ノブレス・オブリージュ
埴輪庭(はにわば)
高位貴族たる者
◇
私がアリス・パラッシュ男爵令嬢としての人生を歩み始めて十六年になる。もしこの人生が一度目なら、今頃は貴族社会の常識にどっぷり浸かり身分相応の幸せを夢見る純朴な少女に育っていたかもしれない。
だが残念ながらあるいは幸運なことに私には前世の記憶がある。
それは「日本」という名の国の記憶だ。日本では広告代理店の会社員としてはたらいていた。恋愛経験など皆無で、唯一の癒やしは仕事の合間にプレイする乙女ゲーム。といっても、一日十分かそこらなのだが……。というのも、私はもうザ・ブラックとでも言える様な過酷なスケジュールではたらいていたからだ。そしておそらくは過労が原因だろう、呆気なくその生涯を終えた。三十路手前だった。
そんな記憶が蘇ったのは八歳の誕生日だった。馬車に揺られながら窓の外に広がる中世ヨーロッパ風の街並みを眺めていた時突然濁流のように前世の知識と経験が流れ込んできたのだ。
そして私は理解した。ここが私が死ぬ直前まで熱狂的にハマっていた乙女ゲーム『ロイヤル・ラビリンス』通称『ロイヤルラビ』の世界そのものであることを。
オルクス王国。大陸に覇を唱える大国。だがその繁栄の裏には厳格な身分制度が存在する。高位貴族は絶大な権力と富を独占し、私たち下位貴族とは雲泥の差の豪奢な生活を送っている。ゲームのヒロインはそんな貴族社会の歪みに疑問を抱きながらも、持ち前の明るさと現代的な価値観で攻略対象たちの心を掴んでいく。王道中の王道だ。
そしてその攻略対象たちの頂点に立つのが我が国の王太子殿下、レイナルド・オルクス。
艶やかな銀髪は月光を編んだようで、アメジストのような紫の瞳は全てを見透かすかのよう。完璧な容姿と明晰な頭脳を併せ持つ完璧超人。ただ、その態度は氷のように冷たく容易に人を寄せ付けない──まさに「氷の貴公子」。ゲームでは最高難易度の攻略対象だったが、その分デレた時の破壊力は凄まじかった。
当然そんな完璧な王子様には絵に描いたような婚約者がいる。キャロル・モリアーティ公爵令嬢。燃えるような赤毛を縦ロールにし、エメラルドグリーンの瞳を挑戦的に吊り上げている。絶世の美女だが、性格は高慢で傲慢。家柄を鼻にかけ、自分より身分の低い者を見下すTHE・悪役令嬢だ。ゲームではmヒロインがレイナルドに近づくとそれはもう執拗に陰湿に嫌がらせを繰り返す。
私の立場はといえばアリス・パラッシュ男爵令嬢。ゲームではヒロインの友人の友人のそのまた友人といった感じ──要するにモブだ。下級貴族のしがない娘で、キャラ設定もろくに定まっていない。
だが状況は変わった。私の中身はブラック企業で酸いも甘いも嚙み分けた元日本人女性だ。しかもゲームの攻略情報は完璧に頭に入っている。
「これはもうやるしかないでしょう」
鏡の前で私は自分の姿を確認する。平凡な茶色の髪に平凡な顔立ち。だが悪くはない。磨けば光る素材だと思う。
せっかく乙女ゲームの世界に転生したのだ。前世の分までこの世界で最高の幸せを掴んでみせる。狙うは勿論王太子レイナルド。あんなイケメンと恋に落ちて玉の輿に乗る。薔薇色のそして何より「楽な」人生が約束されているようなものじゃないか。
こうして私は王立オルクス学園への入学と同時に壮大な「王太子攻略作戦」を開始したのである。
◇
王立オルクス学園は将来の国を担う貴族の子弟たちが集う全寮制のエリート校だ。広大な敷地には歴史を感じさせる荘厳な校舎が立ち並び、設備はどれも最高級。私の第二の人生を始めるには最高のステージだと言える。
そして入学式の日。私は期待に胸を膨らませていた。そして講堂の壇上に立つレイナルド殿下の姿を初めて生で見た時、私は改めて決意を固めた。
「かっこよすぎる……」
スチルで見るよりも千倍美しい。彼が動くだけで周囲の空気がピンと張り詰める。隣に控えるキャロル様も憎たらしいほどに美しく、そして堂々としていた。完璧なカップルだ──でもその間に割って入るのが乙女ゲームの醍醐味だ。
私の作戦はシンプルだった。ゲームの知識を駆使してイベント発生ポイントを確実に押さえていく。
最初の接触は学園の図書館。ゲームの序盤、レイナルドはいつも図書館の奥まった席で難解な歴史書を読んでいたはず。
入学から一週間後。私はそのタイミングを見計らって図書館へ向かった。案の定彼はそこにいた。窓から差し込む午後の光が彼の銀髪を輝かせている。絵画のような光景だった。
私は緊張を押し隠し彼が読んでいる本の隣の書棚に近づいた。狙いは古代オルクス帝国の法制度に関する専門書。彼が関心を持っている分野だ。
「失礼いたします」
私はわざとらしく背伸びをして目当ての本に指先が届かないふりをした。古典的な手だがそれが王道だ。
「……」
殿下はちらりと私を一瞥したがすぐに視線を手元の本に戻した。さすがは氷の貴公子。反応が薄い。だがこれは想定内。
「あの……届かない……」
私が困ったように呟くとため息とともに私の頭上からすっと長い腕が伸びてきた。そしてこともなげにその分厚い本を取ってくれた。
「これを探していたのか?」
低く落ち着いた心地よい声だった。ゲームで聞き慣れた声優の声とは違うがこれはこれで素晴らしい。
「あ、ありがとうございます。殿下」
私は少し頬を赤らめながら、本を受け取った。その際指先が少しだけ触れ合う。完璧な流れだ。
「古代オルクス法制度論か」
彼の紫の瞳が私を捉えた。心臓が跳ね上がる。
「はい。わたくし歴史が好きなんです。特に過去の法制度がどのように人々の生活に影響を与えていたのかに興味がありまして」
これもゲーム通りの模範解答。レイナルドは知的な女性が好みなのだ。
「ほう……。例えばどの部分にだ?」
彼は少しだけ興味を示したようだった。私は畳みかける。
「例えば第三代皇帝が発布した奴隷解放令です。あれは人道的な見地からだけでなく、経済的な合理性に基づいた政策だったと言われています。身分や家柄に関係なく能力のある者が活躍できる社会を目指したものでしたよね、たしか。その精神は現代の私たちにも通じるものがあると思います」
この国は身分制度が厳しい。高位貴族は特権を享受し下位貴族を見下している。だがレイナルドは家柄だけでなく個人の能力も重視するリベラルな考えを持っている(という設定だ)。そこに共感を示すことで彼の心を開かせるのだ。
「……君は面白い考え方をするな」
レイナルド殿下はほんの少しだけ口角を上げたように見えた。氷の微笑。う~ん、美しい……
「随分と広い視野を持っているようだ」
「恐縮です。でも本の中で学んだことばかりですから……現実の社会で活きる知識かどうかはわかりません」
「名前は?」
「アリス・パラッシュと申します」
「そうか。アリス。覚えておこう」
やった! 第一段階クリアだ。私は心の中でガッツポーズをした。
それからというもの私の攻略は順調に進んだ。
次なるイベントは「中庭でのランチ」だ。レイナルド殿下は多忙な公務の合間を縫って、時折一人で中庭のカフェスペースで昼食をとる。
私は手作りのサンドイッチが入ったバスケットを手に偶然を装ってそこへ向かった。
「あら殿下。こんなところにいらしたのですね」
「……アリスか。君もここで?」
「はい。お天気が良いので。もしご迷惑でなければご一緒してもよろしいでしょうか」
私はにっこりと微笑んだ。怯えず媚びず。あくまで対等な学友として接する。これが攻略の鍵だ。
「……好きにしろ」
彼は短くそう言うと再び手元の書類に視線を落とした。許可が出た。
私は少し離れたベンチに腰掛けバスケットを開いた。しばらく沈黙が続いたがそれは心地よいものだった。
数日後。再び中庭で会った時彼の方から話しかけてきた。
「君が持っているそれ。いつも自分で作っているのか」
彼が視線を向けていたのは私のサンドイッチだった。
「はい。簡単なものですけれど。殿下も召し上がってみますか? 多めに作ってきたんです」
王太子に手料理を勧めるなんて普通ならあり得ない。不敬罪に問われてもおかしくない。だがこれがイベント発生の鍵なのだ。
彼は怪訝な顔で私とサンドイッチを見比べた。
「どうぞ」
私は笑って促す。彼はしばらく逡巡していたがやがておずおずと手を伸ばしサンドイッチを受け取った。
そして一口。
「…………」
彼は何も言わなかった。だがその目が僅かに見開かれたのを私は見逃さなかった。そしてもう一口。あっという間に彼はサンドイッチを平らげてしまった。
「……悪くない」
彼がぽつりと呟いた。大成功だ。
それからというもの彼との距離は急速に縮まっていった。彼は相変わらず忙しそうだったが、事あるタイミングで話す機会を作る事が出来た。
「アリス、君の考えはいつも興味深い。凝り固まった貴族の常識に囚われていない」
ある時、彼はそう言ってくれた。
「私は思ったことをそのまま口にしているだけです。それが殿下のお役に立てているのなら光栄です」
「ああ、大いに役立っている。君と話していると息がつける」
息がつける──その言葉が嬉しかった。彼もまた王太子という立場に窮屈さを感じているのかもしれない。
このままいけばきっと彼を攻略できる。そんな確信が私の中にはあった。
だが、そのままスムーズにいくとは思っていない。
なぜなら、当然それを快く思わない人物もいるからだ。
◇
ある日の放課後。教室で帰る準備をしていると数人の女子生徒に取り囲まれた。中心にいるのはキャロル・モリアーティ公爵令嬢。
「ごきげんよう、パラッシュ男爵令嬢」
彼女は扇子で口元を隠し冷ややかに言った。その目は全く笑っていない。来た。悪役令嬢の登場だ。
「ごきげんようモリアーティ様。何か御用でしょうか」
私は平静を装って答えた。
「最近あなたが殿下と随分と馴れ馴れしくされていると伺いましたわ。身分を弁えず厚かましいにも程がありますわね」
キャロルの取り巻きたちがクスクスと笑う。テンプレ通りの展開だ。
「あら学友としてお話しているだけです。何か問題でも?」
「問題大ありですわ! あなたは下位貴族の分際で王太子殿下の貴重なお時間を奪っているのです。殿下は将来この国を背負って立つお方。あなたのような方が気軽に話しかけていい相手ではありませんのよ!」
キャロルの言葉は刺々しかった。だが私は怯まない。これも乙女ゲームのイベントの一つ。ここで屈すれば全てが終わってしまう。
「ですが殿下は私の話を興味深く聞いてくださいます。身分など関係なく学ぶべきことは多いと仰っていました」
これは殿下が実際に言っていたことだ。私はそれを盾にした。
キャロルは忌々しそうに眉を顰めた。
「殿下がお優しいからといってつけあがるものではありませんわ。おやめなさい。でなければ……」
彼女はそこで言葉を切り私を睨みつけた。脅迫だ。これからいじめが始まるのだろうか。教科書を隠されたり階段から突き落とされたりするのかもしれない。
だが私は毅然とした態度で答えた。学生のいじめなんて怖くない。こちとら社会人としてそれなりに経験を積んできた身だ。
「私は自分の信念に従って行動します。では失礼します」
私は彼女たちの横をすり抜けて教室を出た。キマったかな? 背後でキャロルが「キーッ!」と悔しそうに歯噛みするのが聞こえた気がした。
これでいい。悪役令嬢に敵視されるということは私がヒロインの座に近づいている証拠だ。
全てが順調だった。ゲームのシナリオ通りに世界は私のために回っている。そう信じて疑わなかった。
だが現実はゲームよりも遥かに奇妙で、そして恐ろしいものだった事をこの時の私は気付いていなかった。
◇
レイナルド殿下との関係が深まるにつれて、私は少しずつ違和感を覚え始めていた。
きっかけは些細なことだった。完璧なはずの彼の肌が少し荒れているように見えることがあったのだ。寝不足だろうか?
ある日、私は彼との会話の中で何気なく尋ねてみた。
「レイ様はいつも何時頃にお休みになられているのですか?」
ああそうだ、最近、彼は私に「レイ」と呼ぶことを許してくれた。これはもう完全にルートに乗った証拠だろう。
彼は少し考え込むようにしてから答えた。
「そうだな……だいたい深夜三時頃だろうか」
「三時!? そんなに遅くまで起きていらっしゃるのですか? えっと、毎日ですか?」
「ああ、毎日だな」
私は驚いた。前世の感覚からすれば完全な夜更かしだ。いや、まあ私もそのくらいまで起きてることはままあったが。ただ、さすがに毎日そんな感じではない。体がもたない。
「学園の課題だけでなく王城から送られてくる公務の書類にも目を通さなければならないからな。それに語学の勉強もある」
「語学ですか。殿下はもう十分堪能でいらっしゃるのに」
この国の公用語以外にも、彼は隣国の言葉を流暢に話す。
「いや足りない。王族は最低でも五か国語は話せなければならない。私は今七か国語目を習得中だ。東方の小国の言語だがこれがなかなか難解でな」
サラリと彼は言ったが、その内容は全くサラリとしていなかった。七か国語? 正気か? 私は日本語とこの世界の言葉で精一杯だ。
「では朝は何時にお目覚めに?」
「四時だ」
「よ、四時!?」
私は絶句した。深夜三時に寝て朝四時に起きる。ということは睡眠時間は一時間しかないということか。
「一時間……? それだけで足りるのですか?」
「十分だ。それ以上寝ると時間が勿体ない。まあそれに、疲れがたまってるなと感じた時は仮眠を取っているよ」
彼はこともなげに言った。信じられなかった。前世のブラック企業でももう少し寝ていたはずだ。いや待て。私が過労死したのはもしかしてこれに近い生活を送っていたからでは?
「四時に起きて、まずは魔力の調整と瞑想を行う。それから剣術の朝稽古だ。王宮騎士団長直々の指導だから気が抜けない」
彼は淡々と説明を続けた。そのスケジュールは私の想像を絶するものだった。
朝四時起床。魔力調整瞑想。
五時。剣術稽古。
六時。帝王学講義(宰相直々)。
七時。朝食(という名の各大臣との打ち合わせ。食事中も常に報告書に目を通す)。
八時。学園登校。
八時半から十五時まで。学園での授業(一般教養魔術剣術礼儀作法など。もちろん全て完璧にこなす)。
十五時から十八時まで。学園での自主学習(という名の膨大な課題と国内外の情勢分析)。
十八時から二十時まで。王城での公務(書類決裁陳情対応他国要人との会談)。
二十時から二十二時まで。夕食(という名の他国大使との会食や貴族たちとの夜会)。
二十二時から二十四時まで。魔術訓練(宮廷魔術師長直々。実践形式での模擬戦)。
二十四時から深夜二時まで。語学習得芸術(音楽絵画など)の練習そしてようやく自由時間(という名の読書による知識のアップデート)。
深夜二時から深夜三時までは翌日の準備や、あとは僅かなプライベートの時間。
「……休みはないのですか?」
私は恐る恐る尋ねた。
「休み? 何のことだ?」
彼は不思議そうに首を傾げた。その反応が私には恐怖だった。彼は本気で言っているのだ。
「いえその……週に一度くらいは何もせずにゆっくり過ごす日があっても良いのでは……」
「そんな無駄な時間はない。王族たる者常に心身を鍛え知識を蓄え国の為に尽くさなければならない。それが我々の責務だ。一日休めばその分だけ国力の低下に繋がる」
彼はきっぱりと言い切った。その表情には微塵の迷いもなかった。
私は背筋が寒くなった。これは前世で言うところのブラック企業どころの話ではない。超絶ブラックな労働環境だ。しかもそれを当たり前だと思っている。
「……大変ですね」
私はそれ以上何も言えなかった。
それ以来私は殿下の様子を注意深く観察するようになった。
私はふと思う。生の殿下は確かに完璧だった。だがその完璧さは、常軌を逸した努力によって支えられていたのだとしたら──?
◇
ある時私は魔術の訓練場で彼の姿を見かけた。彼は一人で黙々と巨大な岩を魔力で持ち上げる訓練をしていた。その集中力は凄まじく、額からは滝のような汗が流れていた。
「はあっ……!」
彼が気合を入れると岩がさらに高く持ち上がる。だがその瞬間彼の体がぐらりと傾いた。
「危ない!」
私は思わず駆け寄ろうとした。だが彼はすぐに体勢を立て直し懐から小瓶を取り出すと中の液体を一気に飲み干す。すると彼の顔に赤みが戻り再び訓練を再開した。
あれは魔力回復ポーション? いやもしかしてエナジードリンクのようなもの?
私はドン引きした。そこまでして鍛える必要があるのだろうか?
そしてその疑問はキャロルに対しても向けられた。
彼女は相変わらず私に対して敵意を向けてきたが、不思議なことに具体的な「いじめ」は何もしてこなかった。せいぜい嫌味を言ってくるくらいだ。
それもそのはずだ。彼女もまた恐ろしく忙しい日々を送っていたのだ。
ある時私は図書館でキャロルの姿を見かけた。彼女は机の上に山のような本を積み上げ一心不乱に勉強していた。その集中力は凄まじく、周囲の音が一切耳に入っていないようだった。彼女が読んでいるのは隣国の経済学に関する専門書だった。
彼女の取り巻きたちも同様だった。彼女たちはキャロルの隣でそれぞれ違う分野の本を読んでいた。ある者は法律書を、ある者は軍事戦略書を、ある者は古代魔術の文献を。
彼女たちはただ家柄が良くて意地悪なお嬢様ではなかった。想像を絶する努力を積んでいるエリート集団だったのだ。
いじめなどしている暇はない。彼女たちにはそんな無駄な時間を使う余裕などないのだ。
私は愕然とした。これがこの国の高位貴族の姿なのか。
この国の高位貴族は極めて大きな権利と財産を持っている。だがそれは、彼らがその特権に見合うだけの──いやそれ以上の努力を強いられているからだったとすれば。
私は実態を確かめるべく同じ下級貴族の友人たちに話を聞いてみることにした。
◇
「ねえ、高位貴族の方々って普段どんな生活をされているのかしら」
私がそう尋ねると、友人たちは顔を見合わせた。
「アリス、あなた最近殿下と親しくされているからよく知っているのではないの?」
「ええまあ……。でも他の方々はどうなのかしらと思って」
私が誤魔化すと、友人の一人が声を潜めて言った。
「高位貴族の方々は私たちとは住む世界が違うわ。あの方々はこの国を支えるために、日々血の滲むような努力をされているのよ」
聞けば、高位貴族の子弟は幼い頃から英才教育を受けるとの事。学問はもちろん、武術、魔術、芸術、礼儀作法。全てにおいて完璧であることを求められる。
そして成人すると同時に国の要職に就き、その責務を果たす。彼らには絶大な権利が与えられているが、それと引き換えに命を削るような生活を強いられているらしい。いや、強いられているというのもおかしいか。彼らは望んでその様な生活を送っているとの事だから。
「特に王族の方々は常軌を逸しているわ。殿下の睡眠時間が一時間というのは有名な話よ。先代の国王陛下もそうだったとか」
やはり殿下のあの生活は異常ではなかったのだ。この国ではそれが当たり前なのだ。
「信じられない……。そんな生活私には絶対に無理だわ」
私が本音を漏らすと友人たちは笑った。
「当たり前よ。私たち下級貴族にはそんな重責は担えないわ。だからこそ私たちはあの方々を尊敬し、感謝しなければならないのよ」
私はさらにドン引きした。尊敬? 感謝? こんなブラックな労働環境を放置しているこの国はおかしい。労働基準法違反だ。
だが友人たちの目は真剣だった。彼らは本気でそう思っているのだ。この国の繁栄は高位貴族たちの犠牲の上に成り立っている。それがこの世界の常識なのだ。
私は悩んだ。もし私が殿下を略奪した場合。私が王太子妃となった場合。
それは私も“彼ら”と同じ生活を送らなければならないということを意味する。キャロルが受けているだろう王太子妃教育。それはきっと殿下が受けている帝王学と同じくらい、あるいはそれ以上に過酷なものに違いない。
私は恐怖を感じた。そんな生活私には絶対に無理だ。
私は前世で過労死したのだ。この世界でまでそんなブラックな生活を送りたくはない。絶対に嫌だ。
私はお気楽に生きていきたいのだ。ほどほどに働き、たっぷりと眠り、美味しいものを食べて──たまに贅沢をする。そんな普通の幸せを求めているのだ。
王太子妃なんて柄じゃない。
押せば押し切れるという感覚はまだある。だが押していいのか。いや押すべきではない。私はブレーキを踏むことを決意した。
◇
ある日、私はキャロルに呼び出された。
場所は学園の裏庭。人目につかない静かな場所だ。決闘の定番スポットでもある。
「ごきげんようアリスさん。お呼び立てして申し訳ありませんわね」
キャロルはいつものように高慢な態度で私を迎えた。彼女の周りには取り巻きたちが控えている。皆一様に疲れた顔をしているように見えるのは気のせいだろうか。
「いえ。それで、お話というのは?」
私は身構えた。いよいよ本格的ないじめが始まるのかもしれない。あるいは私の心の迷いを見抜かれたのか。
「単刀直入に申し上げますわ。あなたはまだ殿下につきまとっているの? 最近少し距離を置いているようにも見えますけれど、それはわたくしの目を欺くための猿芝居かしら?」
彼女の言葉は鋭かった。さすがは公爵令嬢。観察眼が鋭い。
「もしわたくしを押しのけて婚約者の座を狙っているのなら──今すぐにおやめなさい」
彼女は扇子をパチンと閉じ私を睨みつけた。
「あなたには務まりませんわ。王太子妃という立場がどれほど重いものかあなたは理解していない」
ゲームのシナリオならここで反論する場面だ。だが今の私には反論なんてする気は全くなかった。彼女の言う通りだ。私には務まらない。絶対に無理だ。だから私は違う行動に出た。ゲームの選択肢にはない行動である。
「……教えてください」
「は?」
キャロルは怪訝な顔をした。
「あなたが普段どのような生活を送っているのか教えてください」
私は彼女に向かって深く深く頭を下げた。それは心からの嘆願だった。
「私は王太子妃という立場がどれほど大変なものか理解していませんでした。ですが最近ようやくその一端を知りました。だからこそあなたのことを知りたいのです。あなたの覚悟を」
私の言葉にキャロルは驚いたように目を見開いた。彼女の取り巻きたちもざわついている。私がこんなにしおらしい態度に出るとは思っていなかったのだろう。
しばらく沈黙が続いた。キャロルは私をじっと見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。それは嘲笑ではなくどこか諦観を含んだような複雑な笑みだった気がする。
「……いいでしょう。わたくしがどのような生活を送っているのか教えて差し上げますわ。そしてあなたがいかに無知で、いかに愚かであるかを思い知らせてあげます」
彼女はそう言うと自分の日常を語り始めた。
その内容は私が想像していた以上に凄まじいものだった。
「まず起床は午前三時ですわ」
それは深夜なのでは……。少なくとも起きる時間ではないだろう。
「身支度を整えた後、まずは魔術の訓練を一時間。王太子妃たるもの、いざという時に殿下をお守りする力が必要ですもの。その後朝食を摂りながらその日の新聞──国内外合わせて二十紙に目を通します。同時に侍女たちから、国内外の要人に関する報告を受けます。そして午前五時からは語学のレッスン。わたくしは現在十二か国語を習得しておりますわ。殿下よりも多くなければサポートはできませんもの。ところでアリスさん、貴女は何か国語を話せて?」
十二か国語? もう笑うしかない。ちなみに私は一か国語だ。日本語を計算に入れれば二か国語だが。
「午前七時からは帝王学、政治学、経済学、軍事学、歴史学、法学などあらゆる分野の講義を受けます。そして学園に登校し授業ですわね。昼休みはわたくしが近くに置いている者たちとのコミュニケーションに努めていますわ。放課後は王宮に戻り、王妃陛下から直々に妃教育を受けます。礼儀作法、社交術、そして危機管理能力。夕食後は再び家庭教師との勉強会。それが終わると武術の訓練ですわね。剣術、体術、護身術を一通り。そして深夜一時に就寝ですわ」
「……それを、毎日?」
「当たり前でしょう? 継続は力なり──毎日続けなければ意味はありませんわよ」
ちょっと、とてもそれは人間業ではない。
「それだけではありませんわ。わたくしは殿下の婚約者として常に完璧でなければなりません。一挙手一投足、全てが見られています。少しのミスも許されません」
彼女は続けた。
「食事もそうですわ。体型維持の為に常に栄養計算された食事しか口にしません。好きなものを好きなだけ食べるなど許されません。不足分の栄養補給は主に特製の魔術薬で行いますわ。ファッションもそうです。常に最新の流行を取り入れ、それでいて品位を保たなければなりません。国内外のデザイナーたちと常に連絡を取り合っていますの」
キャロルは滅茶苦茶偉そうな態度で語っているが、全く不快感はない。彼女は私にはとても出来ない事を平然とやっているからだ。はっきりいって、私は圧倒されてしまった。彼女が高慢な態度をとるのは、その努力に対する絶対的な自信の表れだったのだ。
「信じられません……。体調を崩したりはしないのですか? そんな生活を続けていたらいつか倒れてしまうのでは……」
私がそう問うとキャロルは高らかに笑った。
「オーホッホッホッホ!!」
絵に描いたような悪役令嬢の高笑いだった。
「はぁ……アリスさん、あなたは高位貴族というものを何も分かっていないようですわ」
彼女はやれやれといった様子で首を振った。
「高位貴族は湯水のようにお金を使いますの。最高の医師団と治癒魔術師が常に待機し、完璧な体調管理が行われていますわ。最高級のポーション、最新の魔導具による健康維持。そして魔力による肉体強化。わたくしたちが体調を崩すことなど万に一つもあり得ませんわ──まあ、余り無理がたたると、お肌が荒れたりくらいはしますけれども……。わたくしたちは貴女の様な凡俗とは何もかもが違うのですわよ」
は、反論できない!
「ごらんなさい」
彼女はそう言うと掌を広げた。そこに取り巻きの一人が恭しく金貨を乗せる。ずっしりと重そうな大判の金貨だ。
キャロルはその細く美しい人差し指と親指で金貨を摘むと、次の瞬間信じられない光景が繰り広げられた。
ぐにゃり。
彼女はこともなげに金貨をへし曲げたのだ。
「!!?」
私は目を疑った。金属の硬貨を指の力だけで曲げるなど人間業ではない。まるで手品だ。魔術をつかっているのだろうか? いや、魔力は感じない。彼女は地力でそれをやっている。
キャロルは曲がった金貨を私に見せつけると、それを手渡してきた。
「戻してごらんなさいな。魔術を使わずに」
「え……」
全力で力をいれるものの、びくともしない。当たり前だ。五百円玉より大振りでずっしりした金属を人力で曲げるなんて、そんな事は普通はできないのだ。
「鍛え方が足りないですわねぇ、貸してごらんなさいな」
そういって、キャロルは今度はそれを元に戻した。まるで粘土をこねるかのように簡単に。
「日々の鍛錬によって心身共に鍛え上げられた高位貴族ならば造作もないことですわ。わたくし、少し“長い間勉強したくらい”でへこたれるヤワな鍛え方はしておりませんの。わたくしだけではありませんわよ? わたくしが傍に置いているこの子たちも、殿下も、いえ、高位貴族ならば誰でも。その気になれば一週間くらい飲まず食わず睡眠もせず、国の為に働き続ける事が可能ですわ」
彼女は自慢気に言った。
私はといえば完全に打ちのめされた。これはもう無理だ。生物として違いすぎる。
彼女たちは文字通りの意味で超人だったのだ。常軌を逸した努力を積み重ね、心身共に極限まで鍛え上げられた存在。それがこの国の高位貴族なのだ。
抵抗する気力も反論する言葉も何もない。だから私は──
「申し訳ありませんでした」
深く深く頭を下げた。
「身分を弁えず無礼な真似をして本当に申し訳ありませんでした。私には王太子妃など務まりません。あなたの足元にも及びません」
心からの謝罪だった。そして完全な敗北宣言だった。
キャロルは私の謝罪を黙って聞いていたが、やがて満足そうに頷いた。
「分かればよろしくてよ。あなたの謝罪受け入れますわ」
彼女はそう言うと私に背を向けた。
「わたくしたちの努力によって繁栄を維持できているこの国で、せいぜいお気楽に暮らす事ね。それがあなたのような下級貴族に許された唯一の特権ですわ」
彼女はそう言い残して颯爽と去って行った。取り巻きたちも意地悪そうにクスクスと笑いながらそれに続いた。
だが私は嫌な気分にはならなかった。むしろ清々しい気持ちだった。
彼女たちは本当に凄い。あそこまで徹底的に自分を追い込み、国の為に尽くしている。その姿は悪役令嬢などではなくむしろ英雄のようだった。
私は立ち上がり彼女たちの後ろ姿に向かってもう一度頭を下げた。
「この国をどうかよろしくお願いします!」
私の心は感謝と尊敬の想いで一杯だった。そして心底安堵していた。私が王太子妃にならなくて済んだことに。
・
・
・
キャロル様との一件以来、私は本格的にレイナルド殿下から距離を置くことにした。私の「王太子攻略作戦」は終了したのだ。
この世界は確かにゲームを下敷きにしているかもしれない。だが全く違う別の世界だとよく分かった。
彼らはゲームのキャラクターではない。血の通った人間だ。いや人間を超えた超人たちだ。
私はそんな彼らの人生に安易に踏み込もうとしていたのだ。自分の都合の良いように彼らを利用しようとしていた。
私は自分の愚かさを恥じた。そして同時に彼らに対する尊敬の念を新たにした。
彼らはこの国を守るために自らの人生を犠牲にしている。その覚悟は並大抵のものではない。
私には彼らのようには生きられない。でも私には私の生き方がある。
私はこの世界で私なりの幸せを見つけよう──そう決意したのだった。
◇
それから数年後。私は王立オルクス学園を無事に卒業した。
卒業式の答辞を読むレイナルド殿下の姿は相変わらず完璧だった。その隣にはキャロル様が凛と立っていて──彼女もまた完璧な淑女の姿だった。
二人はお似合いのカップルだった。彼らならきっとこの国を立派に導いていくだろう。
私は彼らに向かって心からの拍手を送った。
レイナルド殿下とキャロル様は卒業後すぐに結婚した。断罪イベント? そんなものはない。二人の結婚式は盛大に行われ、国中が祝福ムードに包まれた。
そうして彼らは今も国のために激務を続けている。たまに新聞で彼らの活躍を目にすることがある。曰く、隣国との外交交渉を成功させた。曰く、新たな魔術理論を確立した。曰く、曰く、曰く──
その度に私は心の中でエールを送っている。
「頑張ってください! でもたまには休んでくださいね! せめて三時間くらいは寝てください!」と。
ちなみに私はといえば、下級貴族としてお気楽に生きている。まあやる事がないわけではない。高位貴族の方々ほどハードではないけれど、それでもそれなりには国に貢献しているつもりだ。
学園卒業後、私は地元で同じ下級貴族の男性と結婚をした。平凡だが優しい人だ。何よりも夜は八時間しっかりと眠る人だ。
休日は二人で出かけたり、家でのんびり過ごしたりしている。要するに、ささやかな幸せを噛みしめている。
たまに、もしあの時王太子妃になっていたらどうなっていただろうと考えることがある。
豪華なドレスを着て、美味しい料理を食べて、贅沢な暮らしをしていただろう。だがその代償として、自由な時間も、そしておそらくは健康な精神をも失っていただろう。
私は今の生活を選んで良かったと心から思っている。
この世界には様々な生き方がある。誰もが英雄になれるわけではないし、なる必要もない。
私は私らしく自由に生きていく。それが私が選んだハッピーエンドなのだから。
ある日の午後、私は夫と一緒に街を歩いていた。
すると向こうから馬車がやってきた。王族の紋章が入った豪華な馬車だ。
馬車は私たちの前を通り過ぎていった。その窓から一瞬だけキャロル様の姿が見えた。
彼女は相変わらず美しかった。
私は彼女に向かって小さく手を振ったが、彼女が気づいたかどうかは分からない。
だがそれで良かった。
私は夫の腕に手を回し、再び歩き出した。
空は青く、風は心地よい。
国の繁栄を支える超人たちに感謝しながら、私は今日も、そしてこれからものんびりと生きていく。
(了)
ノブレス・オブリージュ 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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