拝啓、勇者様。お会いしたかったです。

 玉座で目覚めた俺は、磨き上げられた大理石の床に映る自らの姿に戦慄した。濡れたような銀の長髪、全てを見透かすかのような血の色の瞳、そして傲慢そうに整えられた美貌。傍らには、俺の身を案じ静かに佇む、忠実な魔族の秘書リヴィア。

 間違いない。ここは俺が生前、睡眠時間を削ってまで三千時間以上もやり込んだRPG『セブンス・ゾディアック・ファンタジア』の世界だ。


 そして俺は、原作では主人公の勇者アルセウスが最初に乗り越えるべき「壁」として登場し、その慢心と怠惰を突かれて無様に敗北する、あまりにも情けない中ボス──『怠惰の魔将グレイゾーン』に転生してしまったのだ。


「グレイゾーン様、いかがなさいましたか? 顔色が優れませんが……」


 リヴィアが心配そうに声をかけてくる。彼女もまた、原作では俺の敗北に巻き込まれその命を散らす悲運のキャラクターだ。俺の脳裏に、ゲームのイベントシーンが鮮明に蘇る。その壮絶な最期と可愛らしいビジュアルで、セブンス・ゾディアックの中でも一、二を争う人気キャラクターだ。当然、俺の推しでもある。


 このまま原作通りに進めばどうなるかを考える。いや、冗談じゃない。絶対に酷い結末にはさせない。俺自身のため、そして何よりリヴィアを救うため、この与えられた運命に抗ってやる。

 幸い、原作の物語が動き出すまでまだ二年間の猶予がある。原作のグレイゾーンは己の魔力と才能を過信して、この二年間を惰眠と享楽で無駄にした。だが、転生者である俺は違う。奴の弱点、敗北に至る全てのフラグ、その全てを知り尽くしているのだから。


 その日を境に怠惰の魔将は死んだ。俺は生まれ変わったのだ。

 惰眠を貪っていたかつての俺を嘲笑うかのように、二年間もの間、文字通り不眠不休で動き続けた。睡眠という概念すら忘れ、夜明けから深夜まで剣を振り、膨大な魔導書を全て読破し、ダンジョンの経営戦略を練り続けた。俺はこの魔王軍の領地を誰にも落とせない難攻不落の要塞へと変貌させることに全てを捧げたのだ。

 俺が人が変わったように努力を重ねる姿に、最初は戸惑っていた部下たちの目はやがて畏敬と狂信的な熱に変わっていった。


 そして二年後。来たるべき運命の日、『太陽神の祭り』がやってきた。

 不眠不休の鍛錬で研ぎ澄まされた肉体と魔力。完璧に整えられた迎撃体制。俺は玉座で静かに勇者の到着を待った。

……どうする? もし奴を殺してしまったら、この物語はどうなる? 世界は? 俺の存在は? あるいは言葉を交わせば、共存の道も……? いや、この世界に『原作強制力』が存在したとしたら……?

様々な思考が頭を巡る中、太陽は沈み、やがて夜の帳が下りた。


……しかし、何も起こらなかった。


 おかしい。祭りの日付は絶対に間違えていない。俺の三千時間のプレイ時間は伊達じゃない。

 形容しがたい嫌な予感が全身を駆け巡り、俺は自ら城を飛び出した。勇者アルセウスの足取りを追ってたどり着いた魔王城は、激戦の跡などどこにもなく、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。城の構造を無視した最短ルート上にだけ、最小限の破壊の痕跡が残っている。無礼を承知で魔王の部屋まで赴いたが、そこにある玉座には傷一つ残っていなかった。そこに君臨していたはずの魔王の魔力も、一切感じられない。

 かろうじて瓦礫の陰で震えていたゴブリンを捕まえ、問い詰める。


「ゆ、勇者なら……三日も前に……。『壁抜け』だの『ムービースキップ』だの叫びながら、崖のテクスチャの隙間から侵入し、魔王様は詠唱をキャンセルされ続けて3分で……」


……RTA走者だったのかよ!!


 俺が死の運命を回避するため、血反吐を吐くような努力を重ねていた二年間、奴はバグ技と最適化ルートを駆使してとっくにゲームをクリアしていたのだ。俺という中ボスなど、タイムロスするだけの無価値な存在として、華麗にスルーされていたというわけだ。

 全身から力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。最強の力を手に入れた。だが、その力を振るうべきシナリオはもうこの世界に存在しない。


 それから一ヶ月。俺は玉座でゆっくりとしている暇などなかった。

 魔王の突然の消滅により、魔王軍は統制を失って各地で内乱が勃発したのだ。

 だが、俺の領地だけは例外だった。この二年間、俺が領地経営に精を出しすぎた結果、ここは魔王軍で唯一、兵站も統治も完璧な鉄壁の要塞と化していたのである。


 結果、どうなったか。

 敗残兵はなだれ込み、他領からの支援要請は山積みになり、新たな覇権を狙う同僚からの使者が後を絶たない。釈然としない心を抱えながらも、俺は結局、休む間もなくバリバリ働かざるを得なかった。

 勇者対策という明確な目標を失った今この仕事は虚しいだけだったが、俺が手を止めればリヴィアや俺についてきてくれた部下たちが路頭に迷う。それだけはどうしても避けたかった。


 そんな地獄のような後始末に追われて更に一ヶ月が経った、ある日のことだった。

 山積みの書類を前に俺が玉座でこめかみを押さえた瞬間、目の前の空間が水面のように揺らぎ、裂けた。そこから眩いばかりの光を放つ一枚の羊皮紙が、ゆっくりと舞い降りてくる。差出人は、この世界の創造神。羊皮紙には神々しい文字が綴られていた。


「『怠惰の魔将グレイゾーン』。否、自らの意志で運命を超克せし者よ。初代魔王はシステム上の『役割』に過ぎなかったが、汝は努力と知識で物語の強制力すら逸脱した。その力、その意志、実に見事である。

 故に、汝に新たな『役割』を授ける。世界の均衡を司る、二代目魔王の座を」


 呆然とする俺の目の前で、羊皮紙の文字が再び光を放ち、追伸を紡ぎ出す。


「追伸:観測したところ、先の勇者アルセウスは『強くてニューゲーム』を開始した模様。彼の推定魔王城到達時間は、およそ45分となる見込み。従って、次代の勇者(※同一人物)が退屈せぬよう、ただちに魔王として君臨し、世界の物語をより豊かにすることを期待する」


 光の文字が静かに消え、神々しい羊皮紙もまた、塵となって霧散した。

 玉座の間に、重い沈黙が落ちる。


 二年と二ヶ月。俺は一度も、まともに休んだことすらない。

 張り詰め続けた緊張の糸が、神からの無慈悲な宣告によってぷつりと音を立てて切れたのを感じた。


 その時、傍らに控えていた秘書のリヴィアが、感極まった様子で俺の前に深く膝をついた。彼女に続き、広間に控えていた全ての部下たちが一斉にひれ伏す。彼らの目には神の啓示を受け、今まさに誕生した新たなる王への揺るぎない忠誠と期待の光が宿っていた。


「グレイゾーン様……いえ、新たなる魔王陛下」

 リヴィアが震える声で、しかしはっきりと言った。

「我らに、最初の御命令を」


 シーンと静まり返った玉座の間で、全ての配下が俺の言葉を待っている。

 二代目魔王としての、記念すべき最初の勅令を。

 俺は顔面蒼白のままゆっくりと、再び玉座に深く沈み込んだ。


 そしてか細く、かろうじて絞り出した声でこう言った。


「……すまん。……ちょっと、五分ほど……休みをくれ……」






 <完>


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