塔-後編

 二人はニルファールと一旦別れ、塔の試練の階層へ歩みを進めた。

二人の足取りは、力強かった。

ニルファールを救うという強い決意が、二人を支えていた。

しかし、その表情には、不安の色も滲んでいた。

塔の試練が、どれほど過酷なものなのか、想像もできなかったからだ。

それでも、二人は足を止めることはなかった。

ニルファールを信じ、そして自分たちの力を信じて、試練の階層へと進んでいった。


二人が塔の試練の階層に足を踏み入れた瞬間、世界が歪んだ。

「……ッ!」

ユグリットは剣を構えようとしたが、その手がすり抜ける。足元の感覚が消え、全身が沈むような錯覚に襲われる。

気がつくと、彼は壮麗な王宮の広間に立っていた。高くそびえる大理石の柱、燃えるように赤い絨毯。陽光が差し込む窓の外には、カトゥス王国の街並みが広がっている。

(ここは……)

見覚えのある場所だった。ラーレと生まれ育ったカトゥス王宮だ。

「ルキウス」

振り返ると、金髪の青年が微笑んでいた。

スミレ色の瞳、薔薇色の頬。

ニルファール――

ユグリットの胸に鋭い痛みが走る。まるで心臓を鷲掴みにされたような、息が詰まるような痛み。同時に温かい感情が流れてきた。

これが愛おしいということ…

「ルキウス、どうされました?」

「……いや、何でもない。」

声が勝手に返事をする。違う。これは自分の言葉ではない。だが、身体が言うことを聞かない。

これは、記憶の幻影。

しかし、ユグリットははっきりと感じていた。このまま記憶に溺れれば、自分は「ルキウス」になってしまう。

――お前は誰だ?

頭の奥で声が響いた。

「私は……」

ユグリットは拳を握る。

「私はルキウスではない。ユグリットだ。」

目の前のニルファールが哀しげに微笑んだ。

「あなたはルキウスですよ。忘れないでください。私を、私との日々を……」

幻影のニルファールが手を伸ばしてくる。

「私達は一つです。」

その言葉が、ユグリットの心を絡め取ろうとする。

しかし、その手を振り払った。

「私はルキウスの記憶を持っている。けれど、私はユグリットだ!」

その瞬間、視界が砕け散る。幻影が崩れ、王宮の景色が霧散していく。

ユグリットは膝をつき、荒い息を吐いた。

「はぁ……はぁ……」

試練を乗り越えたのだ。


――同じ頃、別の空間では、ラーレもまた自らの選択を迫られていた。


ユグリットが幻影を振り払ったその頃、ラーレもまた別の世界に囚われていた。

「……ッ」

視界が揺らぎ、意識がふっと遠のく。次の瞬間、ラーレは緑豊かな庭園に立っていた。色とりどりの花が咲き誇り、小川のせせらぎが聞こえる。風が吹くたび、柔らかな木漏れ日が葉の間から降り注ぐ。

(ここは……どこだ?)

だが、すぐに気づく。

――これは、ルキウスとして生きていた頃、何度も歩いた庭園だ。

池の水面に映る自身を覗くと、ユグリットともラーレともいえる、二人をひとつにしたような姿の青年だった。

真紅の髪はユグリットを、新緑の瞳はラーレを思わせる。しかし、その顔立ちや佇まいは、確かにルキウスそのものだった。

「ルキウス」

優しい声が響いた。

振り向くと、そこには白き衣を纏った青年が立っていた。輝く金の髪、微笑むスミレ色の瞳。

(ニルファール……)

この記憶を夢で知っている。この庭園で、二人は幾度となく語らい、笑い合った。

青年の手には、一輪の白い花があった。

「この花をご存じですか?」

懐かしい問いかけ。

「……リウェルの花だろう。」

ラーレの口が勝手に答える。まるで身体が、ルキウスとしての意識に支配されているかのように。

「ええ。リウェルの花は“愛と再生”の象徴です。花が枯れても、根が生きていれば何度でも咲く。どんなに厳しい冬が訪れても……。」

ニルファールが微笑む。その瞳には深い慈愛があった。

「どれほど辛いことがあっても、あなたは……あなたは変わらずに、私のもとで咲き続けてくれるでしょう?」

(……違う)

ラーレの指が震える。

(違う、僕は……)

幻影のニルファールがそっと手を伸ばす。

「私たちは一つです、ルキウス。」

甘美な囁きが、心を絡め取る。

もし、この手を取れば――

(僕は、ルキウスになる)

選ぶのは簡単だった。記憶に身を委ね、過去に還ること。

ニルファールの優しい微笑みに、ラーレの心が揺らぐ。

(でも……)

ラーレは、記憶の奥底にいるもう一人の自分に問いかける。

ユグリットは、どうするだろうか?

きっと、過去に囚われることを拒むだろう。

ユグリットは、常に未来を見据えている。

過去の自分を受け入れながらも、今の自分として生きることを選ぶだろう。

(僕も……)

ラーレは、拳を握りしめた。

(僕も、ユグリットと同じように……)

ラーレは、ニルファールが差し伸べる手を、そっと払いのけた。

「僕は……ラーレだ。」

甘い囁きが、耳元でこだまする。

「……ルキウス……」

「違う!」

ラーレは、強く叫んだ。

「僕はルキウスじゃない!ラーレだ!」


言葉と共に、世界が砕け散る。庭園が崩れ去り、光が弾けるように消えていく。


ラーレは息を切らして立ち尽くしていた。足元には、さっきまであったはずの草花も、穏やかな風もない。

試練の階層の冷たい石の床があるだけだった。

(……戻ってこられたのか)

過去の記憶を乗り越え、自らの意志で「ラーレ」としての生を選んだのだ。

顔を上げると、そこには同じく試練を乗り越えたユグリットがいた。


二人の目が合う。

ユグリットがかすかに笑う。

「乗り越えたか。」

「ああ。」

ラーレは短く答え、すかさずユグリットに抱きついた。

「もう戻れなくなるかと思った…。」

「自分の意思をしっかりと持った結果だ。よく耐えたな。」

「ユグリットのことを考えていたんだ。ユグリットなら未来を選ぶと…。」

ユグリットはラーレの背を優しく叩いた。

「方法がどうであれ、お前が未来を選んだからこそ、私達はここにいるんだ。」

二人はゆっくりと身体を離し、互いの顔を見つめ合った。

「ルキウスは、過去のものだ。」

ユグリットの言葉に、ラーレは静かに頷く。

「僕達はユグリットとラーレだ。」

塔の試練を乗り越え、二人は確かに“今”を選んだ。

過去に縛られるのではなく、未来を掴むために――。


ユグリットとラーレは、ついに最上階へと辿り着いた。そこに待ち受けていたのは、初代国王アラゴスの幻影だった。

アラゴスの幻影は、威圧感に満ちた声で二人に語りかけた。

「そなたたちは…ニルファールのエルドの力が、カトゥス王国にとってどれほど危険なものか、本当に理解しているのか?」

ユグリットとラーレは、静かにアラゴスの幻影を見据えた。

「はい。私達は、ニルファールがエルドの力を持つ半神であることを知っています。」

ユグリットが答えた。

「そして、その力が強大で、扱いを間違えれば、国を滅ぼしかねないことも。」

ラーレが続けた。

アラゴスの幻影は、二人の言葉に頷いた。

「ならば…何故、それでもニルファールを解放しようとする?エルドの力は、カトゥス王国を滅ぼすかもしれないのだぞ?」

ユグリットとラーレは、互いに顔を見合わせた。そして、ユグリットが静かに口を開いた。

「私達は…ニルファールを信じています。」

「500年もの間、孤独に耐え、力を制御してきたニルファールの意志の強さを、僕達は知っています。」

ラーレがユグリットの言葉を補強した。

アラゴスの幻影は、二人の言葉にしばらく沈黙した後、再び口を開いた。

「…そなたたちに見せてやろう、かつてエルドの怒りによって壊滅したカトゥスを…。」

アラゴスの幻影がそう言い放った瞬間、二人の視界は一変した。


壮麗な祭壇は消え失せ、代わりに焦土と化した大地が広がっていた。

かつては緑豊かな田園が広がっていたであろう場所は、黒く焼け焦げ、生命の痕跡は見られない。

巨大な岩が積み重なり、まるで墓標のようにそびえ立っている。

風に乗って漂うのは、焼け焦げた肉の臭いと、絶望に満ちた人々の悲鳴。

「あれは…」

ユグリットは、言葉を失った。

目の前に広がる光景は、カトゥス王国の歴史書で読んだことのある、500年前の大災害の跡だった。

エルドの神が暴走し、国が滅亡寸前にまで追い込まれたという、悲惨な出来事。

「一体…何が…」

ラーレは、信じられないといった表情で呟いた。

アラゴスの幻影は、焦土と化した大地を見下ろしながら、静かに語り始めた。

「これがエルドの力の恐ろしさだ。」

「ニルファールの父である神エルドは、自然を侵した我らに怒りの雷を放ち、大地を揺るがし、全てを焼き尽くし…そして眠りについたのだ。」

「その結果、カトゥス王国は、滅亡の危機に瀕した。」

「エルドの血族であるニルファールを幽閉したのは、カトゥスの民の為なのだ。半神であるとしても危険だった。」

ユグリットとラーレは、言葉を失った。

目の前の光景は、想像を絶する悲惨さだった。

本当に、ニルファールを解放していいのだろうか?

二人の心は、激しく揺れ動いた。

アラゴスの幻影は、厳かな表情のまま二人を見下ろす。

「これが、エルドの力の真実だ。お前達にこの強大な力を背負う覚悟があるのか?」

ユグリットとラーレは顔を見合わせた。

たしかに、この惨状を前にすれば、ニルファールの持つエルドの力がどれほど恐ろしいものかを思い知らされる。彼を解放すれば、再び同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。

常に民を案じるユグリットは、凄惨な景色を目にしたラーレは重過ぎる決断に耐えきれず、力なく視線を落とすしかなかった。


その時、焦土の中に小さく儚げな白い花が咲いているのを見つけた。

 

リウェル…愛と再生の花だ。

 

白い花弁を眺める内に、二人の脳裏にルキウスの最期の記憶が流れ込んだ。

幽閉されんとする最愛の恋人を抱きしめ、叫ぶルキウス。

ニルファールを奪われまいと、必死に剣を振るう姿。

そして、アラゴスの刃に貫かれ、地に伏したあの瞬間…

 

ユグリットは拳を握りしめた。

「確かに、エルドの力は恐ろしい...だが、力そのものが悪なのではない。」

「ニルファールは500年もの間、独りで己の力と向き合い、耐え続けてきたのです。」

ラーレも真剣な眼差しでアラゴスの幻影を見据えた。


二人の強い意思を受け止めたアラゴスの幻影は揺らいだ。

「力そのものが悪ではない…、か。そなた達は、我が弟ルキウスと同じ言葉を…。」

「私達はルキウスの生まれ変わりです。」

「彼の力を抑えることも、共に歩むことも…きっとできる!」

アラゴスの幻影は、しばし沈黙した後、静かに問いかけた。

「その覚悟、本物か?」

ユグリットとラーレは、揃って頷いた。


しかし——

一瞬揺らいだはずのアラゴスの幻影はなおも厳しい眼差しを向け、重々しい声で続けた。


「ならば…そなた達に問おう。」

「もしも、ニルファールのエルドの力が暴走し、カトゥス王国を脅かす存在となった時——そなたらは、彼を討てるのか?」


その言葉に、空気が凍りついた。


「ニルファールはそんなことはしない!」

ラーレは怒りのままに叫んだ。


「誤魔化すな!」

アラゴスの声が厳しく響いた。


「忌々しい程、我が弟ルキウスそのものだ。」

「王族としての務めを忘れ、愛などにうつつを抜かし、己の感情に溺れ、そして兄である私を…」

アラゴスの幻影は、怨みを孕んだ声で呪詛を唱えるように呟き…

 

「もう一度問う…そなたらは“王子”としてその責務を果たせるのか? 半神を止めることができるのか?」


王の威厳を纏った幻影が、冷たい声で問いかける。その声音は、まるで運命を裁く神のように揺るぎなく、二人の覚悟を鋭く見定めていた。


ユグリットは静かに息を吸い込んだ。

「わかりました。」


迷いはない。


アラゴスの幻影が唇の端を歪めた。

「ならば、どうする?」


ユグリットは一歩踏み出した。


「では、彼と共に生き、守り…そして共に冥界の湖に沈みましょう。」


その声は、静かでありながら確固たる響きを持っていた。


ユグリットの瞳が揺れる。ブラウ湖――冥界の門に繋がる湖を映したような、深く澄んだ青。その瞳に、まるで水の波紋が広がるように決意の色が宿る。

ラーレは弾かれたように兄の横顔を見た。


ユグリットの言葉は、静謐でありながら、あまりにも強い意志に満ちていた。


ラーレは、胸が張り裂けそうになった。

しかし、幼少の頃からユグリットの意志の固さを知っていた。

そして、ラーレはニルファールを救いたいと思うと同時にユグリットを深く愛していた。

(僕も共に冥界の門をくぐろう。ユグリットがいない世界には…僕には何の意味もない…。)

 

ただ、黙って目を閉じることしかできなかった。


ぞっとするほど、長い時が経ち…

 

アラゴスの幻影はゆっくりと口を開いた。

「…わかった…」

「そなたたちの…覚悟…しかと見届けよう…」

アラゴスの幻影は、光となって消え去った。

 

ユグリットとラーレは、互いに顔を見合わせた。

最後の試練を乗り越えたのだ。

二人は、祭壇へと向かった。

そこには、ニルファールのエルドの力を封じる魔法陣があった。

ユグリットとラーレは、魔法陣に手を触れ、ニルファールの解放を願った。

その瞬間、魔法陣から光が溢れ出した。

光は、二人を包み込み、そして、魔法陣を破壊した。


二人は迷いなく駆け出した。

ニルファールのもとへ、ただひたすらに——


息を切らせて部屋に辿り着くと、

ニルファールは静かに佇んでいた…。

 

囚われていたことが幻のようだった。

輝かんばかりの黄金の髪と神々しい白き衣を纏っていた。

長きにわたる幽閉の中で青ざめていた彼の頬には、今、夢の中で見たあの薔薇色が蘇っていた。

スミレ色の瞳が揺れ、金の睫毛が震えている。


「ルキウス……」


かすれた声が、二人の胸を貫く。

ニルファールにはルキウスの姿が見えているのだろう。

ユグリットとラーレの意識は、ルキウスの想いに染め上げられ、過去の記憶が奔流のように押し寄せる。

けれど、二人は抗わなかった。

 

——きっと、これがルキウスの最後の力。


「ニルファール……」


口をついて出たその声は、ユグリットでもラーレでもない。

それは、かつてニルファールが愛した青年の、懐かしい響きだった。


「……もう一度、あなたに会えるなんて思わなかった。」


ニルファールは幻影のルキウスを抱きしめる。しかし、その腕の中にいるのは、かつての恋人ではなく、今を生きるユグリットとラーレなのだと、痛いほどに実感する。


ルキウスはもういない。

愛した人は、確かにここにいるが、それでも…

 

「私は……あなた方を“ルキウス”としてではなく、ユグリットとラーレとして尊重します。」


彼の瞳に宿るのは、かつての恋情だけではない。

それは長い時を経てなお、誰かを深く愛し、その存在を受け入れようとする、強い決意の光だった。


その瞬間、ルキウスの意識がふっと薄れていくのを感じた。

まるで、安らぐように、穏やかに。


——さようなら。


それが、かつての恋人との永遠の別れだった。


力が抜け、ユグリットとラーレはゆっくりとニルファールに身を預けた。

ニルファールは震える腕で二人を抱きしめる。


「……っ」


堪えきれず、大粒の涙が頬を伝う。

500年もの間閉ざされていた塔に、静かに啜り泣く声が響いた。


やがて、塔を包んでいた宵闇が、ゆっくりと薄れていく。

差し込んだのは、黄金に輝く暁の光。


夜が明ける。

新たな時が、刻まれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る