手に入れれば、カニ一味への、そして桃太郎への復讐も夢ではないかもしれない。


 金か、銀か。彼の心は揺れた。富と権力を象徴する黄金の剣。気高さと魔を祓う力を持つ銀の剣。どちらも、今の彼には眩しすぎた。


 だがその時。サルの脳裏に、泥にまみれた青い柿の実が、カニの嘲笑が、桃太郎の冷たい瞳が、鮮明に蘇った。


 そうだ。俺が求めていたのは、富でも名誉でもない。


「……いいや」


 サルは、顔を上げた。その瞳にはもはや迷いはなかった。あるのは、地獄の底から這い上がってきた男の、燃えるような覚悟だけだった。


「違う。金でも銀でもない。俺はただ、あいつらを斬り裂くための力が欲しいだけだ! 俺が落としたのは、何の変哲もない、ただの鉄の剣だッ!!」


 その魂の叫びは、静かな泉のほとりに響き渡った。


 女神は、驚いたように目を見開いた。そして次の瞬間、その唇に慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「正直な者よ。その欲望、その渇望、実に人間らしい。気に入りました」


 女神が指を鳴らすと、サルの目の前に、泉の底から一本の剣がゆっくりと浮かび上がってきた。


 それは、金でも銀でも、鉄でもなかった。虹色の光を内包し、星々の煌めきを宿した、伝説の金属『オリハルコン』で打たれた聖剣。その刀身には古代の神々のルーン文字が刻まれ、凄まじいまでの魔力を放っていた。


「その剣は『猿魔(えんま)』。あなたの怒りと悲しみに共鳴し、無限の力を引き出すでしょう。さあ、行きなさい。あなたの"仁義"を、その刃で貫き通すのです」


 サルは震える手で聖剣『猿魔』を握りしめた。ずしり、とした重みが、彼の魂にまで響く。剣を握った瞬間、鉱泉の治癒力を超えた、神聖な力が全身を駆け巡り、古傷はことごとく消え去り、その肉体は鋼のように強靭なものへと変貌を遂げていた。


 顔を上げたサルの瞳は、もはやかつての使い走りのそれではなかった。それは、復讐に燃える修羅の瞳だった。




 ◇ 三つ巴の狼煙


 同時期、『桃源郷』では桃太郎が不機嫌に舌打ちをしていた。

「カニの奴ら、調子に乗りおって……サルを始末したせいで、また使いを出さねばならん。次は誰を行かせるか……」

 イヌとキジが、その言葉に身を震わせる。


 一方、『甲殻団』の砦では、カニが上機嫌で黄金柿を頬張っていた。

「やはり美味いな、この柿は! あのサルの阿呆面を思い出すと、酒も進むわ!」

 ハチ、クリ、ウスもまた、勝利の美酒に酔いしれていた。


 彼らはまだ知らない。

 一人の男が、神の刃を手に地獄の底から舞い戻ったことを。


 メンツを汚されたと怒る『桃源郷』。

 全ては暴力だと信奉する『甲殻団』。

 そして誇りを奪われ、聖剣という不退転の覚悟を手にした、復讐者サル。


 荒野に三つの勢力が鼎立する。それぞれの正義と仁義を懸けた血で血を洗う三つ巴の戦いの火蓋が、切られようとしていた。

 抜き身の『猿魔』の虹色の輝きが鉛色の空を切り裂き、嵐を呼ぶ。今、新たな時代の幕開けを告げていた。





 <完>

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