第14話「包絡(エンベロープ)という手加減」

 朝、窓に息を落とす。白は薄くひろがって、跡形もなく消えた。

 昨夜の三行——みてた/まだ/ごめん。

 “まだ”の先で、私はそろえすぎないことをもう一度胸に書き直す。


 ノートに見出しを引く。

 《今日の方針:包絡(エンベロープ)を整える/立ち上がりを急がせない/触れない/知らせない/視界で返す》

 ——音も流れも、いきなり最大にしない。入りと抜けの形が秤を静かにする。


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。私は四つ吸って、六つ吐いた。



 午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館、防災倉庫の搬入で午後に小さい渋滞が出るかも。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』説を持続」


 胸の裏で薄い氷が鳴る。私はうなずく。「主観、体調は普通より少し上。息、深い」


 「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替える指先に、微かな震え。ポケットがひと拍だけ揺れた。

 【下書き保存】——いきなり

 【下書き保存】——おそく


 私は“ボイスメモ”を開く。空調の底に、人の靴音が急に膨らんで萎む包絡の乱れ。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】


 バックヤードに「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が目で外縁了解。



 地下歩道の東口では、学校帰りの列と、イベント搬入の台車が同時に突入しようとしていた。

触れない。

 私は階段の三段下、視界のいちばん広い場所に立ち、片手で下向きの波を描く。

 先頭の生徒がそのゆるい曲線を拾い、半拍だけ歩調を落とす。台車が先に抜ける。

 流量の立ち上がりが滑らかになり、ぶつかりは起きない。

 震え。

 【下書き保存】——ゆるんだ

 【下書き保存】——いい



 図書館へ戻ると、玲生が地図に透明付箋を足した。

 「外縁。東口の混み、自然解消。……それと寄贈PC、黒画面のまま“Draft(1)”がまた一瞬。ログは空白」


 私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 波形の底に異なるテンポ。保存名が続けて埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・砂場側】

 【保存:観潮(かんちょう)踏切・南側】


 立ち上がりを整えやすいのは——公園だ。

 白妙公園では、シャボン玉の輪と、鬼ごっこのスタートが同時になりそうだった。

 触れない。

 私はベンチと遊具の間に立ち、息で二つの小さな合図を作る。

 片手の上向きの波——シャボン玉の発泡。

 もう片手の下向きの波——鬼ごっこの待機。

 お母さんが私の手の形を目の端で拾い、「じゃあ、泡が三つ浮いたら走ろうね」と笑う。

 攻めの立ち上がりに緩い包絡が入って、子どもたちの声が丸くなる。

 震え。

 【下書き保存】——ならった

【下書き保存】——のこった



 観潮踏切の南側へ回ると、配送の台車が最後の一押しで焦っていた。

 私は遮断機にも信号にも触れない。

 時刻表ガラスの前で肩を半拍遅らせる。

 台車の手が一呼吸引き、赤の点滅の終わりと人の入りが重ならない。

 震え。

 【下書き保存】——まにあう

 【下書き保存】——いきた



 午後、図書館のパソコン机。黒い画面の隅にふっと“Draft(1)”が灯り、0に戻る。

 私は触れない。

 机の「メンテ中」札が視線より低い。脇の書見台を足先で寄せ、札が自然に読める高さになるよう支える。

 通りかかったシステム担当が「あ、札下がってましたね」と自分の手で直し、電源タップの順番(立ち上がり)を遅く設定する。

 震え。

 【下書き保存】——おそく

 【下書き保存】——のこす


 立ち上がりを遅くする。真似の連鎖を起こさないために。



 夕方、玲生が短く言う。

 「外縁補足。商店街会館、防災倉庫の搬入は分割入庫に変更。『一気にやらない』と現場メモ」

 私はうなずく。

 「主観、拍は静か。触れてない」



 夜支度。窓の外、河川敷の屋台は昨夜より人が少し多い。

 部屋の灯りが一瞬明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に座り、膝の上で指を組んだ。


 25:61。

 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——たちあがり

 【下書き保存】——にぶく

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——ひがし/のぼる


 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 取水堰の桟橋では、夜の巡回が交代直後で作業スピードが速すぎた。

 私は手すりに触れない。

 対岸の反射標識に、スマホのライトを空経由で一瞬返し、肩で遅い波を作る。

 先導の職員が半歩だけテンポを落とし、長柄の道具の入りと引き上げの抜けが丸くなる。

 網の手前に寄った草の束がほどけ、流れに戻る。

 震え。

 【下書き保存】——ほどけた

 【下書き保存】——いきた


 踵を返す途中、舗装の白いマーキングが目に入る。25-6-1。

 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。

 包絡の立ち上がりと立ち下がりだけを心に置く。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ


 私はスマホを胸に当て、深く息を吸い、ゆっくり吐く。

 ノートを開き、今日のページを埋める。


 《主観ログ・第十四夜》

 ・地下歩道:人流と台車の同時突入→下向きの波で立ち上がりを鈍らせる→「ゆるんだ/いい」

 ・白妙公園:遊びの入りを二段化→「ならった/のこった」

 ・踏切南側:終わりと入りの干渉回避→「まにあう/いきた」

 ・図書館PC:タップの順序を遅くするよう視界で示唆→「おそく/のこす」

・堰:巡回の立ち上がりに丸み→「ほどけた/いきた」

 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/包絡を整える

 ・メッセージ:「たちあがり/にぶく/さわるな/ひがし/のぼる」「みてた/ありがと/まだ」

 ・仮説更新:**包絡(エンベロープ)**は“息の形”。返すとは、入りと抜けの形を世界に返すこと


 時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細める。

 私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせた。

 そっと、最大にしない。

 世界が息をしやすいように。


 ——既読が、鳴る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る