狩-前編
ユグリットは静かにスプーンを持ち上げながらも、内心では緊張を隠せなかった。昨日の晩餐に姿を見せなかったことを、エリオットが黙っているはずがない。
案の定、向かいに座るエリオットが穏やかな笑みを浮かべながら問いかけた。
「ユグリット王子、昨夜はどうしたのです? 姿が見えませんでしたね。」
その声音は優雅で柔らかい。しかし、ユグリットにとってはどこか冷たく、逃げ場のない檻のように思えた。
言葉に詰まるユグリットを庇うように、隣のラーレが愉快そうに笑いながら口を開いた。
「兄上が来なかったのは、僕のせいだ。」
そう言うと、彼はいたずらっぽくユグリットの肩を軽く叩く。
「兄上とチェスをしてたら、すっかり時間を忘れてしまったんだ。気づいたら夕食の時間が過ぎていた。僕って負けず嫌いだから、兄上が一勝するたびに『もう一局』って付き合わせてしまったんだ。」
ユグリットは驚きつつも、その演技の巧みさに助けられたことを悟り、そっと小さく頷いた。
「……そうだったな。」
彼がそう付け加えると、エリオットは一瞬、目を細めた。
「なるほど、チェスですか。」
その口調は変わらず穏やかだったが、微細な表情の変化をユグリットは見逃さなかった。
——疑っている。
エリオットは表向き微笑みを浮かべながらも、心の奥底では不満を抱えている。
けれど、それを押し隠すように優雅にナイフを手に取り、プレートの上のオムレットを切り分けた。
「次は、ぜひ私も交えていただければ光栄です。」
穏やかにそう言ったエリオットを前に、ユグリットは息を詰める。
しかし、ラーレは軽やかに笑い、涼しい顔で返した。
「いいね。でも兄上は強いから僕達では勝てないかも。」
「ふふ、それは楽しみですね。」
微笑みを崩さぬままエリオットは答えたが、その目には冷ややかな光が宿っていた。
ユグリットは、そっとラーレの袖を握り締める。
ラーレは何事もなかったかのように、ユグリットの肩をぽんと叩いた。
「さ、朝食を食べようか。今日は長い一日になりそうだ。」
エリオットの視線を意識しながら、ユグリットは静かにスプーンを口へ運んだ。
胸の奥に残る微かな不安を、ラーレの存在が包み込んでくれるような気がした。
朝食後、ユグリットがエリオットと向かい合うたびに、ラーレは何気ない仕草で彼の前に立った。
ユグリットの肩を引き寄せるようにして、あるいは話の流れを変えるように、さりげなく。
エリオットが微笑みながらユグリットに近づいた瞬間、ラーレはすっとユグリットの腕を取り、軽やかに笑みを浮かべた。
「ユグリット、父上が珍しく興味深い話をしていましたよ。」
何でもない会話のように装いながら、ユグリットをエリオットから引き離す。
その手際の鮮やかさに、エリオットは微笑みを崩さなかったが、その瞳の奥に僅かな光が宿った。
「……ラーレ殿は、実に兄上思いですね。」
低く響く声は、どこか静かな冷たさを含んでいた。
ユグリットは気づかぬまま、ラーレの手に導かれて歩いていく。
けれどエリオットの目は、ただラーレの背を見つめたまま、穏やかに細められた。
その表情は、微笑の仮面をかぶっていたが、そこに宿る感情は、決して穏やかなものではなかった。
——邪魔だな。
エリオットの中に、ラーレへのはっきりとした敵意が生まれた。
その後、ユグリットが ほんの一瞬でも一人になったその隙を狙い、エリオットは静かに言葉の網をかけ始めた。
彼の声は 低く、甘く、しかし逃れられない鎖のように絡みつく。
「——貴方の弟君は過干渉だ。」
「貴方を自分のもののように思っている。」
「貴方は弟の所有物ではない。」
ユグリットは 僅かに眉を寄せ、首を振った。
「そんなことは……」
しかし、エリオットは微笑みながら続ける。
「貴方は何もできない子どもではないでしょう?」
「何故、弟の言葉に従う必要があるのですか?」
「……それとも、貴方は誰かの庇護なしには生きられないのですか?」
——庇護なしには生きられない?
ユグリットの瞳が僅かに揺れる。
ユグリットの心の奥で、エリオットの言葉がじわじわと染み込んでいく。
最初は必死に抵抗していたが、彼の心は既に傷つき、消耗しきっていた。
混乱した表情が滲み出る。
その時——。
「ユグリット!」
ラーレの声が響いた。
——はっと、ユグリットは我に返った。
ラーレが駆け寄ってくる。
その顔は焦りと怒りに満ち、ユグリットを求めるように手を伸ばしていた。
ユグリットは 迷いながらも、一瞬の躊躇の後、ラーレのもとへ向かった。
そして、振り返りざまにエリオットを睨みつけた。
「……エリオット。」
その声には、微かな怒りと拒絶が滲んでいた。
エリオットは表向き穏やかな笑みを保っていたが、その内心では苛立ちが湧き上がっていた。
(……あと少しだったのに。)
ユグリットは、もう少しで弟の庇護を拒絶し、こちらへと傾くはずだった。
しかし、ラーレが邪魔をした。
エリオットは僅かに眉を寄せながらも、すぐに涼しい顔を作り直した。
まるで何も気にしていないかのように。
だが、その瞳の奥には冷たい怒りが渦巻いていた。
エリオットは静かに策を巡らせながら、笑みを深めた。
柔らかな陽光が降り注ぎ、王侯貴族たちの歓声が木々の間を駆け抜ける。
王宮近くの森は獲物を追う者たちの熱気に包まれていた。
ユグリットは、遠巻きにその光景を見つめていた。
血の匂いにまみれた狩りの場に、どこか息苦しさを感じながら。
ラーレは貴族達に誘われ、ユグリットから離れてしまった。
狩りは、エリオットの番だった。
森の奥、一本の細い枝が不意に揺れた。
次の瞬間、視界に現れたのは——線の細い、美しい鹿。
陽の光を浴びて輝く毛並み、怯えたように揺れる大きな瞳。
そのか弱い姿は、まるでユグリット自身の心を映し出すかのようだった。
エリオットが静かに手を振ると、猟犬達が吠え立て、鹿を追い立て始めた。
森の中に響く哀れな鳴き声。
しなやかな肢が必死に地を蹴り、逃げ惑う。
だが、エリオットの猟犬達はそれを許さなかった。
追い詰め、傷つけ、何度も行く手を阻む。
じわじわと、逃げ道を奪っていく。
ユグリットは息を呑んだ。
胸の奥に、得体の知れない寒気が広がる。
(……何故、ここまでいたぶる必要がある?)
最初から仕留めることが目的なら、もっと楽に殺せたはずだ。
なのに、エリオットはそうしなかった。
ユグリットの胸が締め付けられる。
ただの狩りではない——これは、“愉しんでいる”のだ。
「……っ」
やがて鹿は追い詰められ、息も絶え絶えに立ち尽くした。
その時——
エリオットがゆっくりと弓を引いた。
しなやかな指先が、弦を張る。
優雅な動作だった。
まるで、舞踏の一部であるかのように。
「終わりだよ。」
まるで愛おしげに囁くように——
微笑みながら、彼は矢を放った。
音もなく矢が飛び、鹿の喉を貫く。
ピクリと痙攣した鹿の身体が、静かに崩れ落ちた。
一瞬の静寂。
その美しい動作と、残酷な結末に、ユグリットの全身が粟立つ。
ゾッとした。
この男は、人の皮を被った何かだ。
ユグリットが目を逸らしたその時——
「……。」
エリオットが、彼を見ていた。
冷たい瞳で、静かに、じっと。
それは、“次の獲物”を見る目だった。
「……っ!」
思わず息を詰まらせたユグリットを見て、エリオットは微かに口元を緩めた。
——薄く、静かな笑み。
「大丈夫ですよ、ユグリット。」
優雅な声が、耳元に忍び込む。
「……いずれ、あなたも”慣れる”でしょう?」
ユグリットは、背筋が凍るのを感じた。
狩りを終えた王侯貴族達は、森を後にしていった。
蹄の音が遠ざかり、喧騒が静寂へと変わっていく。
森には、二人の姿だけが残されていた。
ユグリットは、その場を離れるべきだと分かっていながら、エリオットの視線から逃れることができずにいた。
——まるで、見えない鎖に囚われたかのように。
エリオットは微笑んでいた。
いつものように優雅な笑み。しかし、その目の奥には冷たい光が宿っている。
「……どうしました?」
穏やかな声が、静かな森の空気を震わせる。
「まるで、私が怖いものでも見るような目ですね。」
ユグリットは、何も言えなかった。
恐怖とも違う。だが、この男を見ていると、自分がどこか違う世界へと引きずり込まれてしまいそうになる。
それが、怖かった。
エリオットはゆっくりと近づいてくる。
「貴方の陰の心——」
囁く声が、ユグリットの耳元に触れた。
「それを愛することができるのは、私だけですよ。」
ユグリットの身体が、微かに震えた。
「……っ」
エリオットの言葉は、まるで心の奥を暴くように鋭く、しかし同時に甘い毒のようだった。
否定しようとした。
しかし、心のどこかで、それが真実のように感じてしまう自分がいた。
(——違う、そんなはずはない。)
けれど、エリオットの視線は、ユグリットの心の奥深くまで見通しているようだった。
「……貴方は、ずっと抑えているのでしょう?」
エリオットの指先が、ユグリットの顎に触れる。
「貴方は、全てを受け入れることしか知らない。
——耐え、従い、己を殺して生きることしか。」
「けれど、本当は——」
彼はユグリットの瞳を覗き込んだ。
「支配されることに、悦びを感じるのではありませんか?」
——ユグリットの心臓が、大きく跳ねた。
「……!」
違う、と言わなければならなかった。
だが、エリオットは微笑んでいた。
ユグリットが何も言えずにいることを、楽しむかのように。
「貴方が誰よりも望んでいるのは、自由ではなく——服従ではありませんか?」
ユグリットは息を詰まらせた。
何かを言わなければ。
このままでは、本当にこの男に飲み込まれてしまう。
——しかし、エリオットの瞳は全てを見透かすように冷たく、ユグリットの心の奥に染み込んでいく。
逃げなければならないのに、足が動かなかった。
まるで、自分が鹿になったようだった。
獲物として、逃げることもできず、ただ追い詰められていく感覚。
エリオットは、満足げに目を細めた。
「……大丈夫ですよ。」
「いつか、貴方は気づくでしょう。」
「貴方の本当の居場所が、どこにあるのか——。」
囁きながら、エリオットはそっとユグリットの頬を撫でた。
まるで、自分の手で形を変えてしまおうとするかのように。
ユグリットは、震えるまま立ち尽くしていた。
王宮へ戻る道すがら、エリオットの視線を背中に感じながら、ユグリットは無言のまま馬を進めた。
「さぁ、貴方の弟君が心配するでしょう。」
エリオットが静かに言いながら、軽く馬を進めるよう促す。
ユグリットは息を詰めながらも、彼の言葉に従うしかなかった。
森での出来事が、まだ心の中で揺らめいている。
それでも、エリオットは何もしてこなかった。
——それが、かえって不気味だった。
王宮の門が見えてきたとき、ユグリットはふと胸の奥に奇妙な感情を覚えた。
安堵とともに、微かな寂しさが残る。
それに気づいた瞬間、思わず自分の指先を握りしめる。
(……何を、期待していた?)
そう問いかけても、答えは出ない。
ただ、心の奥底が妙にざわつくのを抑えられなかった。
王宮の厩に着くと、そこには待ちわびたようにラーレが立っていた。
彼はユグリットを見つけるなり、すぐに駆け寄ってくる。
「ユグリット!」
血相を変えた顔には、安堵と焦燥が入り混じっていた。
彼の声が耳に届いた瞬間、ユグリットの中で張り詰めていた何かが緩む。
「……ラーレ。」
馬を降りると、ラーレが勢いよくユグリットの腕を掴む。
「大丈夫か!? 何もされてないか!?」
「……何もない。」
ユグリットは、努めて落ち着いた声で答えた。
その言葉に、ラーレはほっとしたように息を吐き、ぎゅっとユグリットの手を握る。
「よかった……。」
ラーレが安心するのを見て、ユグリットもまた僅かに微笑んだ。
ラーレがユグリットを優しく抱きしめる。
けれど、その瞬間——
背後から感じる視線があった。
ユグリットは、ゆっくりと振り返る。
そこには、エリオットが静かに馬を降り、優雅な仕草で手袋を外していた。
そして、ふと目が合う。
彼は、僅かに微笑んでいた。
その微笑の奥に何が潜んでいるのか——
ユグリットには、分かってしまった。
(……また、絡め取られる。)
彼の囁きが、脳裏に蘇る。
「支配されることに、悦びを感じるのではありませんか?」
その言葉が、まるで焼き印のように心の奥へ刻み込まれる。
心臓が跳ね、指先が微かに震える。
(違う……そんなはずは——)
ラーレの腕の中にいながらも、ユグリットは確かに感じた。
自分の中に生まれた、ぞくりとした感覚を。
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