第5話
ホームルームが終わると、すぐに授業が始まった。
この日はどうやら、映像授業らしい。
先生は教室の隅に置かれていたテレビモニターを前方中央まで運び、
少し腰を押さえながら、ゆっくりとコンセントを差し込んだ。
パチッと音がして、画面がぼんやりと光る。
その光だけが、静かな教室を淡く照らしていた。
先生はスマホを取り出し、画面と接続する。
それから、生徒たちのほうを見て、無言のまま机の上に大きなタイマーを置いた。
表示されたのは「20」。
それだけで、誰もが“理解”したようだった。
何の説明もなく、生徒たちは一斉にスマートフォンを取り出し、
当たり前のように机の上に並べて構える。
そこに戸惑いや疑問の色は、ひとつもない。
まるで、これもまた“いつもの作業”であるかのように。
準備が整ったのを確認してから、先生が動画の再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは――雪山だった。
風の音だけが、ヒュウヒュウと響いている。
真っ白な雪の世界に、色も音も、ほとんど存在しなかった。
やがてカメラがゆっくりと引いて、二つの影が現れる。
ひとつは、小さなウサギ。
もうひとつは、そのウサギを抱きしめる、少女の姿だった。
少女は震えていた。
細い体をかばうようにして、冷たい空気の中で、ウサギを守っていた。
なにかを言っていた。
でも、音はなかった。
口元だけが、ゆっくりと動いていた。
しばらくして、少女の腕の中でウサギの動きが止まる。
少女は目を伏せ、肩を震わせた。
その頬を、ぽろりと涙が伝う。
まるで真珠のような、きれいな涙だった。
――そこで、動画が止まった。
先生がタイマーのボタンを押す。
カウントが「19」「18」……と下がっていく。
生徒たちはスマホを手に取り、何かを選び始める。
「感情」を、絵文字で答えるために。
Aも、スマホの画面を見つめた。
そこには、たくさんの絵文字が並んでいる。
「😭」「😠」「🥶」「😯」……
でも、どれも、しっくりこなかった。
胸の奥にある、このざわつき。
うまく言葉にできない気持ち。
なにかが、胸の中でずっと叫んでいるような――そんな想い。
でも、それをぴったり表せる絵文字は、ひとつもなかった。
ちらっと周りを見た。
みんなは迷うことなく、ポンポンと絵文字を選んでいる。
Aは、ゆっくりと深呼吸をした。
残り時間は、もう3秒。
……えい、とばかりに「😭」をタップし、先生へ送信した。
テレビ画面に、「😭」の絵文字が映る。
それを見た先生は、各生徒に次々と絵文字で返信を送っていった。
「😭」を送った生徒には、「👍」
それ以外の絵文字には、「👎」
Aにも「👍」が返ってきた。
Aはほっとしたように胸をなでおろす。
けれど――その胸の奥では、まだ何かがくすぶっていた。
モヤのように、黒くて、重くて、正体のわからないものが。
その後も、Aは表情を変えずに、
淡々と次の問題に答え続けた。
授業が終わるやいなや、Aはトイレに駆け込んだ。
便器に向かって、激しく吐いた。
胃の中に残っていた朝食が、喉を通ってこぼれ落ちる。
どうして、こんなにも気持ち悪いんだろう。
それは、体の中から湧き上がるような、どうしようもない“拒絶”だった。
しばらくして個室を出て、手洗い場の鏡を見た。
そこには、自分がいた。
でもどこか、空っぽだった。
きちんと整った顔。
でも、瞳の奥には何も映っていなかった。
そのとき――
Aの頬を、ひとすじの涙が伝った。
さっき、あの少女が流していた涙と、どこか似ていた。
けれど、Aにはまだその涙が、
なぜ流れたのか、わからなかった。
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