清掃
@akariasakura
第1話
同世代から距離を置きたかった。それをバイト選びの軸として、大学卒業のタイミングで閉館する予定という更なる条件が重なったショッピングモールの清掃というバイトを始めた。仕事内容は簡単だ。モップ付きバイクを走らせてごみを取り、ブラシのついた洗浄機を押して床の汚れを取る。ごみ取りは全面走れば終わりであるのに対し、汚れとりは汚れている個所に集中して行っていく。液体のシミやキャスターの跡、土など様々な汚れがある。基本的に光を反射しないものは新しい汚れで落ちることが多い。これが光を反射するようになるともう手遅れになる。手遅れになる前に汚れを落とさねばならない。これを三フロア分行うことで悠馬の仕事は終了だ。これが悠馬の性格と非常に合っていた。汚れを落とすことに快感を覚えた。そして何より基本は一人で行動できるというところが良かった。以前勤めていたスーパーマーケットでも清掃をすることが多かったから、今回のバイトを選ぶことにも躊躇はなかった。
悠馬は小学校、中学校では騒がしくも黙ってもいない、平均的な子だった。友達も人並みにいたし、良くも悪くも目立つ存在ではなかった。高校入学時もそのような性格であった。しかし、高校一年生の時に大きな変化があった。同じクラスの同級生から好意を打ち明けられた。悠馬には初めての経験で、とりあえず、ということで交際が始まった。しかし、交際が始まってみると自分の時間が確保されない。休み時間から昼食、放課後まで一緒にいることを強要された。周囲もそれを応援する形で二人を一緒にいさせる空気を醸成していた。これが悠馬にはいけなかった。とうとう我慢できずに別れを切り出すと、相手は涙を流した。世間には涙を流しているものが被害者であり、守ろうとする風潮がある。別れ話は瞬く間に学校中に広がり、次の日学校に行くと自分を責め立てる視線が至る所から刺さってきた。自分たちに興味もなかっただろう者たちの好奇な視線が悠馬を苛立たせた。安全圏から指をさして楽しみたいだけなのだ。中には別れたことを責め立てる者もいた。
「○○ちゃんあんなに好きだったのに何で別れたの」
そりゃそっちの都合だろ、と内心思ったが言っても理解されないことはわかっていた。そもそも好きじゃなかった、と言ったところでさらに事態が悪化するだけだ。必要以上に傷つけたくもないし、傷つけられたくもない。
一週間も経てば何事もなかったように前と同じ生活に戻った。周りの人間の態度は交際の始まる以前の状態に戻った。まるで何事もなかったかのように、当たり前のように、自然に。その振舞いのあまりの自然さに、戦慄した。人間関係が怖くなり、人と関わることを減らす選択肢をとった。できる限り目立たない生活を送ろう。必要最低限のコミュニケーションで済ませよう。
ただ、この経験で自分には恋愛は向いていないことが分かった。皆自分のことを大切にするのに、恋愛においては相手を優先しないと非難されるのだろうか。これについては納得がいかなかった。
結局、二年生、三年生と卒業したら会わないだろうと確信するほどに薄い人間関係を築くのみで終えた。
大学は実家から少し遠い難関大学を受験した。同じ高校の人がいない方が新たな人間関係を築きやすいだろうと思った。自分と似たような感情も持つ人を探したかった。しかし実際に入学してみるとそこも高校と同じ人種で溢れていた。今回は違うかもと人間関係を構築しようとしても、必ずどこかで裏切られる。人間の嫌なところを感じてしまう。サークルもバイトも駄目だった。大学でも薄い人間関係を構築することとなった。
これは大学生になって気付いたことなのだが、薄い人間関係にすると決めていると精神的に楽であった。というのも、繊細な思考を放棄することができたからだ。そして、悠馬の語彙は思考を放棄しても他人を傷つけることのない安全なものであった。こういったら相手はこう考えるだろう、そのような思考のエネルギーを消費せずに会話ができるというのは案外楽であった。
そうしてコミュニケーションを取り大学一年、二年の試験を終えた。普段から真面目に講義に出席していることもあり、優秀な成績を修めていた。
アルバイトは大学一年から三年の途中まで、スーパーマーケットの総菜部門を担当していた。夕方からなので、調理を担当することは少なく多くは片付けの仕事であった。一日中使われた器具の油の光沢を落とし、台車の光沢を水洗いで取り戻した。そんな一日の終わりを任されるアルバイトは非常にやりがいがあった。さらに、人の少ないスーパーマーケットというものを初めて知った。その時間にスーパーマーケットに訪れることがなかったから、その普段とは違う光景に興奮した。中学生のころ、親の目を盗んで深夜に外に出た興奮に似ていた。性的指向、とまではいかずともそれに似た感情の昂りがあった。非日常による感情の昂りだった。
アルバイト先のスーパーマーケットの閉店が決まり、新たなアルバイト先を探すこととなった。この時、感情の昂りも感じられるようなところを探そうと求人誌をめくっていると、ショッピングモールの清掃の求人が目に飛び込んできた。営業前のショッピングモールというのも興味をひかれ、すぐに記載の電話番号を携帯電話に入力した。一週間もたたないうちに面接を終え、採用していただけた。
初出勤では、未知の世界との邂逅に激震が走った。止まったエスカレーターは歩こうとすると一歩、二歩とふらつく。普段の動いたエスカレーターを歩くように脳が体に命令を出すことによるものだ。この気持ち悪さが気持ちいい。商品が並んでいるのに誰もいない店内の様子は不思議だ。この違和感も気持ちいい。営業前のショッピングモールは悠馬の欲望のはけ口となっていった。
しかし、この昂りは男子高校生の性欲のように旺盛なものとなっていった。肥大する欲望を抱く自分というものへの気持ち悪さは嫌悪感へとつながっていった。この負の感情は負の感情のまま変化しなかった。次第に罪の意識に苛まれていった。
もちろん仕事には熱心に取り組んでいたので、仕事仲間からの評判も良かった。恐らく六十から七十代の方が主な仲間であったが、勤勉な姿勢がはまったのか非常にかわいがられた。孫のように向けられた視線は温かいもので、人間の嫌らしさを感じさせなかった。環境にも恵まれ、素敵な職場に巡り合うことができた。
一年ほどたち、清掃にも慣れてきた夏の日、幼馴染の康と倫也と久しぶりに飲むことになった。三人で集まるのは数年ぶりだったので、遠足に胸を躍らせる小学生のように、なかなか眠りにつけなかった。
少し早く待ち合わせ場所につくと二人はすでにそこにいた。
「よう、久しぶり」
「あれ、悠馬身体でかくなった?」
週に三回洗浄機を押しているからだろうか。少なくとも世の大学生よりは運動をしているという自負はある。久しぶりのあいさつもそこそこに、三人は暖簾をくぐる。年季の入った手書きのメニューが壁一面に貼られている。これは地元の人から根強い人気を集めているタイプの店だ。とりあえず三人ビールを注文し、外の熱気を吸い取ってくれそうな冷たいグラスに注がれたビールが運ばれてくる。喉が液体の流れを待ち構えていることが伝わってくる。
「それじゃ、再会に乾杯」
ビールが喉を通り不要な感情を洗い流してくれる。身体に水分が行き届く感覚が心地よい。大人がビールを好んで飲んでいた理由を最近になって理解できた。
「みんな今最近何してる?俺は採用試験がちょうど終わって一段落したよ。教職課程は忙しかったけれど、教員はもっと忙しいって考えたら今から恐ろしいよな」
「俺は料理見習いだな。いろんな料理見れるから毎日刺激あるかな。あとサビ残さえなくなればいいんだけど」
康は大学生で、教職課程をとっている。中学の時から教師になりたいと言っていたので、その夢を今も追いかけているところは尊敬できる。倫也は料理人として自分の店を持つのが夢だ。二人とも立派な夢を抱えて毎日を生きている。それが悠馬に劣等感を抱かせた。悠馬には胸を張って語れる夢がなかった。少なくとも記憶のあるうちは人前で胸を張って言える夢を持っていなかった。
「悠馬は今何してるの?」
「俺は清掃のバイトかな、あそこのショッピングモールで働いてるんだよ」
「まじか、悠馬らしいわ」
感情の昂りを見透かされたかと一瞬焦ったが、そこまで深い意味はなかったようだ。自然と話題はオーダーへと切り替わっていった。
酒も回り、頭の回転が遅くなったころに、話題は恋愛の話となった。
「俺今さ彼女いるんだよ。職場で出会った子なんだけど、めちゃくちゃタイプで運命かと思った」
唐揚げにかぶりつく。油が口いっぱいに広がる。
「まじか、俺もいるよ。教職で仲良くなったんだけどさ」
野菜から塩分がはじけ、アルコールを加速させる。
「悠馬は最近どう?」
ごほ。ビールが変なところに入った。堪らずむせる。
「俺は何もないよ。身近なところに出会いないし」
「清掃って若者少なそうだもんな。ゼミもサークルも入ってなきゃないか」
こちら追加のビールです。店員からの助け舟で何とか乗り切った。
まただ。また、自分は同世代と違う。この疎外感が悠馬には苦手であった。人は人、と割り切れる性格ならよかったものの、自分だけ違うという感覚が自己に対する嫌悪感を高めていく。同世代との関わりを避ける理由の一つとしてもそれがあった。気を紛らすために残っていたぬるいビールを流し込む。いつもよりも苦く感じた。
「もう四年生だから、就職する前に出会いあるといいな」
そんなエールと再会の約束を残して、倫也の帰りの電車の時間が近いとのことで解散した。帰り道の方面は一人だった。空は終わりが見えないほどに暗く、冷たい風が悠馬の頬にぶつかってくる。みんな夢に向かって努力して、恋愛して、すごい。自分はどうだろうか。考えるほどに嫌悪感が膨張していく。いけない、アルコールが悪い方に作用してくる。目に付いた自動販売機で水を選び、悩みと一緒に流し込む。夜は塞ぎ込みやすく、考え事に向いていない。明日はバイトだ。早く帰って寝よう。悠馬は自分に言い聞かせるようにして、再び歩き出した。
次の日、いつものようにフロアの清掃を終え、片付けをしていると、
「悠馬君、ちょっと今時間ある?」
大丈夫です、と返して声をかけてきた水原の所へ向かう。
「森田さんが退職されるから八月から曜日変えられないかな、と思って」
建物の閉館が決まってからは、閉館予定の施設に勤務している人が次の勤務先に早めに移る、というのはよくあることだ。森田さんもおそらく次の勤務先の目処が立ったのだろう。
「どの曜日ですか。木曜以外でしたら大丈夫です」
悠馬は春学期の時点で履修を組んでいるが、四年生なので学校に行くこともそう多くない。登校するのは木曜日の週一回だけなので、木曜以外ならこだわりはない。
水原はうーん、と唸りペンを指先で遊ばせながら、
「じゃあ、金曜と土曜の代わりに火曜と水曜でお願いしてもいいかな」
わかりました、と言って曜日の変更が決まる。これまでは金土日と三日連続で早起きする必要があったので、その必要がなくなったのはありがたかった。急な欠勤の場合は社員が出勤するかその日の人員でやりくりする方針をとっていたので、火曜と水曜に出勤したことはなかった。火曜と水曜は誰がいるんだろう。苦手な沢村さんとは一緒じゃないといいな。ロッカーに貼ってあるシフト表に目を通す。ほとんどの人は被っている曜日があり、心強かった。だが、一人だけ知らない人がいた。
「金城さんってどんな方ですか。」
事務の作業でまだ残っていた松本に曜日変更になって、と付け加える。
「悠馬君みたいにいい子だよ。五年くらい働いているのかな。年近そうだし、お姉さんたちより話しやすいかもよ」
同世代の人がいたのか。一年近く勤めていて全く知らなかった。曜日被らなければ知るはずもないか。とりあえず面倒臭そうな人ではないことに安堵した。ありがとうございますお疲れさまでした、と職場を後にする。帰り道は川沿いを歩いて十分ほどだ。清掃をしているからか、落ちているごみは自然と視界に飛び込んでくる。落ちているもの、流れているもの、川の状態から季節を連想させるほどに多くの回数見てきた光景だ。今日はアイスのごみが流れていた。目覚めたばかりの太陽を水面が反射して焼き付けてくる。うんざりする暑さから逃げるように帰路を急いだ。
一月が経ち、初めての火曜出勤となった。六時三十分に家を出て、速足で川の流れに逆らうように進んでいく。どこかへ出勤するのだろう車が横を駆け抜けていく。その度に背中を押してもらった気分になる。みんな頑張って前に進んでいる。
まだ涼しいうちに関係者入り口を抜ける。警備員に挨拶をしてエレベーターで二階に上るとすぐのところに清掃担当の控える部屋がある。挨拶をしながら入ると見覚えのない後ろ姿があった。この人が金城さんか。
「初めまして、今日から火曜日と水曜日に変更になりました、新井悠馬です。よろしくお願いします」
第一印象は大切だ。年上の方に挨拶するときはまず自分から、親から礼儀を叩き込まれた悠馬はそんな社会常識くらいは実践できる。準備中だっただろう、金城結が少し遅れて振り返る。目が合う。
「新井悠馬さん、金城結です。こちらこそよろしくお願いします」
自分より少し年上だろうか。所作からは大人の余裕が見て取れた。その中に、自分と同じ雰囲気があった。精一杯取り繕おうとしているが、目の奥が暗く濁っていて、声のトーンも抑揚がなく、単調だった。お辞儀をして顔を上げるまでの動作が無機質に見えた。この人も自らに対する嫌悪感を抱いている。そんな雰囲気を感じさせた。そんな仲間意識が親しみを感じさせた。
そんな内心とは無関係にいつものように準備をして、いつものように勤務時間が始まった。仕事内容は曜日で変わらず、教えられた作業を繰り返すだけだ。いずれこの作業も人の手を借りないように変わっていくのだろう。世間はあらゆることが効率化され、人の居場所を蝕んでいく。
ごみ取りと汚れとりは各自下の階から順に進めていく。スーパーマーケットの入った一階はごみが落ちていることが少なく、共用部も狭い。スーパーマーケットの中は管轄外だ。さっと全面を走り二階へ上る。二階はエスカレーター回りが人の往来が激しくごみも多い。多いと言ってもたまに落ちているくらいだ。うちのショッピングモールは治安がいい。今日は鼻をかんだだろうティッシュが一つ落ちていた。一階よりは多くのごみを取って三階へ。三階は理髪店の前に髪の毛が多く落ちている。勤務する前までは髪の毛が落ちていることに全く気付いていなかった。他のショッピングモールに行く際にもごみや汚れに注目してしまうようになったのは悲しい職業病である。三階も髪の毛を含めた全面のごみを取り、一旦清掃用具室へ戻ってモップ付きバイクを片付ける。いつもと同じくらいの時間。いつもの繰り返しだ。
いつものように洗浄機を押して一階へ向かう。ちょうどスーパーマーケットの朝礼が始まるタイミングだ。エレベーターを出て一階につくといつもと違う人がエレベーターを待っていた。
「新井君、お疲れ」
「お疲れ様です」
そこにいることを想定していなかったので驚きはあったが、何とか挨拶は返せた。変更前の曜日で金城の持ち場を担当していた水原は新井が一階の清掃を終えた後でエレベーターに乗るので、金城の仕事は非常に速いのだろう。驚きながらも一階の清掃を終えて二階に向かう。その日の二階は汚れが少なく、綺麗であった。二階ももう少しで終えるというところで後ろから声がかかった。
「やぁ。また会ったね。お疲れさま」
一度不意打ちを食らっていたのでそれほどの驚きはなかったが、また動線が被ったことには驚きがあった。一階を早いタイミングで切り上げていたので、既に二階を終えて三階に向かっているものとばかり思っていた。ただ、他の人の担当については詳しく知らないので、そういうこともあるのかくらいに考えた。人によって得意不得意があるのは当たり前だろう。三階にはゲームセンターがあり夏休みは汚れが多いこともあるが、今日の汚れは簡単に取れた。
三フロア分のごみ取り床取りを終え清掃用具室へ向かうと、また金城に会った。お疲れ様です、と言って室内に入る。以前までなら洗浄機や掃除機やらの片付けをするタイミングは部屋に新井しかいなかった。そのため鼻歌など歌いながら呑気に片付けできていた。しかし、同じ部屋に人がいる。鼻歌など歌えるはずもなく、無言で洗浄機を洗う。ホースから水が弾けて軽快なBGMとなる。換気扇の音と水の音がセッションして無言でも安心感が生まれる。セッションが二人の沈黙を取り持つ。
ライブが終了し、フードコートの清掃をしていた人たちが戻ってくる。このタイミングで新井の仕事は終わり、後はタイムカードを切るまで適当に時間をつぶすだけだ。この日は洗浄機の外側を濡れ雑巾で磨く。清掃用具室は人でいっぱいになり、塵取りからあふれたほこりが宙を舞う。大した汚れもないのに雑巾を動かす動作は虚しかった。
時間になったのでタイムカードを切り、更衣室へ向かう。洗浄機を押すのはかなり力仕事で、営業時間近くになるまで冷房はついていない。汗のしみ込んだ制服を斜め掛けのバッグに押し込み、目深に帽子をかぶって灼熱に抵抗する。退勤の挨拶をしてエレベーターに向かうと金城が次のエレベーターを待っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れさま。暑かったね」
そうですね、と返してエレベーターを待つ。この時間は家電量販店の積み荷を移動させるために待ち時間が長いことがある。階を知らせる液晶の眠っている姿を眺めながら、疲れた身体に水を流して労わってやる。
従業員入り口から外に出ると、熱気が体にまとわりついてきた。敷地を出ると、道路に繋がる。
「金城さんどっち方面ですか」
さっきも挨拶したが挨拶をするに越したことはないだろうと、ここで別れる可能性を考えて再び声をかける。
「川沿いの方だよ」
「一緒ですね」
自然と並んで歩みを進める。特に会話はなかった。新井はあまり会話をしない性格で、無言を気まずいと感じることはなかった。そして、この人もそう感じる人だろう、そのような直観が働いた。キジバトの鳴き声だけがよく聞こえた。
交差点につくと金城が、
「じゃあ私こっちだから。お疲れさま」
「お疲れさまでした」
新井が曲がる予定の交差点でちょうどお互いが左右に別れた。金城に背を向けるように歩きはじめると少し太陽が元気になった気がした。
仕事中に何度も会うのも、帰るタイミングが重なるのもこれ以降はよくあることとなっていった。お互いが相手に合わせようとすることもなく、ただ自然と、まるでそうなるはずだったかのようであった。それでも会話を交わすことは少なく、お疲れさまですと事務的内容以上の会話に発展したことはなかった。これ以上の展開を望んでいないような雰囲気を新井は感じ取っていた。だからといって拒絶されるという感覚ではなく、お互いの居心地の良い雰囲気を作りあげる芸術作品のようだ。無言の芸術が彼らの仲人であった。
八月から九月へ変わり、身をまとう衣の袖の長さもまばらになってきたころ、秋学期が始まった。登校日は木曜日だけであったので、気楽だ。清掃よりも少し遅い時間に起き、準備をして自転車にまたがる。駅までは自転車で十分ほど、同じ場所を目指す人と抜きつ抜かれつしながら向かう。この道を通ることもあと十四回と考えると切なくなる。最寄りの駅から大学までは三十分ほどだ。車両というゆりかごに揺られ誘われる眠気と闘いながら、到着を待つ。駅を出れば人の流れに身を任せて入り口を通り、吸い込まれるように大教室へ。四年生になってから大学の知人はゼミを残すのみとなった者が多く、最近は一人で講義を受けている。教授のレジュメと板書をにらめっこしながら時の経過を待つ。大学四年生になっても身に付けたものは試験を乗り切る勉強法とレポートの書き方くらいのもので、試験に備えた付け焼刃は排泄され何処かへ流れていった。
大学生という肩書は免罪符だ。社会に出ることが許されている年齢であるにもかかわらず、社会に出なくても許される。しかし、大学を卒業すれば社会に出ていないものは社会不適合だと指を指される。高校を出てフリーターになったものと大学を出てフリーターになった者との社会からの評価は大きく異なる。大学生は、就職予備校生だ。
そんな社会の流れに沿うようにして新井も就活をした。皆が言うような学チカ、志望動機を騙り、社会が推奨する虚構を作りあげ、内定を得た。推奨されている人生のルートを、先人たちに倣って進んでいる。そこに信念はない。そういうものだとして受け入れている。社会の歯車になることに、諦めてしまっている。
講義を終え、来た道を同じように引き返す。下りの電車は学校から帰る人、買い物に行く、帰る人、営業に行く人など様々だ。この電車の乗客は何かしらで社会と接点を持っている。朝よりも空気が軽く、通りが良い。暖かい日差しが身体を火照らせ、心地いい陽気だ。つい眠ってしまいそうになるが、電車に取り残されてしまわないように目を開く。
「来週の水曜の夜って出勤できたりする?」
風を通さない生地を好んで選ぶようになったころの片付け中に、水原に声をかけられた。新井は洗浄機を洗っていたホースから手を放す。
「来週の水曜日、花火大会あるじゃない。その日の見回りする仕事があってね。新井君は去年やってないっけ?」
「去年はやってないですね。そんな仕事があることは何となく聞いてましたけど」
新井の地域では勤労感謝の祝日に花火大会がある。決して大規模ではないが、地域の大通りを通行止めにするくらいの規模はある。ショッピングモールの屋上は見通しが良く、花火大会の日は開放しているのだ。新井には一緒に花火大会に行く人も特にいなかったので、依頼を引き受けることにした。
「その日空いてるので大丈夫ですよ」
「ありがとう。金城さんはその日空いてる?」
ちょうど近くで掃除機を充電していた金城が振り返る。
「空いてます。去年もやったので何となくわかりますよ」
ということで、心強い味方とともに残業の予定が決まった。その日も一緒に帰ったが、花火大会の話題含め、お疲れ様です、の会話しか飛ぶことはなかった。それが心地良かった。
花火大会の前日、会場に設置する仮ごみ捨て場をつくる仕事を任された。いつものように営業前のショッピングモールに恍惚としながら清掃をし、片づけを終えて指示を仰ごうとすると金城が「私分かるから」と隣の資材置き場に新井を連れて行った。清掃用具室の隣にあった、空いているところを見たことのない部屋はかなりほこりっぽかった。閉じた段ボールが端にまとめられてあり、テーブルにはビニールと紙、テープが置いてあった。金城が用意したのだろう。
「段ボールにビニールかぶせてこの紙貼っていって、こんな感じに」
紙には燃えるゴミ、燃えないゴミと手で書かれており、十箱ほど作るようだ。見せてもらった手本通りに手を動かす。この部屋には換気扇も無く、部屋の外を通るキャスターの音とビニール袋のこすれる音だけが空気を震わせる。十分ほどしてごみ箱が完成した。
「それじゃ帰ろっか」
帰ろう、そう言葉にして伝えられたのは初めてだった。少し嬉しくなるも、感情を押し殺して返事をした。その日の帰り道もいつも通り無言のコミュニケーションをとって帰宅した。
花火大会の日は、清掃の朝と見回りの晩の間が長かったので、清掃を終えて一度自宅に帰った。体を横にして仮眠をとる。再び出勤しようと夕方に家を出ると、浴衣姿の人が散見された。あるものは目を輝かせて、あるものは手を繋いで幸福の感情を浮かべていた。同じ方面に向かって歩く自分だけが除け者にされている。一方向に向かっているため顔を見られないのが幸いであった。
おはようございます、挨拶をして清掃用具室に入ると、そこにいたのは金城だけであった。新井は出勤がいつも最後なので大勢がすでにいるのだが、返事が一つだけだったのは初めてだった。金城は軽く床の掃除をしていた。準備が早く終わったのだろうか。簡単に作業内容を指示され、解散した。金城は平面、新井は屋上の駐車場を担当する。ごみ箱を確認し、ごみが落ちていないか軽く見回りをする。ごみがあるとそこに追随するようにポイ捨てをする人が増えるので、一つ目のごみが見つかる前に回収することが大切だ。ポイ捨ての芽を摘み取り清掃用具室に戻って道具の手入れをする。これをもう一度繰り返し終えたころには花火が打ち上ろうとしていた。花火が上がっている間は眺めていていいと言われていたので、人が少なくて見通しのよさそうなところを探しに行った。
屋上の駐車場に繋がる非常用階段に行くと、金城がいた。何となくいる気はしていた。二人は似た者同士だから。隣失礼します、と声をかけて腰を下ろすとすぐに風船を割った破裂音が耳を貫く。花火大会の開幕だ。鮮やかな彩りが黒のスクリーンに映し出される。しっかり花火を見たのはいつぶりだろうか。
いつからだろう、花火に興味が湧かなくなったのは。小さいころは、毎年のように家族や友達と見に行っていたものだ。家のベランダや歩行者天国となった大通り、小さめの公園など様々なところから見た。色彩豊かに弾ける花火は子供ながらに芸術を感じた。その隣には親密な間柄の人がいた。高校生になると精神が発達し、良い面よりも悪い面が目立つようになった。幼い頃の気分を上げ興奮させる音は心臓を締め付ける苦しい音に変わっていった。花火の美しさよりも騒音、人ごみといった要素に辟易して興味は次第に薄れていった。高校生からは花火を聴覚でとらえることが多くなった。では、なぜ自分は今花火を見ようとしているのか。ふと横を見ると金城の頬が光っていた。花火に照らされて顔が明るい色たちを反射している。視線に気づいたのか、金城が新井の方をみて微笑み返す。儚い笑顔だった。新井はその涙の訳を聞くことはできなかった。聞かない方がいいと思った。しだれ柳が真っ暗な空を輝かせる。なぜ花火を見ようとしているのか。答えは出なかった。
花火大会が閉幕した。蒲公英に息を吹きかけたように観衆が一気に散らばっていく。階段を上り、仕事再開だ。屋上のごみを拾い、飽和したごみ袋を縛りまとめていく。いくつもの酒と食べ物が混ざった悪臭に封をし、ごみ捨て場へ運ぶ。最終確認のためにもう一度屋上に上がると、先程まで人であふれていたとは思えないほどの静寂があった。静と動、この落差はサウナのように新井を整わせた。慣れつつあった感情の昂りが久しぶりに大きな刺激を受けた。
満足して清掃用具室に向かいタイムカードを切ろうとすると金城も同じタイミングで戻ってきた。いつも通りの挨拶を交わして更衣室に向かおうとすると、「いいことあった?」と声がかかった。ええ、まぁ、と曖昧に返事をして更衣室に向かった。この人の前だと本音が表情に出てしまう。口元を引き締め普段の表情を心掛ける。ロッカーを開ける手に力が入った。
帰り道はお互い会話をしなかった。新井のいいことの内容は聞かれなかったし、金城の涙の理由も聞かなかった。それがお互いの望むことだと心で理解していた。会話をしないということに関していえば普段と変わらないことなのだけれど、この日の無言のコミュニケーションは二人をさらに親密にさせた。
それ以降、新井は金城を身近に感じた。それが彼女の涙を目撃したせいなのか、あるいは同じ時を過ごしてきたからなのか。その理由も知らないまま、しかし以前までの距離感を取り繕うようにして振舞ってきた。そうしなければ、この感情に名前を付けられてしまうような気がした。その感情に行動を支配されてしまうことが恐怖だった。できる限り目を背けるように、人為的に自然に見えるように努力した。
太陽が早寝をして光に彩られる家庭も多くなった冬の日、清掃の片付けをしていると珍しく社員が来て、閉館日の決定を淡々とした口調で告げていった。二か月ほど先の二月十一日。小さいころから訪れていた施設の閉館を告げられるのは新井にとって初めての経験で、把握はしていたがやはり寂しかった。将来地元に帰っても、家族で訪れたり、あるいはバイト先であった思い出の地が無くなってしまう。故郷の喪失と言っても差し支えない。その日の帰り道は空が高く、遠く見えた。きっと冬のせいだ。川には自転車が捨ててあった。
その次の出勤日、清掃の準備をしていると水原から再び声がかかった。何か頼まれるのだろうと、適当に予想しながらモップを握ったまま行くと、案の定であった。
「閉館まであと何日、っていうカウントダウンをするみたいで、施設の人に頼まれたんだけれど。設置してくれないかな」
水原が指さす先には「閉館まであと何日」と書かれ、背景にはショッピングモールがデフォルメされた大きな板と空洞に差し込む数字の束がまとめられていた。
「力仕事だから若者に任せたくて。金城さんにも声かけてくれると嬉しいな」
断る理由もないので引き受けた。高齢者の多い職員の中で度々若者の力を借りたいと声がかかることがあるが、決して悪い気はしなかった。そして、このヘルプの声を搾取ではなく信頼と捉えられる新井は少しずつ自己嫌悪を改善していった。このように考えるようになったのはいつからだろうか。そんな自問自答をしているとちょうど金城が前から歩いてきた。
「金城さん、水原さんに頼まれてカウントダウン設置するんですけど、手伝ってもらってもいいですか」
「あぁ、いいよ。清掃終わってからでいいよね」
「はい、ありがとうございます。準備できたら声かけますね」
この人のおかげだろうな。そう思いつつバイクに跨る。今日も一日頑張ろう。
昨日は雨が降ったので、靴の形をした泥が等間隔に並べられていた。洗浄機を速足で押し、普段よりペースを速めて片づけをする。何とかいつもと同じくらいの時間に片づけを終え、金城に声をかける。少し声が裏返った。
営業時間前の店内は忙しない。シャッターを引き上げる者、店内を清掃する者、商品の並び替えをしている者など様々だが、全員が何かに追われたように急いでいる。対照的に新井と金城の二人はのんびりと丁寧に板を設置している。
「三フロア分は多いからさ。お客さん来ても気にしないでいいから」
水原から時間の制約がないことを伝えられていた二人はとにかく丁寧にねと念を押されていたのでその通りにした。一階が終わったところで営業時間となり客が続々と足を踏み入れてくる。荷物を端に避けるくらいの配慮はして、しかし周りをそこまで気にすることなく二階の作業に取り掛かる。周囲には客がいるものの、二人きりの空間であるように感じていた。金城さんもそう思っているのだろうと、心が読めた気がした。この人は自分と似た人だから。
三階の作業を終えて使った道具を戻しに清掃用具室へ向かう道中、金城さんから珍しく話しかけられた。必要事項以外の今日初めての雑談だ。
「閉館日を言われると寂しいね。閉館するって知ってたはずなのに、まだいつかの話って勝手に思っちゃってた」
「分かります、日付が決まると終わりが明確になりますよね。これまでは曖昧と捉えていたものの輪郭がはっきりしたというか」
このあたりの感覚も通じるものがあった。この人は生き別れの姉なのだろうか。そんな妄想にふけっていると、
「新井君はここ潰れたらどこで働くの?」
初めての踏み込んだ質問だ。想定していなかったので虚を突かれたが、一呼吸おいて正直に答える。
「四月からは横浜の方に就職予定です。営業なんですけど」
「そうなんだ。頑張ってね」
これは聞き返してもいい流れだよな。
「金城さんは今後って決まってるんですか?」
金城の目が一瞬揺らいだ気がした。
「特に決まってはないかな。やめたらまた求人誌見て考えるかな」
そうなんですか、と相槌を打つと目的地に到着する。片付けて着替えをして、一緒に歩いて帰る。こんな日々もあと二か月で終わりが来る。今日のお疲れさまでしたには寂しさの色が塗られていた。
年内最後の出勤日は朝から雪が降っていた。想定以上に雪が積もっていたので、足取りが慎重になる。おぼつかない地面を踏みしめて職場へ向かう。白に侵されていない川だけが存在感を主張している。雪の日は駐車場の清掃に時間を費やす。警備員が手伝ってくれるが、駐車場が広いのでそれだけでは足りないのだ。悠馬は普段担当していないエレベーターホールとフードコートの業務を追加で任され、ごみ取りと汚れとりを少し簡略化し、てきぱきと働く。営業時間までに業務を終わらせることが何よりも優先されるからである。何とか五分前にフロアでの作業を終え従業員専用口へと引き上げていく。片付けには時間がかかるので普段よりも遅れて更衣室に向かう。冬の寒さに抵抗するようにエアコンの効いた暖かい中で東奔西走していたものだから汗の滲んだシャツをバッグに詰めて更衣室を出ると金城さんが待っていた。湯気の出ていないコーヒーを両手で握りしめてどこかを眺めるようにしていた。金城さんは悠馬の存在を確認すると「お疲れ」と横に並ぶ。待ってくれていると思わなかった自分と、扉を開けるとそこで待っているという期待をしていた自分が共存していた。そんな自分たちを心に隠して平然と振舞い、暖かい住処へと足を進める。挨拶以外の音を交し合わない唇が雪に触れて熱を奪われていく。静寂に包まれたまま交差点につくと、金城さんが先に口を開いた。
「それじゃあお疲れさま。来年もよろしくね。」
「お疲れ様です。来年もよろしくお願いします。」
一問一答のように言われた通りに返す言葉を経て、お互いが別々の道を進む。悠馬がふと振り返ると、雪景色に溶け込むような金城の背中が見えた。黒いダウンを着た金城が白にまとまり消えていく姿から目が離れなかった。
人混みが苦手だ。多くの二酸化炭素が排出され、自分の吸う酸素を他人と奪い合わなければいけない環境において、息をするのが難しい。悠馬は三が日を避けて初詣に行った。ショッピングモールとは真逆の、地元の人しか来ないであろう決して大きくない神社へ向かう。住宅街を抜けた階段の上にある神社は江戸時代にできたものらしい。鳥居をくぐって足腰にやさしくない階段を上ると、一人だけ先客がいた。見覚えのある女性がお参りを終えてこちらを振り返る。
「金城さん、こんにちは」
「あら、こんにちは」
そんな挨拶をして悠馬もお参りをしに行った。金城と入れ替わりで悠馬は本殿と向かい合う。お参りをし、振り返ると、金城の目元が光っているのが見えた。
「金城さん、大丈夫ですか」
思わず声をかけてしまう。駄目だとわかっているのに。
「恥ずかしいところ見られちゃったね」
違う。駄目だとわかっているのに、頭ではわかっているのに、口が勝手に動いてしまう。いや、そうじゃなくて。
「悲しそうな顔をしていたので」
金城は少し驚いた顔をしてから一呼吸置き、笑い切れていない笑顔を浮かべて取り繕った。
「ちょっと話そうか」
神社に併設された公園のベンチに二人腰かけた。外気に触れ続けた鉄製のベンチは冷たかった。自動販売機で買ってもらったココアで暖を取っていると金城が口を開いた。
「昔さ、高校卒業した時のことだけど、就職して事務職やってたんだよね。正社員ではあったけど、上司がひどい人でさ。今じゃパワハラって言われるようなことを平気でしてきてメンタルやられちゃってさ。そしたら、働くのが怖くなっちゃって。同世代のみんなは社会に出て働いているのに、私だけ社会での生き方を知らないの」
混雑を避けていたのか、あるいは今年初めての休日なのか、若者がお参りに来て鐘を鳴らす。
「私さ、今の職場大好きなんだよね。優しい人たちに囲まれているし仕事内容も楽しいし。せきることならずっと続けたいと思ってたんだよね」
座っている二人に気付いた若者が、ちらちらとこちらを見ながら階段を下りていく。
「けど閉館ってなったらまた新しい職場を探さなきゃいけないし、そこでどんな人と会うかもわからないじゃない。だからといって働かないと社会とのつながりが失われてしまいそうで怖くて」
「同世代の人たちと違うことが怖いっていうのは僕もそうですよ」
心からの言葉を自分に向けてくれている。この人には心からの言葉で対話をしなければいけない。
「僕って非日常っていうことに快感を覚えるんですよ。性的とまではいわないですけど、僕の性欲だと思ってもらっていいです。僕が今の職場を選んだのもそんな低俗な理由です。でもやっぱりそんなこと考える人って全然いなくて、みんな異性なり同姓なり人間との恋愛を標準として考えているんです。人間として欠落しているんじゃないか、そう考えることもありますし、今でも変わりません。」
金城は一瞬驚いた表情を見せたが、真剣なまなざしでこちらを見ている。
「何が言いたいのかっていうと、そんな僕らでもどうにか生きていくしかないんですよ。考え方は変わらないし、逃げ道だってない。だったら僕たちで協力して、助け合って、少しでも楽に生きられる方法を探していきましょう。困った時は電話してください。協力させてください。そうやって、乗り越えていきましょう」
「こんなに寄り添われたの初めてだ」
つぶやくように言った金城の顔は、微笑んでいた。それが悠馬も笑顔にさせた。
「そしたら悠馬君の話も聞かせてよ」
「今ですか?ちょっと恥ずかしいですよ。人に打ち明けたこともないし」
「私のことを助けると思ってさ」
「馬鹿にしてますよね、それ」
僕らは、会話をしなかったのではない。会話をすることから逃げていたのだ。正しいコミュニケーションの仕方も知らずに、無言のコミュニケーションで十分だと、諦めてしまっていた。そして、今日初めてコミュニケーションを覚えた。社会での生き方を一つ身に付けたのだ。
二人は自然といつもの交差点へと向かっていた。さっきまで冷たかったベンチは確かにぬくもりを持っていた。
閉館までのカウントダウンがゼロの数字に変わるまではあっという間であった。その間、二人は正しい会話をした。時間を共有するだけのものではなくて、考えたこと、感じたこと、何の身もない、他愛ない話をこれまでしてこなかった半年分を含めてした。交差点が遠ければいいのに、このまま真っ直ぐ同じ道を進もうかと考えることもあった。そんな帰り道を通るのも最後となった。北風が身体をくすぐってきて冷たい。いつもの交差点で少し立ち止まる。
「連絡先交換しませんか。辛くなったり話しにくいけど話したいことがあったら連絡してください」
「いいね、交換しよう」
普段は連絡先交換など出会った日にするほど軽いものであったが、今日の携帯電話は重かった。番号を入力し、電話帳に登録する。
「僕たちは仲間です。お互い頑張って生きていきましょう」
「そうだね。お互いどこかで頑張ろう」
そう言って、別れた。後ろは振り返らなかった。寂しさがこみあげてくる前に、住処に戻らないと涙がこぼれてしまいそうだった。ポケットに突っ込んだ携帯電話を強く握りしめた。
あれから一年が経った。携帯電話の電話帳には金城の名が登録されている。結局電話がかかってくることはなかった。それを良いことだと新井は思った。辛いことなどが少しでも解消されていたら、あるいは話せる仲間が別に見つかっていたら。彼女がどこかで頑張っているというのが心の支えとなった。そして、彼女の人生に自分が交わることのないよう、彼女の幸せを願う。階段を上る視界はぼやけていた。
清掃 @akariasakura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます