泉-前編

 王宮の庭園には、昼下がりの心地よい陽光が降り注ぎ、爽やかな風が甘い花の香りを運んでいた。

カトゥス王宮の貴族たちは、優雅に整えられた白いテーブルを囲み、紅茶と美しい菓子を楽しんでいる。


コーネリアの茶会——それは、王族たちが親睦を深めるための穏やかな場であり、この日、特別な客人を迎えていた。


「紅茶のお味はいかが?」

コーネリアは微笑みながら、向かいに座るエリオットへと視線を向ける。


「素晴らしい香りですね。カトゥス王国の茶葉は、まろやかな甘みと深みがあります。」

エリオットは優雅にカップを傾け、金の瞳を細める。


「それは光栄ですわ。」


穏やかな笑顔で応じるコーネリア。


そんな中、ユグリットは表向きは平静を装いながらも、ずっとエリオットの気配を意識していた。

先程の記憶が、まだ脳裏にこびりついている。


(……何もなかったかのように振る舞え。)


心の奥でそう自分に言い聞かせる。


書庫から出てこれからどうしようかと考えあぐねたその時、コーネリアに声をかけられたのだ。茶会にはラーレも同席していた。

そして小鳥のニルファールも…


しかし、その平穏を突き崩すように、コーネリアがふと問いかけた。


「そういえば、どうしてカトゥス王国にそんなに興味があるのですか?」


ユグリットの指先が、ほんのわずかに緊張する。

ラーレも気になったのか、手を止めてエリオットの返答を待つ。


エリオットは一瞬、カップの縁に指を滑らせ、それから穏やかに口を開いた。


「私の身体には薄くですが、アラゴス王の血が流れているのです。」


——その言葉に、場が僅かに静まり返る。


ユグリットは瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。


「……アラゴス王の血?」


ラーレが軽く眉を上げる。


「ええ。」

エリオットは、静かに紅茶を口に含み、優雅に続ける。


「カトゥスの歴史書には載っていないかもしれませんが、460年ほど前の出来事です。アラゴス王の孫娘が、トリカロア王家に嫁いだのですよ。」


「まぁ、そうだったのね!存じなかったわ。」

コーネリアが目を輝かせる。


「古い家系図にしか残っていませんからね。」


エリオットは淡々としながらも、どこか誇りを感じさせる口調で語る。


「その王女は、カトゥスの文化を大切にしていました。彼女がトリカロアに持ち込んだものは、芸術、詩、音楽……そして宮廷の洗練された礼儀作法。彼女がいなければ、今のトリカロアの文化はまったく違うものになっていたでしょう。」


「……そんな歴史があったのね。」

コーネリアは興味深そうに頷く。


「だから私は、カトゥスの文化を愛し、皆さんと仲良くしたいと思っているのです。」


エリオットは、静かにユグリットを見つめた。


その金の瞳が、まるで 「貴方を求めている」とでも言いたげに、柔らかく細められる。


ユグリットの背筋が、無意識に強張る。

彼の視線が触れた瞬間、先程の甘やかな囁きと官能的な指先を思い出してしまう。


(……何を考えている、私は。)


ユグリットは、自分の内側に芽生える動揺を押し殺し、静かにカップを持ち上げた。


——何もなかった。

——何もなかったのだ。


平静を装いながら、紅茶を一口飲む。


しかし、喉を通る温かい液体の中に、

エリオットの濃密な支配の気配を感じてしまうのは、何故なのか。


「素敵なお話をありがとうございます。」

コーネリアが微笑みながら、ティーポットに手を伸ばす。


「せっかくですし、もっとお茶を楽しみましょう。カトゥスとトリカロアの友情に乾杯して!」


貴族たちが笑い、華やかな雰囲気が広がる。


しかし、ユグリットの心の中では、

エリオットの言葉と視線の余韻が、深く沈んでいた。


ユグリットはそっと目を伏せ、

紅茶の中に映る自分の表情を見つめた——。


 晩餐が終わり、ユグリットはすぐに浴場へ向かった。


蒸気が立ち込める浴室には、広々とした大理石の湯船が静かに湯気をたたえている。暖かな湯の香りが空間を包み込み、日々の疲れを癒すはずの心地よい時間——


……なのに、今日は違った。


衣を脱ぐたびに、肌に残る熱がよみがえる。


手が、震えた。


(……こんなこと……)


湯に浸かろうとして、ふと、自分の指が微かに震えていることに気づく。

肩を抱くようにして、ひとつ息を吐いた。


昼間、エリオットに触れられた場所が、今もなお、じんわりとした熱を帯びている気がする。

あの指の感触、あの声——それを思い出すたびに、自分の肌が羞恥に染まっていく。


(……思い出すな。)


強く言い聞かせるが、湯の中で緩む身体が、それを許さない。


隣でラーレとニルファールが入ってくる気配を感じた。


(……だめだ。)


これ以上一緒にいては、彼らに悟られる。


ラーレはいつも勘が鋭い。少しの違和感を見逃さない。

ニルファールもまた、ユグリットの心の揺らぎをすぐに見抜くだろう。


このままでは、二人の瞳を直視できなくなる——


だから、


「……先に上がる。」


そう言って、ユグリットは早々に湯を出た。


ラーレが「え、もう?」と驚いた声を上げたが、それに答えず、湯を払って衣を羽織る。


(……何もなかったかのように振る舞え。)


そう自分に言い聞かせながら。


だが、浴室を出る前に、ユグリットの背筋をぞくりと震わせる視線があった。


スミレ色の瞳——


半神の姿のニルファールが、静かにこちらを見ていた。


いつもと変わらない、優しく穏やかな瞳。


けれど、今のユグリットには それが恐ろしく感じた。


(……彼は、何かを気づいているのか?)


その可能性が頭をよぎった瞬間、ユグリットは無意識に視線を逸らし、

早足で浴室を後にした——。


 寝台に横たわったユグリットは、昼間の陽光の温もりがまだ肌に残っているような感覚に包まれていた。

いつもならば、寝室の静寂は心を落ち着かせるものだった。だが、今夜は違う。


——火照る身体。

薄い衣の上からも伝わる熱。


昼間のエリオットの指先、まるで大切な芸術品を撫でるような丁寧で繊細な仕草。

それが今でも皮膚に焼き付いているようだった。


(……思い出すな。)


目を閉じる。

しかし、瞼の裏には、昼間の光の中での出来事が鮮やかに蘇る。


「美しい……貴方の肌は、光を帯びている。」

金色の瞳が、熱を孕んだ視線を送る。

筆先が肌をなぞるたびに、甘やかな囁きが耳元で囁かれる。


(……違う、私は……こんなこと……)


ユグリットは、胸の奥に湧き上がる感覚を抑え込もうとした。

だが、それとは裏腹に、身体は僅かに震え、指先がシーツを掴む。


ふと、視界の端に赤い瞳が浮かんだ気がした。


(……アラゴス……?)


鼓動が強く跳ねる。

いや、これは錯覚だ。

アラゴスがいるはずがない。

これはただの残像——


それなのに、その視線を思い出すだけで、背筋にぞくりとした快感が走る。


「お前は、私のものだ。」


悪夢の中で、幾度となく聞いた言葉。

本来ならば、恐怖でしかなかったはずの記憶——

なのに、今、その支配の囁きが、心地良いものに変わりつつある。


(……どうして……)


ユグリットは、ゆっくりと唇を噛む。

これは、おかしい。

アラゴスは、自分を囚え、支配しようとした存在だった。


だというのに、あの視線を思い出すと、胸の奥が甘く痺れるような感覚に満たされる。

それは、昼間のエリオットの視線と、不思議なほど似ていた。


エリオットの視線、アラゴスの視線。

二つの像が、脳内で重なっていく。

どちらも、ユグリットを見つめ、所有しようとするもの——

かつては恐れたその眼差しが、今は抗えない魅惑として彼を捉えていた。


「……っ」


ユグリットは、思わずシーツを強く握りしめる。

けれど、抑え込もうとするほどに、甘い熱が広がっていく。


(……いやだ……こんなの……)


けれど、思い出してしまう。

昼間のエリオットの囁き、滑らかな指先、優雅な微笑み。

そして、悪夢の中でアラゴスに囚われた感覚。


どちらも、彼を支配しようとしていた。

どちらも、彼を逃さないように囚えようとしていた。

そして今、その支配の記憶が——


甘美なものへと、塗り替えられつつあった。


「……っ、は……」


熱が収まらない。

抗おうとすればするほど、背筋が震え、肌の奥に残る記憶が疼く。

気づけば、ユグリットはひとり、寝台の上で身を捩っていた。


——快感に、抗えずに。


(……私は……どうして……)


罪悪感が襲いかかる。

こんな感情を抱く自分が、堕落していくようで恐ろしい。

けれど、それでも——


もう、悪夢の支配を「恐怖」としてだけ感じることはできなかった。


静かな寝室の中、ユグリットはひとり、闇の中で震えていた。

それは、罪の快楽に気づいてしまった者の震えだった。


ユグリットが 快楽に溺れた直後、彼の内心にはまだ高ぶる余韻が残っていた。

しかし、寝室の扉が開く音がした瞬間、それは一気に引き締まり、背筋が凍りついた。


——ラーレと、ニルファール。


(……見られた……?)


咄嗟にユグリットは寝たふりをすることで、自分を守ろうとした。

荒い呼吸を抑え、静かに目を閉じる。


「……慣れないデッサンで疲れたのでしょうか?」


ニルファールの澄んだ声が、闇の中に響いた。

彼の声はいつもと変わらず穏やかで、優しい——

けれど、今のユグリットには それが妙に鋭く感じられた。


「そうかもしれない……僕たちも早く寝よう。」


ラーレの無邪気な言葉に、ユグリットは密かに安堵する。


(……まだ気づかれてはいない。)


そう思いながら、必死に寝息を装う。


二人がユグリットの両側に横になる気配が伝わる。

ラーレの穏やかな寝息が聞こえ始めると、彼が深い眠りに落ちたことがわかった。


(……よかった。)


——しかし。


暗闇の中、スミレ色の瞳が、すぐ傍にあるのを感じた。


「……ユグリット、起きていますか?」


静かな囁きが、闇の中で響いた。


(……っ!)


ユグリットの 胸が跳ねる。

だが、動かない。息も乱さない。


(……気づかれていないふりをしなければ……)


「——あなた、一人で快楽に溶けていましたね……?」


ニルファールの静かな言葉が、ユグリットの全身を貫いた。


(——見られていた?)


違う。

見られたわけではない。


(……けれど、分かってしまうのか……)


ニルファールは 愛を糧とする半神。

だからこそ、誰がどんな愛を求め、どんな快楽に身を委ねたかを感じ取ることができる。


(……私は、彼の前では何も隠せない……)


ユグリットの指先がシーツを握りしめる。


「……あなたがどんな愛に囚われていたか、私は分かりますよ。」


その言葉に、ユグリットの心臓が大きく跳ねた。


——否定しなければ。


だが、言葉が出ない。


(エリオットのことは……)


(アラゴスのことは……)


言いたくない。


彼は、言葉にしてしまったら何かが壊れてしまうことを直感していた。

自分が堕ちかけているという事実を、ニルファールの前で認めたくなかった。


「……私は、何も……」


なんとか声を絞り出すが、 掠れた声は頼りなく、説得力がない。


ニルファールはじっとユグリットを見つめている気がした。

静かで、温かく、それでいて逃れられない視線。


「あなたの愛は、苦しみを伴っていますね。」


彼の声は、ただの問いではなく確信だった。


(——全て、見透かされている。)


ユグリットの 心が、ぎゅっと締め付けられる。


「私は……」


言えない。

けれど 何かを言わなければならない気がする。


——ニルファールの瞳に映る、自分の姿が怖かった。


「ユグリット」


その声は、どこまでも優しく、温かかった。

ユグリットは、瞼を閉じ、その響きを受け入れる。


額に、そっと触れる柔らかな感触。

それはまるで、過去の傷を癒すような、静かで深い愛の証。


「どんなことがあっても、私はあなたの味方です。」


囁かれた言葉は、ユグリットの心の奥深くに染み込んでいく。


その瞬間——

堪えていた涙が、溢れ落ちた。


ユグリットは、無意識に唇を噛み、肩を震わせる。

何に対する涙なのか、自分でも分からなかった。


罪悪感か、恐怖か、それとも……安堵か。


「……怖かったのですね。」


そっと、ニルファールが腕を回す。

その抱擁は、どこまでも優しく、温もりに満ちていた。


ユグリットは、ただその腕の中に沈み込んでいく。

まるで、長い夢から覚めるように——

あるいは、まだ続く悪夢の狭間で、かろうじて現実を確かめるように。


「……私は……」


声にならない言葉を飲み込む。


愛されている。

それは、間違いない。


けれど、この愛は、ユグリットにとってあまりにも眩しく、手を伸ばせば、すぐに砕けてしまうように思えた。


ニルファールのスミレ色の瞳は、まるで全てを見透かすようで、けれど、それでもなお、彼を拒むことはなかった。


どんなに堕ちても——

どんなに罪を重ねても——


「私はあなたの味方です」


その言葉が、ユグリットの心の奥で、

静かに響き続けていた。


 

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