第七章 永遠の渇望

 ――病室の窓から射す午後の光は、淡い金色の膜を床に敷き詰めていた。そこにはもう、PBの痕跡はない。少年の亡骸は既に運び出され、ベッドのシーツは新しい白へと取り換えられていた。漂うのは消毒液の匂いと、微かな埃の匂いだけ。病室は、ただの「空き部屋」へと還っていた。


 だが、ジュンはそこを離れようとしなかった。金属の脚で床に影を落とし、窓際に立ち尽くす姿は、墓前を守る像のようにも見えた。人間の規範でいえば彼は必要のない滞留を続けていることになる。だが彼自身の回路はそれを「必要」と認識していた。PBが最後に託したデータ――『*=””』。それが彼の処理系を占拠し続けているからだった。


 内部では絶え間ない解析が繰り返されていた。記録された「無音の音」は、振動の打ち消し合いによって生じた存在しないはずの波。再生しても聴こえるものはなく、ただセンサーの値はゼロを刻むばかりだった。それでもジュンは演算を止めない。変換、逆変換、位相の展開、波形の合成。あらゆる手法を試みる。だが結果は常に同じ。空虚。無の報告。


 彼は時折、外界のわずかな音に引き寄せられる。廊下で台車の車輪が鳴ると、その音の余韻がPBの物語で語られた赤い光を呼び覚ます。補色の緑が、彼の視覚アルゴリズムに仮想の残像として点滅する。あるいはドアの軋みが、消えた旋律の欠片のように響き、PBの声の断片を幻として蘇らせる。だがそれは一瞬で掻き消え、もう二度と掴めない。彼は手を伸ばすことなく、ただ内部に残った記録の齟齬に耳を澄ませ続ける。


 病室の中で、ジュンは声を出すようになった。人の姿も、PBの影もない空間に向かって、彼は静かに囁く。


「PB、もう一度……」


 合成音は震えを帯び、機械の規則性を逸脱する。


「ねえ、希望はどこにあるの?」


 その声は病室の壁に吸い込まれ、廊下を通りかかる職員の耳に届くこともあった。彼らにはそれが、亡き少年を悼む美しい歌のように聞こえた。柔らかく、祈るような旋律に似た声。誰も、その声がアンドロイドのものだとは思わず、また、それが答えを決して得られない問いの繰り返しであるとも気づかなかった。


 ジュンの内部では、やがて一つの結論が結晶のように形を取った。

 ――希望は、受け取った瞬間に失われた。

 PBが手渡した「箱の音」は、彼の中に確かに届いた。しかし今、それは再現不能な記録としてしか残っていない。存在は確かであったが、現在にはない残像。ゆえに探求は終わらない。希望とは、充足ではなく、永遠に満たされない欠落そのもの。PBの託したものは、完成した宝石ではなく、決して埋まらない空洞だったのだ。


 ジュンはその空洞に向かい続ける。声を発し、応答のない返礼を待ち続ける。


 病室には彼の声だけが残響する。白い壁に反響し、窓からの光に溶け込んで、誰もいない空間を満たしていく。それは祈りではなかった。救済を求めるものでもなかった。


 ただ一つ、渇望の証として。


 ――サナトリウムの白い病室に響くのは、応える者のいない、讃美歌のように美しい声だけだった。

 それは救済の祈りではない。

 永遠に続く、渇望の証だった。

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