Echoesー記憶の輪廻ー
鳥内このみ
塔-前編
肥沃な大地と温暖な気候に恵まれた王国カトゥス。
その国に双子の王子がいた。
兄のユグリットは、冷静沈着で思慮深い性格の持ち主だった。カトゥスのブラウ湖畔のように深く青い瞳は常に民のことを案じ、民の暮らしを豊かにしたいという慈愛に満ちていた。国の未来の為に王国の歴史や法典を深く学ぶユグリットは、自らのことよりも他者を第一に考える心優しい王子だった。
弟のラーレは、活発で好奇心旺盛な性格だった。剣術や馬術に長け、その自由奔放な行動力は、多くの人々を魅了した。ラーレは、階級に分け隔てなく接する人懐こく社交的な王子だった。
ユグリットとラーレは、正反対の性格であった。しかし、二人はお互いの違いを尊重し、深く愛し合っていた。ユグリットはラーレの行動力を尊敬し、ラーレはユグリットの思慮深さを敬愛していた。
二人は幼い頃から奇妙な夢を時折見た。
二人はルキウスという名の青年になっていた。
ユグリットは、深い眠りの中で、自分がどこにいるのか分からずにいた。
視界に広がるのは、一面の星空。
無数の星が輝き、まるで宝石を散りばめたようだ。
その美しい光景に見惚れていると、どこからか優しい歌声が聞こえてきた。
歌声に導かれるように歩き出すと、湖畔に佇む人影が見えた。
それは、豊かな黄金色の髪を持ち薔薇色の頬をした美しい青年だった。
青年は、ユグリットに向かって微笑みかけた。
「ルキウス…」
優しい声が、ユグリットの心を包み込む。
その瞬間、ユグリットの胸に、言いようのない懐かしさが溢れ出した。
ラーレは夢の中でその黄金色の髪を持つ青年と口づけをしていた。強く抱き合い、互いの体温を感じていた。深まる吐息、高鳴る鼓動。ラーレは、この青年が誰よりも愛しい存在であることを確信していた。
目覚めると、ラーレの体は熱を帯びていた。隣で眠るユグリットの寝顔を見つめていると、自然と手が伸びていた。夢の残り香がまだ鼻先に漂うようで、現実の輪郭が曖昧なままユグリットの頬に触れると、ユグリットもまた熱い息を吐き出した。
二人はゆっくりと体を寄せ合い、互いの体温を感じた。ラーレはユグリットの髪を優しく撫で、ユグリットはラーレの背中に手を回した。
「ユグリット…」
ラーレが囁いた。
「ん…ラーレ…」
ユグリットもまた、ラーレの名前を呼んだ。
二人の唇が重なり合う。熱い口づけが、二人の心を繋いだ。
ラーレは、ユグリットの体を優しく抱きしめた。ユグリットもまた、ラーレの体にしっかりと抱きついた。
二人は互いの体温を感じながら、ゆっくりと時間をかけて触れ合った。
ある日、二人は王都の喧騒を離れて少し遠くまで足を伸ばしていた。秋の澄み切った空の下、黄金色に輝く草原を駆け抜けるのは、二人にとって心安らぐひと時だった。
「ラーレ、今日は随分と遠くまで来たな。」
ユグリットが手綱を握りながら、隣で馬を走らせるラーレに声をかけた。
「ああ、そうだね。でも、この景色は本当に素晴らしい。王都では味わえない開放感がある。」
ラーレはにこやかに答えた。
二人はしばらくの間、馬を走らせながら世間話をしていた。しかし、ラーレが珍しい鳥を見つけて、そちらに気を取られているうちに、いつの間にか道を見失ってしまった。
「あれ…?ここは…?」
ユグリットは周囲を見渡した。
木々は鬱蒼と生い茂り、道は細く、先へ進むほど暗くなっている。
「おかしいな。いつもの道と違う…。」
ラーレもまた、困惑した表情で呟いた。
二人は馬を止め、周囲を警戒しながら探索することにした。
しかし、どれだけ歩いても、元の道に戻ることはできなかった。
それどころか、ますます道は険しくなり、二人は完全に迷子になってしまった。
「一体どうしよう…。」
ユグリットは不安を隠せない。
「落ち着いて、ユグリット。きっとどこかに抜け道があるはずだ。」
ラーレは冷静にユグリットを励ました。
その時、二人の目に、巨大な建造物が飛び込んできた。
「あれは…塔…?」
ユグリットは目を凝らした。
夕焼けに染まる塔は、まるで悪夢のように不気味な雰囲気を放っていた。
そびえ立つ塔は、古びていて、不気味な雰囲気を醸し出している。
「禁じられた塔だ…!」
ラーレは息を呑んだ。
それは、王家に代々語り継がれてきた、決して足を踏み入れてはならない場所、禁断の塔だった。
ユグリットは、言いようのない不安に襲われた。
「なぜ、こんな場所に…?」
ユグリットは動揺を隠せない。
「分からない…でも、行くしかない。」
ラーレは覚悟を決めた表情で言った。
二人は、禁じられた塔に吸い寄せられるように、足を踏み入れた。
塔の中は、外の明るさとは対照的に、昼間とは思えないほどの暗闇が広がっていた。
二人は手探りで通路を進み始めた。
長い年月を経て、朽ち果てたような廊下や階段が続く。
足元には、湿った苔が生えており、滑りやすくなっていた。
時折、何かが軋むような音が聞こえ、二人の心を不安にさせた。
冷たい空気が肌を刺し、どこからか漂ってくる黴の臭いが鼻を突く。
どれくらい歩いただろうか。
二人はついに、塔の中心部にたどり着いた。
そこは、広大な空間になっており、中央には、美しい装飾が施された祭壇があった。そして人影があった。
ユグリットとラーレは、息を呑んだ。
祭壇に鎖で繋がれた男、豊かな黄金の髪は牢獄の薄暗い光の中でなお輝きを放ち、その顔立ちは、絶望と悲しみに染まりながらも、息をのむほどに美しかった。
「あなたは…夢の中の…?」
ユグリットは、目の前の光景が現実なのか、それともまだ夢の中にいるのか、分からなくなっていた。夢の中で何度も見た、黄金の髪を持つ美しい青年。それが今、鎖に繋がれ、苦しんでいる。
「まさか…本当に…?」
ラーレもまた、信じられないといった表情で、青年を見つめていた。夢の中で何度も触れ合った、温かい体温。優しい微笑み。ラーレは、夢の中の青年が、目の前にいる繋がれた青年と同一人物であることを確信していた。
「…ニルファール…」
ユグリットは、夢の中で呼びかけていた名を震える声で呼びかけた。
「…あなたは…本当に…ニルファールなのですか…?」
ニルファールは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、長い年月の中で失われた光を宿しているようだった。
「…私を…知っているのですか…?」
かすれた声が、静かな空間に響いた。
「はい…私達は…、」
ユグリットは、言葉を探した。何から話せばいいのか、分からなかった。
「僕達は…カトゥス王国の王子…ユグリットとラーレです…。」
ラーレが代わりに答えた。
ニルファールは、二人の言葉に小さく頷いた。そして、再び目を閉じた。
「…そうですか…」
それだけ言うと、ニルファールは再び沈黙してしまった。ユグリットとラーレは、鎖に繋がれたニルファールを、ただ見つめることしかできなかった。
ユグリットは、ニルファールの鎖に繋がれた手足に目を向けた。長い年月の中で、鎖はニルファールの肌に深く食い込み、痛々しい痕跡を残していた。
「…酷い…」
ユグリットは呟いた。
「こんなに…傷が…」
ラーレもまた、ニルファールの姿に心を痛めていた。
「一体…何があったのですか…?」
二人は、ニルファールに問いかけようとしたが、彼は目を閉じたまま、何も語ろうとはしなかった。
しばらくして、ニルファールはぽつり、ぽつりと答えた。
「…私は…この国の…王子と、恋に落ちました…」
その声は、乾いた砂漠の風のようだった。長らく誰かと話すことがなかったことが、その声色から伝わってくる。ユグリットとラーレは、息を潜めてニルファールの言葉に耳を傾けた。
「…王子は…私を、深く愛し…私もまた、彼を…心から愛しました…」
ニルファールのスミレ色の瞳は、遠い過去を見つめているようだった。喜び、悲しみ、そして後悔。様々な感情が入り混じる、複雑な光を宿していた。
「…ルキウス…」
ニルファールの口から零れ落ちたその名前に、ユグリットとラーレは胸を締め付けられるような感覚を覚えた。まるで、大切な人の名前を呼ぶかのように、自然と口から溢れ出たその名前に、二人は確かに聞き覚えがあった。同時に、言いようのない懐かしさが二人の心を包み込んでいた。
ユグリットとラーレは、互いに顔を見合わせた。ルキウス。それは、二人が夢の中で何度もニルファールに呼ばれた名だった。
「…ニルファール…」
ユグリットは、震える声で呼びかけた。
「…その…ルキウスとは…」
ニルファールは、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、深い悲しみと、そして愛情が溢れていた。
「…ルキウスは…私の…愛する人でした…」
その言葉に、ユグリットとラーレは息を呑んだ。ニルファールが愛した王子。それは、彼にとって、かけがえのない存在だったのだろう。
その言葉には、嘘偽りのない、純粋な愛が込められていた。
心打たれた二人は彼を助けたいという衝動に駆られていた。
「あなたはこんなところにいてはいけない!」
「ニルファール、あなたを助けます…。」
二人はニルファールにそう語りかけながら重い鎖を外した。四肢が自由になったニルファールはぎこちない動きで立ちあがろうとした。しかし、長い年月囚われていた身体は思うように動かない。ユグリットとラーレは彼を支えた。
「ありがとう…だが私は、この塔に封印されています。この塔からは決して外に出ることはできません。」
「一体誰がこのようなことを…!」
ラーレはニルファールの境遇に怒りを覚えた。
「…あなた方の先祖です。」
ニルファールは悲しそうに答えた。
「ルキウスの兄王アラゴス…。500年前、私はアラゴスに幽閉されました。」
「500年前…?!」
ユグリットとラーレは、ニルファールの言葉に衝撃を受けた。500年前。それは、カトゥス王国の歴史が始まったばかりの頃。自分達の先祖が、ニルファールを幽閉したという事実に、二人は言葉を失った。
ユグリットとラーレは、顔を見合わせた。アラゴス。それは、自分達の先祖であり、カトゥス王国の初代国王の名前だった。
俄かに信じがたいことだった。
500年前から生きている…?
「私はエルドの血がこの身に流れています。」
ニルファールは、静かに、しかし力強く言った。
ユグリットとラーレは、息を呑んだ。
「…エルド…?」
ラーレは、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「この国に伝わる自然神だ。」
ユグリットは、ラーレに教えた。ユグリットは、王国の歴史や伝承について深く学んでいたため、エルドという存在を知っていた。
「エルド…自然神…」
ラーレは、ユグリットの言葉を繰り返した。
「…あなたは…エルドの血族…?」
ユグリットは、驚きを隠せない様子でニルファールに尋ねた。
「えぇ…。」
ニルファールは、小さく頷いた。
「…私はエルドと人間の間に生まれた半神なのです。」
ニルファールの言葉に、ユグリットとラーレは息を呑んだ。半神。それは、神の血を引く特別な存在。ニルファールが、人間とは異なる力を持つ存在であることを示していた。
「だから私は500年もの間、この塔で生きている…。」
ニルファールは、静かに言った。その言葉には、長い年月を生きてきた者の哀しみと孤独が滲んでいた。
ユグリットとラーレは、ニルファールの言葉に深く心を揺さぶられた。500年。それは、彼らにとって想像もできないほどの長い時間だった。ニルファールは、その間ずっと、孤独と絶望の中で生きてきたのだ。
ユグリットとラーレは、ニルファールの言葉に深く心を痛めた。500年もの間、たった一人で、しかも自分達の先祖に幽閉されていたなんて、想像を絶する苦しみだろう。
「アラゴスは、私をこの塔に閉じ込めただけではなく、エルドの力を封じる呪詛を施しました。塔の魔法陣がその鍵になっています。私はこの塔の外に出ることが叶わない。」
「なら、その魔法陣を壊せば…?」 ラーレが拳を握りしめながら言うと、ニルファールはかすかに笑った。
「そう簡単なものではありません。この塔には魔法陣を護る番人がいる。その番人からの試練を突破しなければ、魔法陣に近づくことさえできないのです。」
「番人からの試練…?」
ユグリットは不安げにニルファールを見つめた。
「ええ。この塔の魔法陣は、ただの封印ではありません。アラゴスが私を閉じ込めるために施したもの――それは“神の枷”とも呼ばれる特別な呪詛。その枷を護る番人は、試練を与え、挑む者の資格を試す存在です。」
「その番人って、一体何者なのですか?」
ラーレが不安げに問いかける。
「……“塔の守護者”とも呼ばれる存在。私の記憶が正しければ、番人はただの魔物ではありません。この塔に囚われた私の膨大な魔力を糧とし、意志を持つもの――そして、おそらく、アラゴスの臣下が魔力を込めて創り出したものです。」
「アラゴスが……」
ユグリットは無意識に拳を握りしめた。500年前、ニルファールを封じるためにこの塔を築いた初代国王アラゴス。彼がどんな想いでこの封印を施したのか――その真意は、ユグリットたちにはまだ分からない。
「番人はあなた方を惑わし、捕らえようとするでしょう。」
ニルファールは忠告をした。
「惑わし、捕らえようとする……?」
ユグリットが低く問い返すと、ニルファールはゆっくりと頷いた。
「ええ。番人は、ただの力試しを課すわけではありません。挑む者の心を試し、深い幻影の中へと誘います。抗えなければ、二度と戻れなくなる。」
「幻影……」
ラーレは眉をひそめ、ユグリットを見た。
「あなた方にとって、最も抗いがたいものが映し出されるでしょう。」
ニルファールの瞳が、二人を見据える。
ユグリットとラーレは無意識に息を呑んだ。
最も抗いがたいもの——それが何か、言葉にしなくても分かる気がする。
「あなた方はルキウスに似ている…。ユグリット、あなたの真紅の髪、そしてラーレ…あなたの新緑の瞳…。」
ニルファールは懐かしそうに目を細めた。
「私達も幼い頃から夢を見ました。あなたに何度もルキウスと呼ばれる夢を…。」
ユグリットは話しながら不意に泣きそうになった。自分の意思ではない何かを感じた。
「私が、あなた達の夢に…?」
ニルファールの瞳がかすかに揺れる。
「僕達はルキウスなのですか…?」
ラーレがそっと問いかける。
ニルファールは静かに目を伏せた。
「……それは、私が決めることではありません。」
そう言いながら、彼はユグリットとラーレを見つめる。
ユグリットの真紅の髪――あの日、陽の光を浴びて燃えるように輝いていたルキウスの髪と同じ色。
ラーレの新緑の瞳――春の野を駆ける彼が見せた、あの美しい瞳の色。
似ているだけではない。
彼らが発する気配、その仕草、その言葉…どこか懐かしく、愛おしい。
「ルキウスは……私にとって、かけがえのない人でした。」
ニルファールの声は穏やかだったが、その奥には深い哀しみが滲んでいた。
「けれど、彼はもういない。」
ユグリットとラーレの胸が、締め付けられるように痛む。
「一目見た時、本当にルキウスがやって来たのかと思いました…。おかしいですね、500年も前のことなのに。」
ニルファールは自嘲した。
「あなた方はルキウスではなく、あなた方自身です。」
ニルファールの指が、そっとユグリットの頬に触れる。そして、ラーレにも優しく手を伸ばす。
「それでも……あなた方に出会えて、本当に良かった。」
静かな笑みを浮かべるニルファールの頬を、一筋の涙が伝った。
「試練はきっと、あなた方の心を揺さぶるでしょう。」
ニルファールはそっと手を離し、塔の奥を見つめる。
「……どうか、気をつけて。」
ユグリットとラーレは、目の前の美しい半神を見つめながら、胸の奥で名も知らぬ感情が込み上げてくるのを感じた。
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