スベり芸人、異世界デビュー

@senbero

第1話

夜のライブハウス。薄暗い客席にはまばらに人影があるだけで、空気は重い。タクミは舞台袖で深呼吸をする。

「……今日も通じへんやろな……」

十五年続けてきた芸人生。漫才でもピンでも、観客を笑わせた実感はほとんどない。


舞台に立つと、タクミはいつものネタを始める。

「昨日コンビニで見たんですけどね、カップラーメンの湯切り口、熱湯で指ヤケドする仕様になってますねん! 手だけでなく心も火傷しましたわ!」


客席は微動だにせず、スマホをいじる音だけが響く。

「……やっぱり、今日もスベったか……」

タクミは肩を落としながらも、心の奥で「笑いを届けたい」という情熱が消えていなかった。


ライブ後、タクミは帰路についた。疲れと落胆を抱え、夜の街を歩いていると、千鳥足の酔っ払いに突き飛ばされた。身体のバランスを崩し、路地から車道へ出てしまう。


そのとき、車道には少年と小さな子供が立っており、車が少年の方に向かって迫っていた。


「やばい……!」

タクミは反射的に子供を抱き上げ、歩道の方へ突き飛ばす。子供は安全に逃げ、驚きと安堵で小さく泣き声をあげた。しかしタクミは車の前に残され、避ける暇もなく轢かれてしまう。


子供は泣きながらタクミを見つめる。意識が遠のく中、タクミは必死で声を絞り出した。

「……あ、あはは……あのな……えーっと……靴下の片方、穴あいてても履けるやろ……?」


傍から見れば全くしょうもないギャグだ。しかし、子供は涙を拭いながらも笑いがこぼれた。

タクミが最後に見たのは、泣きながらも笑う子供の姿だった。


意識が闇に沈むと、タクミは柔らかい光に包まれて目を開けた。全身の痛みは残るが、周囲は眩しいほどの白い空間だった。


「……ここは……?」

タクミはフラフラと立ち尽くす。無限に白く光る空間が広がる。


「お前、相変わらずタイミング悪いな」

白いスーツを着た男が現れた。顔は松○人○そっくりだ。

「普通は自分だけ轢かれそうになったら騒ぐやろ。なのにお前、子供を突き飛ばして死にかけるんやな。いや、これは……面白い、いや、ええ話や」


タクミは痛みに顔を歪め、息を荒げながらつぶやく。

「え……ええ話……ですか……?」


神は肩をすくめて軽く笑う。

「笑いってのは派手にやるもんやない。言葉と状況で心を動かすんや。お前はそれができる……まだ自覚はないだけや」


タクミは混乱しつつも小さく笑みを浮かべる。

「……俺が……芸で……?」


神は皮肉混じりに言葉を重ねる。

「次の舞台は“笑いを忘れた世界”。チートも魔法もなし。お前の武器は芸だけや。せやけど、安心しろ。お前なら……いや、できるかどうかは知らんけど、とにかくやってみろ」


フラフラと立つタクミに神はさらに続ける。

「笑いってのは一発で取るもんやない。状況、タイミング、言葉、全部重なって初めて心を揺さぶるんや。お前は、生まれながらにそれを持っとるんやで」


タクミはうなずくしかなかった。神は肩を揺らして軽く笑い、手を振った。

「そろそろ行け、タクミ。舞台は準備できとる」


光がタクミを包み、体を持ち上げる。フワリと宙に浮く感覚に、恐怖と期待が入り混じる。次に目を開けたとき、見知らぬ森に立っていた。木々のざわめき、湿った苔の匂い、かすかな風の音が肌に触れる。


森を抜けると、石造りの小さな村が見えた。村は沈んだ空気に包まれ、人々の表情は暗く、子供たちは遊ばず、畑は痩せている。


「……笑顔ゼロやん。日本よりさらに寒い空気やな」


タクミは勇気を出して声をかけた。

「よっ! 俺、タクミです! 笑いを届けにきました!」


村人は無表情で通り過ぎる。タクミは肩を落とすが、すぐに切り替え、道端の石やリンゴを拾って小さなネタを披露する。

「ほら皆さん! このリンゴ、実はバナナなんです! いや、手袋必須で食べるんやで!」


村人は依然として反応なし。しかし、黒髪に小さな角が生えた少年が、じっとタクミを見ている。

タクミは鼻に指を突っ込み、片手を振った。

「……どうや、笑えるやろ?」


少年は口元をわずかにゆるめ、微かな笑みをこぼした。

タクミはそれを見て大喜びする。

「よっしゃ、初観客や!」


こうして、笑いを届けるための新しい舞台――笑えない異世界での冒険が、タクミに始まった。

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