第15話「視差(パララックス)という逃がし」

 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって消える。

 昨夜の三行——みてた/ありがと/まだ。

 ノートに見出しを書く。


 《今日の方針:視差(パララックス)で逃がす/触れない/知らせない/視界で返す》

 ——同じ景色でも、位置が違えば重なりは崩れる。過剰な一致を、半歩のずれでほどく。


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・掲示は平常。商店街の会館は避難経路の掲示張り替え。……寄贈パソコン、電源オフでまた“Draft(1)”が点いて消えた。システム担当の見立ては相変わらず『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』」


 私は頷く。「主観は良。息、深い」



 児童コーナーで掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。

 【下書き保存】——おなじにするな

 【下書き保存】——ずらせ


 “ボイスメモ”を開き、録音。底で二つの拍が過剰に重なり、息がつまる音。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・西口】


 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。


 地下歩道の西口は、学校帰りの列と台車の往来が同じ中央線上に乗っていた。

 触れない。

 私は階段の二段目、手すりの影の端に立つ。自分の影が中央線から半歩外れる角度に。

 先頭の生徒がそのずれを拾い、列が右寄せに薄く移る。台車は反対側へ左抜け。

 重なりがほどけ、流れが通る。

 震え。

 【下書き保存】——わかれた

 【下書き保存】——よかった



 図書館に戻ると、玲生が付箋を一枚重ねる。

 「外縁。西口の混み、自然解消。……寄贈PCの“Draft(1)”、午前に二回。ログは空白」


 胸の内で薄い氷が鳴る。私はしらせるなの線を撫で、うなずくだけにする。



 昼過ぎ、ポケットが二度震えた。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 波形に違うテンポ。保存名が続けて埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・芝生端】

 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】


 視差が効くのは人の場——公園を選ぶ。


 白妙公園では、読み聞かせの輪とフリスビーの軌道が同じ視線高さで交錯しかけていた。

 触れない。

 私は輪の対角線の外、低めにしゃがみ、顔の高さをずらす。

 読み手が私の低い目線を拾い、子どもたちの座りが半歩下がる。

 フリスビーは高い層へ、輪の視線は低い層へ。

 層が分かれ、声が丸く響く。

 震え。

 【下書き保存】——みえる

 【下書き保存】——のこった



 帰路、商店街の会館。新しい避難経路の掲示がガラスの反射で読みにくい。

 触れない。

 私は掲示の斜めに立ち、身体を半歩引いて反射の角度を変える。

 職員が自分の映り込みに気づき、掲示を自分の手でわずかに傾ける。

 矢印が読める。

 震え。

 【下書き保存】——みえた

 【下書き保存】——いい



 夕刻、寄贈パソコンの机。黒い画面の隅で“Draft(1)”がまた灯って消えた。

 私は触れない。

 机上の「メンテ中」札がこちらからだけ読める向きだったので、脇の書見台を足先で半歩ずらし、通路側からも見える視差をつくる。

 通りかかったシステム担当が「あ、こっち向きが正解でした」と自分の手で札を二面に増やし、別系統のケーブルを確実に外す。

 震え。

 【下書き保存】——きる

 【下書き保存】——のこす



 ケトルが鳴る。部屋の灯りが一瞬明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。


 25:61。

青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

既読:蒼真

 【下書き保存】——ずらせ

 【下書き保存】——ひがし/のぼる

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——まにあう


 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(上手)】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。


 堰の桟橋では、夜の巡回二人が同じ側に立って網を見ていた。視線が重なり、合図が遅れる。

 触れない。

 私は桟橋の対角、離れた欄干の影に立ち、肩を半歩ずらす。

 ふたりの視界に別の角度が差し込み、片方が無言で反対側へ移る。

 長柄が干渉せず、草の束がほどけて流れに戻る。

 震え。

 【下書き保存】——わかれた

 【下書き保存】——いきた


 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」が薄く擦れていた。私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。

 ずれは、逃がせる。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——ごめん


 私はスマホを胸に当て、息を整える。

 ノートに今日をまとめる。


 《主観ログ・第十五夜》

 ・地下歩道西口:中央線の視差で流れを分離→「わかれた/よかった」

 ・白妙公園:視線高さをずらす→層が分かれ、「みえる/のこった」

 ・会館掲示:反射に角度→「みえた/いい」

 ・図書館PC:札を二面化する視差→「きる/のこす」

 ・堰:立ち位置の対角で合図を分離→「わかれた/いきた」

 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/半歩のずれ

 ・メッセージ:「ずらせ/ひがし/のぼる/さわるな/まにあう」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」

 ・仮説更新:**視差(パララックス)**は“逃がす技術”。返すとは、同じにしない勇気を世界に返すこと


 時雨がソファの背で耳を立て、細く欠伸をした。

 私は灯りを一つ落とし、窓の中の自分を半歩薄くする。

 重ねすぎない。ずらして、逃がす。

 それが、こちら側の線で続けられる約束だ。


 ——既読が、鳴る。

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