書庫-後編

 昼食の席に着いたユグリットは、できるだけ平静を装いながら、エリオットを相手に会話を交わしていた。


書庫での出来事——あの時、エリオットが発した言葉と、その視線が あまりにも恐ろしかったから だ。


——「まるで人間みたいですね」


ニルファールの正体に、あと一歩で触れようとするような言葉。

その意味深な金の瞳の輝きが、今もなおユグリットの心を縛っている。


(もし、ニルファールの正体を暴かれたら……)


(私は、もう生きてはいけない……。)


恐怖が、ユグリットの胸を締め付ける。


だからこそ、ユグリットはエリオットをできるだけ相手にし、何事もなかったかのように振る舞わねばならなかった。

書庫でのことを忘れたふりをし、これ以上彼を刺激しないようにしなければならない。


しかし——


エリオットは、まるで何もなかったかのように、終始穏やかに振る舞っていた。

微笑みを浮かべ、優雅に食事を取り、気品ある仕草で会話を続ける。

まるで、ユグリットを追い詰めたのは別人だったかのように 。


だが、ユグリットは気づいていた。


周囲の誰にも分からないように、ふとした瞬間に送られる 冷たい視線 。

まるで獲物をじっと観察する猛禽の眼差しのようなそれは——


アラゴスと、酷似していた。


(違う……これはエリオットだ……アラゴスじゃない……)


頭の中で、必死にそう言い聞かせる。


けれど、理性とは裏腹に、身体が僅かに強張るのを止められなかった。

視線が絡む度に、無意識に指先が震えそうになるのを必死に抑え込む。


ユグリットは、食事の味を感じなかった。

何を口にしているのかさえ、よく分からなかった。


ただひたすら、エリオットの機嫌を損ねないように、穏やかに振る舞い続けた。

彼の話に相槌を打ち、自然な笑みを浮かべ、まるで何も問題がないかのように。


(……もう、二度と書庫の時のような事が起こりませんように。)


祈るような気持ちで、ユグリットはひたすら昼食の時間が過ぎ去るのを待ち続けた。


午後の時間は、エリオットの機嫌を損ねないために費やされた。

ユグリットはなるべく彼の傍にいるようにし、穏やかに振る舞った。

書庫での出来事を思い出す度に、胸が冷たくなったが——

それでも「平和を保つため」に、ユグリットは微笑んだ。


エリオットは終始上機嫌だった。

穏やかな声で話し、貴族としての洗練された振る舞いを見せ、時折ユグリットの手を取って優しく指を撫でた。


「貴方と過ごせて嬉しい。」

「私の傍にいてくれるだけで、満ち足りる。」

「……愛していますよ、ユグリット王子。」


——優しい言葉。

書庫での恐ろしい囁きとは、まるで別人のようだった。


ユグリットは、ふと錯覚しそうになった。

まるで、書庫での出来事が幻だったかのように——

エリオットは「穏やかな恋人」のように見えた。


けれど、身体は覚えていた。

金の瞳に絡め取られ、逃げられない感覚。

書庫の扉が閉まる瞬間の、あの冷たい恐怖。


(……あれは、幻ではない。)


だが、ユグリットは黙って微笑む。

エリオットが優しくしている間は、彼の怒りも、支配の欲も抑えられている。

「エリオットが優しくいられるように」——それが、ユグリットにできる唯一の防衛策だった。


日が傾き始めた頃、ユグリットはようやくエリオットと別れることになった。

ほっと胸を撫で下ろし、少しでも気を休めようとした、その瞬間——


「……私を裏切らないでくださいね。」


エリオットが耳元で囁いた。

甘やかな声だった。だが、その奥にある「冷たい何か」にユグリットは震えた。


エリオットは、妖しく微笑んでいた。

まるで、ユグリットが今のこの安堵すら許されないとでも言うように——。


ユグリットの手が、無意識に握りしめられる。

鼓動が速くなる。

書庫での「貴方は私のものです」という言葉が、鮮明に蘇る。


エリオットは満足したように微笑み、そのまま優雅に去っていった。


——だが、ユグリットはその場から動けなかった。

身体の奥底に残る、微かな震え。


(私は……一体、どこまで逃げられるのだろう。)


エリオットの影が、背後に張り付いて離れない。

このままでは、逃れられない——


そう悟りながらも、ユグリットは静かに唇を噛んだ。


 自室の扉を開けた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがぷつりと切れた。

目の前にいるのは、誰よりも信頼しているはずの存在——弟のラーレ。


何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。

堪えていたものが一気に溢れ、熱い涙が頬を伝う。


「……ユグリット?」


突然のことに驚いたラーレは、一瞬戸惑ったようだった。

しかし、すぐにユグリットの異変を察し、何も聞かずにそっと彼を抱きしめた。


ラーレの腕の中は、優しく、温かい。

その温もりが、ユグリットの強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。


「……何があった?」


ラーレの声は、いつものように穏やかで、けれど真剣だった。

ユグリットの涙を拭いながら、まっすぐに見つめる。


「大丈夫だ、ユグリット。何があったのか、僕に話してくれ。」


その言葉に、ユグリットの喉がひくりと震えた。


——話したい。でも、話せない。


ラーレが真実を知れば、どれほど怒り、どれほど悲しむだろうか。

何より、自分のこの弱さと堕落を知られることが、怖かった。


それでも——ラーレの腕の中にいると、

全てを打ち明けたくなるほどに、彼の存在は温かかった。


(ラーレ……)


ユグリットは、彼の胸に額を押し当て、

嗚咽を堪えるように、小さく息を震わせた。


言えない。


けれど、縋りたかった。


そんなユグリットを、ラーレはただ抱きしめ続けた。

まるで、どんな言葉よりも、

「あなたは一人じゃない」と伝えるように——。


ユグリットは唇を噛み、震える指をぎゅっと握りしめた。

ラーレの前で真実を語ることが、何よりも恐ろしかった。

けれど——このまま何も言わなければ、自分はもう耐えられなくなってしまう。


胸の奥にこびりつくエリオットの言葉が、冷たい鎖のように絡みつく。


——「私を裏切らないでくださいね。」


その囁きが耳の奥で響くたび、ユグリットの身体は小さく震えた。

裏切ったらどうなるのか。

その先にある罰を、考えたくなかった。


でも、もう——

何もかも抱え込んでいたら、本当に壊れてしまう。


「……ラーレ……」


震えながら名前を呼ぶと、ラーレが優しくユグリットを見つめた。

その視線があまりに温かくて、余計に涙が込み上げそうになる。


「私は……エリオット王子のデッサンで……」


そこまで言った瞬間、ラーレの表情が強張った。

鋭く息を飲む音が聞こえる。

ユグリットは、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。


喉が締めつけられる。

続ければ、すべてが崩壊してしまいそうだった。


「……酷いことをされたんだな?」


低く押し殺した声で、ラーレがそう言った。

彼の腕が、ユグリットを優しく包み込む。


「……っ……」


ユグリットはもう、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ただ頷くしかなかった。

涙が堰を切ったように溢れ出し、止めることができなかった。


ラーレの胸に顔を埋めると、彼の手がそっと背を撫でた。


「大丈夫だ、ユグリット……僕がいる。」


その言葉は、あまりにも優しくて。

ずっと求めていたものだった。


ユグリットは、ラーレの胸の温もりに縋るようにして、ただ泣き続けた。


 落ち着いた頃、ラーレはユグリットの涙を拭いながら、そっと寝台へと導く。


「……もう、汚れてしまったんだ……」


ユグリットは、掠れた声で呟いた。

彼の目にはまだ涙が滲み、震える指先がシーツを掴んでいた。


ラーレは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に燃え上がるような感情を覚えた。

ユグリットがどれほど苦しんできたのか、どれほど耐えていたのかが、痛いほど伝わってくる。


「ユグリットは、汚れてなんかいない。」


強い口調だった。

ラーレはユグリットの顔を覗き込み、涙の滲むその瞳を真っ直ぐに見つめた。


「誰が何をしたって、ユグリットはユグリットだ。

 汚れたなんて言わせない。言わせてたまるもんか。」


そう言って、ラーレはユグリットの頬を両手で包み込み、そっと唇を寄せた。


触れるだけの、優しく、温もりに満ちたキスだった。


「……ラーレ……」


ユグリットの震えが、少しずつ落ち着いていく。

ラーレはユグリットの髪を撫でながら、もう一度、優しく抱きしめた。


だが——


ラーレの心の中は、穏やかではなかった。


(……エリオット……!)


胸の奥で燃え上がる怒り。


(僕のユグリットを……!)


ラーレの手が、ユグリットの背を優しく撫でる。

けれど、その心の奥では、煮えたぎる激情が渦巻いていた。


(絶対に、許さない……!)


ラーレは、ユグリットを優しく癒しながら、心の奥で静かに誓った。


——エリオットを、このまま好きにはさせない、と。


ラーレは、泣き疲れ眠りに落ちたユグリットの頬にそっと触れた。

涙の跡が微かに肌に残る。

穏やかな寝息を立てているが、それが彼の心の痛みを癒したわけではないことをラーレは知っていた。


「ユグリット……」


名を呼ぶ声は震えていた。

込み上げる怒りをどうすることもできず、ラーレは立ち上がった。

寝台のそばに立て掛けていた剣を手に取る。


刃が月光を反射し、鋭く煌めいた。


(エリオット……お前だけは許さない……!)


ユグリットを弄び、傷つけ、恐怖と絶望を植え付けたエリオット。

彼の優雅な笑みが脳裏を掠めるたび、ラーレの手は震え、しかし握る剣の力は強まった。


「この剣で……」


刃を振るえば、あの男は血を流すだろう。

それでユグリットが救われるなら、何のためらいもない。


決意を固め、ラーレは扉に手をかけた。

その時——


ノックの音が響いた。


「ニルファールを送りに来たわ。」


扉の向こうから、コーネリアの穏やかな声がした。


ラーレは、はっと我に返る。


扉の前に立つ自分、手には抜き身の剣——

まるでこれから人を斬りに行く戦士のようだった。


(……僕は、何をしようとしていたんだ?)


怒りのままに刃を振るえば、どうなる?

エリオットを傷つければ、ユグリットは本当に救われるのか?


目を閉じ、深く息を吸う。

手の中の剣が、重く感じられた。

剣を鞘に戻し、そっと寝台を振り返る。


ユグリットは、静かに眠っていた。


(ユグリットを守るのが、僕のするべきことだろう……)


未だに怒りで震える手を抑え、ラーレは扉を開いた。


コーネリアが、優雅な笑みを浮かべて立っていた。

その手の中には、黄金の小鳥——ニルファールがいた。


コーネリアが去ると、室内には静寂が戻った。ラーレが視線を向けると、小さな黄金の小鳥がふわりと宙を舞い、月光を浴びてゆっくりと形を変えていく。


ニルファールは、小鳥の姿を解き、元の半神の姿へと戻っていた。


——それは、ユグリットを愛した夜の男ではなく、神秘的で清らかな半神の姿。


月明かりを受けてきらめく豊かな金の髪。静謐なスミレ色の瞳。どこまでも透き通った存在感——それは、どんな激情にも染まることのない、神のような静けさを宿していた。


ラーレは、彼の姿をじっと見つめた。


「……ニルファール」


呼びかける声が、静かな室内に響く。


「あなたは、ユグリットの苦しみを……既に知っていたのか?」


ニルファールは微かに瞬きをし、それから穏やかに頷いた。


「えぇ……。」


まるで、最初から分かっていたというように。


ラーレの眉が険しく寄る。


「……何故、言わなかった?」


声が低く震えた。


ニルファールは、その問いに動じることなく、ただ静かにラーレを見つめていた。


「ユグリットの名誉のためです。」


ラーレの拳が強く握られる。


「名誉?」


「ユグリットは、傷つき、支配され、混乱していました。それでも、自ら言葉にするまでの時間を必要としていたのです。もし私が先に話していたら、彼の尊厳は踏みにじられてしまったでしょう。」


静かに語るその声音には、揺るぎない信念があった。


ラーレは奥歯を噛み締める。

 

「そして、私は彼が自らあなたに語るまで、待つべきでした。」


 ニルファールの言葉は、淡々としながらも深い愛を湛えていた。


「彼はあなたを信じました。だからこそ、自分の意思であなたに真実を告げたのです。」


ラーレは、息を詰める。


「……あなたは何もしなかったのですか?」


「いいえ。」


ニルファールは微かに微笑む。


「彼は支配ではなく、本当の愛を知りたがっていました。だから、私は愛を教えたのです。」


ラーレの眉がピクリと動く。


「……それは……」


言葉が詰まる。


ニルファールのスミレ色の瞳は、どこまでも穏やかだった。


それが、半神の愛のあり方なのか。


ラーレは人智を超えたその在り方に、ほんの僅かに恐ろしさを覚えた。


けれど——


ニルファールの腕の中で愛されていたユグリットの表情を思い出した時、ラーレの中の感情は違うものへと変わっていく。


——ユグリットは、救われていた。


その事実が、ラーレの心に静かに染み込んでいった。


彼にとって、ニルファールの行動は、紛れもなく「救い」だったのだろう。


ラーレは深く息を吐き、寝台に歩み寄り、ユグリットの髪をそっと撫でる。


「……なら、僕は……どうすればいい?」


ニルファールは、その問いに、静かに微笑んだ。


「ユグリットを守ってください。あなたの存在こそが、彼の支えなのです。私も手助けしましょう。」


その言葉が、ラーレの胸に深く刻まれる。


ラーレは、剣を強く握りしめた。


(必ず、僕が……守る。)


ユグリットが、もう二度と苦しむことのないように。


そして、エリオットという存在を——断ち切るために。


ラーレは、静かに誓った。


 寝台の上で、ユグリットはまどろみの中にいた。

遠くで聞こえるラーレとニルファールの静かな声。


意識がゆっくりと浮上し、瞼を開いた瞬間、目に映るのは心配そうに覗き込むラーレと、静かに佇むニルファールの姿だった。


 「……起きたんだな。」


ラーレが微笑みながら、そっとユグリットの髪を撫でた。その優しい指先の温もりに、ユグリットは自然と目を細める。


 「湯に浸かろう。少しは……気持ちが楽になるかもしれない。」


そう言われ、ユグリットは静かに頷いた。


 夜の帳が降りる王宮の浴室は、柔らかな灯火に照らされ、ほのかに湯気が漂っている。

白い蒸気の向こう、湯面が静かに揺れ、ほのかに黄金色の光を帯びていた。


湯の中で、ラーレはユグリットの手を取り、そっと指を絡める。

「……嫌なら、言って。」

囁く声は、どこまでも優しく、慎重だった。


ユグリットは、しばし言葉を探すように沈黙し、それから静かに首を振る。

「……大丈夫だ。」


その一言を聞くと、ラーレは迷うことなくユグリットの肌へと手を伸ばした。

指先が、慎重に肌の上をなぞる。触れるたびに、かつてそこに残された爪痕を塗り替えるように、穏やかで優しい愛撫が繰り返された。


「……ラーレ……」


囁くように名を呼んだ途端、ラーレの瞳が僅かに揺れた。


「……ユグリットは綺麗だ。」

「ずっと……僕が傍にいる。」


指先の動きが、次第に熱を帯びる。

最初は慎重だった手が、次第に情熱に導かれ、強く、深く触れていく。


ラーレの想いが、痛いほど伝わってくる。

エリオットに奪われた時間を、支配されかけた記憶を、すべて塗り替えようとするように。


——その激情を、ユグリットは受け止めた。


そして、そっと目を閉じたその瞬間——


背後から、静かな温もりが寄り添う気配がした。


「……ニルファール……?」


いつの間にか、彼はユグリットの背後にいた。

彼は既に、男性的な姿へと変わっていた。

しなやかでありながら、どこか雄々しい腕がユグリットを包み込み、背中から支える。


「あなたが安心できるように。」


囁きながら、ニルファールは優しくユグリットを包み込む。

背中に触れるのは、深く満ちた温もり。

それはまるで、迷い込んだ暗闇から導き出すような、穏やかな光のようだった。


ユグリットの頬にかかる金色の髪。

息を呑む間もなく、首筋へと柔らかな唇が触れた。


 「……っ」


そこに込められたのは、ただの熱ではない。

支配するためのものではなく、ただ、愛を注ぐためのものだった。


ユグリットの心が揺れる。

湯に浮かぶ身体が、二人の手によって支えられ、熱を溶かされていく。


ラーレの指が、ユグリットの胸へと触れる。

ニルファールの手が、彼の腰を包む。


二人の愛が、静かに、けれど確かに彼を満たしていく。


 「……あ……」


甘く零れた声に、ラーレが微かに息を呑む。


「……私達の愛を、信じて。」


ニルファールに耳元で囁かれる声が、ユグリットの心を震わせる。


温もりに包まれながら、ユグリットはそっと目を閉じた。


——もう、何も怖くない。


ラーレとニルファールの腕の中で、ユグリットは静かに、愛の中へと沈んでいった。

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