供物
酒場の空気は、まるで鉛のように重かった。
「頼む、エルナ。このパーティを抜けてくれ」
リーダーであるナッシュの言葉に、銀髪の魔法使いエルナは顔を上げた。その瞳が信じられないものを見るように揺れている。
「……どうして? 私が未熟だから? もっと頑張るから、お願い……」
「そうじゃないんだ!」
エルナの隣に座っていた副リーダー、彼女の幼馴染でもあるライアンが苦しげに叫ぶ。彼の視線は、テーブルの隅に座る神官見習いの少女、リナへと一瞬だけ鋭く向けられた。
リナはこの街でも有数の裕福な商家の一族の娘だ。その一族の幸運は、代々神々への信仰が篤いからだと噂されている。彼女は俯き、ただ小さく震えているだけだった。
「……エルナ。君がいると、良くないことが続く」
俺、こと斥候のカイが口を開いた。「先日、故郷の叔母さんに会ったんだ。昔から、そういうのが見える人でな。以前こっちに来たときにパーティに良くないものがあるから気をつけな、と言われてな。みんなには内緒で、全員のことを視てもらったんだ。そしたら叔母さん、泡を吹いて卒倒しちまって……理由を聞いても何も教えてくれないけど、原因はエルナ、君なのは間違いないんだ」
それが、決定打だった。エルナは何も言わず静かに席を立ち、小さな背中を震わせながら酒場を去っていった。
しばらくの間、俺たちは正しい選択をしたのだと信じていた。
エルナがいなくなってから、あれほど続いた不運は嘘のように止んだ。そして何より、ライアンとリナが付き合い始めたのだ。幼馴染を失ったライアンの傷を、リナが優しく癒したようだった。俺たちはエルナに罪悪感を抱きながらも、二人の幸せを祝福した。これで全てが良い方向へ向かうのだと。
そんな折、リナが死んだ。
街の広場の真ん中で、腹を裂かれ、内臓をぶちまけられて。衛兵曰く、人やモンスターの仕業とは到底思えない、あまりにも異様な死に様だったという。
ライアンは半狂乱になり、「俺のせいだ」と叫びながらパーティを抜けた。
悲嘆に暮れる俺たちを、再びあの嫌な空気が包み込み始めた。だが、その質は以前とは明らかに違っていた。
以前の不幸が「運が悪い」で済むものなら、今度のはもっと直接的で、悪意に満ちていた。夜通し磨いたナッシュの鎧には、朝になると必ず拭ったはずの血痕がべったりと付着していた。非常用の保存食の袋を開ければ、見たこともない太った芋虫が、中身を喰い荒らして蠢いている。不幸が、俺たちのすぐ傍で形を持ち始めたのだ。
ナッシュと二人、ライアンの様子を見に行こうと彼が寝泊まりしていた宿屋を訪ねたのは、それから数日後のことだった。宿屋の主人に聞くと、もう一週間も部屋から出てこないという。合鍵で扉を開けると、そこには首を吊って冷たくなったライアンの姿があった。部屋には、走り書きのメモが一枚だけ。
『何かが来る』
俺はもう、叔母に頼るしかなかった。大金を払って魔法の通信水晶を借り受け、故郷の叔母に助けを求めた。これまでの経緯を全て話すと、叔母は長い沈黙の後、震える声でこう尋ねた。
「……カイ。最初に死んだのは、リナという子で間違いないんだね?」
俺が頷くと、叔母は絶望的な声色で、ある一族に伝わる禁忌の呪いについて語り始めた。
「その子の一族には、良くない噂があったよ。人を不幸の依り代とし、最後にその命を贄として捧げることで、術者の願いを叶える呪具を作り出す、と……」
叔母の言葉に、俺の頭の中で最悪のピースが組み上がっていく。
じゃあ、リナは……?
彼女がライアンに恋心を抱いていたのは、ずっと前から知っていた。
おそらく彼女は、エルナを依り代にしてライアンと結ばれるという願いを叶えようとしたのだ。
だが、エルナは殺されていない。どこかの街で、今も生きているはずだ。
それなのに、リナの願いは叶った。たとえ、ほんの僅かな間だとしても。
儀式が不完全だったのなら、願いは叶うはずがない。もし、願いが叶ったのだとしたら、それはつまり……
「リナ自身が生贄になったのか……?」
俺の呟きに、叔母は静かに肯定した。
「ああ。多分、最悪の形で願いを叶えてしまったんだろう。……カイ、よくお聞き。呪いというのは、一度願いを叶えても、決して終わることなくつきまとうものなんだ。一度呪ってしまえば、何代にも渡って呪いを続けなければ自身を含む一族か、縁のある者全てに跳ね返ってくる。際限なく、代償を求めながらね……」
俺は息を呑んだ。では、この終わらない恐怖から逃れる術は。
叔母は、俺の心を見透かしたように、震える声で続けた。
「……呪いを終わらせる方法は、ただ一つ。儀式を正しくやり直す…つまり、本来の依り代であるエルナという子を、贄として捧げるしかない」
俺とナッシュは血眼になってエルナを探し回った。だが、その行方は拍子抜けするほど、あっさりと判明した。──辿り着いた先で俺たちが見つけたのは、町外れの寂れた墓地に静かに眠る彼女の姿だった。
ひどく新しい墓石に刻まれた名に最後の希望をへし折られ、愕然と崩れ落ちる。
「ああ、銀髪の魔法使いの嬢ちゃんなら、ひと月ほど前に亡くなったよ」
彼女の最期を見たという衛兵は、忌まわしい記憶を思い出すかのように顔をしかめた。
「路地裏で殺されてたんだが、その死に様がひどくてな。腹をかっさばかれ、内臓をぶちまけられて……獣の仕業でもない、あまりにも異様で……」
リナと、同じ死に方だった。
俺たちの頭は真っ白になった。
呪いを解く唯一の手段。俺たちが、最後に残された希望だと信じて握りしめた一振りの剣。
その刃が届くべき相手は、もうこの世のどこにもいない。
ライアンの書き置きが頭に響く。『何かが来る』。
ああ、来るんだ。俺たちの絶望を喰らい尽くしに。
そして、もう、それを止める術はどこにもない。
<完>
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