第4話 妄想が真白の風紀を乱す

 朝の教室は、チョークの粉がうっすらと舞う匂いと、窓辺の光の粒で満ちていた。

 黒板の端に書かれた英単語が、眠そうなクラスメイトたちの瞳に跳ね返っている。

 机に腕を組んだ男子の肩越しに、廊下側の掲示板が見えた。

 当番表、行事予定、風紀委員からのお知らせ。

 自分で作った張り紙なのに、今だけは視界に入っても頭を通り抜けていく。


(……さっきの、美鈴さんの声)


「昨日バイトだったんでしょ? 今日眠そうじゃん」


 耳の奥に残ったその響きを、真白はひとつ深呼吸して追い出そうとする。


――けれど、代わりに浮かぶのは、あのぶっきらぼうな低い返事だ。


「……まあな」


(“まあな”って言い方……眠そう。やっぱり夜遅くまで……)


 胸が、じわりと熱くなる。

 熱は不快じゃない。でも冷やす方法がわからない。


「皆川さん、ノート回ってきてるよ」


 前の席の男子がノートを差し出してくる。

 真白は反射的に受け取り、ハンコのように丁寧な字で自分の名前を書いた。

 ペン先が紙を滑る感触は、いつも通り。

 なのに、書き終えた瞬間、勝手に脳裏に黒いシャツの質感が乗り移ってくる。


(……黒シャツ)


 昨日、妄想してしまった“夜の店”。

 カウンターの向こう側でグラスを拭く琥太郎。

 白い照明がガラスに反射して、細い指の甲を光らせる。

 きゅっ、きゅっ、と布で磨く音がして——


「皆川さん?」


「っ……! はい、回します!」


 危ない。ノートの端を逆向きに回しかけていた。

 受け取った後ろの子が笑って首を傾げる。

 真白は「すみません」と小声で謝ってから、両頬をぱん、と小さく叩いた。


(落ち着け。私は風紀委員長。朝の巡回はもう終わった。次は一時間目の小テスト。集中、集中……)


 集中と言いながら、目は窓の外へ、耳は廊下のざわめきへ、心は――黒シャツへ。


(いや、黒シャツだけじゃない。エプロンかも。カフェとか……)


 頭の中に、コーヒーの香りが立ちのぼる。

 カップの縁に口をつける代わりに、彼は静かに香りを確かめる。

 蒸気が頬を撫で、長い睫毛が影を落とす。

 カウンター越しに、ふっと目が合って——


『委員長、砂糖はいくつ?』


(い、いくつって聞かれても! 私はブラック……いえ、甘いのも好きで……!)


『じゃあ今日は甘くしとけ。顔、疲れてる』


(つ、疲れてません! これは練習です、表情筋の……!)


 脳内の彼は、カップをこちらに滑らせる。

 ソーサーが木のカウンターで軽く鳴って、二人だけの音になる。

 そこへ、現実の世界でチャイムが鳴った。

 一時間目開始の合図。

 教室の空気が一段、しゃきっと引き締まる。


 先生が入ってくる。

 小テストが配られた。

 配られる白い紙に視線を落とした瞬間、真白の心は別の白に引き戻される。


 ——白いシャツ、黒いベスト、細いネクタイ。


(やっぱり夜の店じゃ……いや違う、ホストは違う……!)


 昨日、自分で否定したのに、否定したこと自体が残像になって戻ってくる。

ほら、脳内の琥太郎が、照明に照らされたきれいなグラスを片手に——


(待って、ホストじゃない。違う。違うけど、似合ってしまうのは否定できない……!)


「そこ、テスト中は静かに!」


 先生の声に、真白は背筋を伸ばし、シャーペンを握り直した。

 目の前の問題は、受動態。

 英作文で “I was given” と書こうとして、指が勝手に “I was given a drink by Kotaro” と動きかける。


(待って待って、授業……!)


 ぐっと手首を止め、消しゴムでそっと消す。

 消しゴムのカスが、紙の端に丸く集まった。

 丸いそれが、なぜかカウンターの上の氷の粒に見えてくる。

 透明、冷たい、きらきら——。


(氷! バー! やっぱりバー!)


 琥太郎が銀色のトングで氷をつまむ。

 カット氷がグラスに落ち、小さな鈴みたいな音がする。

 琥太郎は真剣な横顔で、氷の角を確かめるように指先でなぞる。

 黒いシャツの袖口から見える手首の筋。

 少し大きめの黒いベスト。

 働く人の匂い。

 カウンター越しに、彼がこちらにわずかに身を屈める。


『委員長、今日は何、混ざってる?』


(え、混ざってる? 何が? いや、私の心がいろいろ混ざってます!)


『ルール、正義感、そして……ちょっと甘いの』


(甘いの、は、たぶん砂糖のことで……!)


『じゃ、ほどほどに甘くしておく』


 細いボトルの首を掴む指先。

 氷の隙間に、琥太郎の声の温度が落ちていく。

 耳の内側で、透明な音が重なる。

 きらきら、からん、ふう、と息。


(ふう、って、吹きかけないでください、顔が近い……!)


「皆川、前を向け」


 先生の低い声。

 真白はぴしっと正面を見て、配られた二枚目の問題用紙を受け取る。

 問題用紙の端が少しめくれて、紙の層の薄さが見える。


 ——薄い。


 胸の内の言い訳はそれより薄い。

 うっかりすると、破れてしまいそうだ。


(今は、テスト。終わったら、廊下の当番表を直して、それから、回収箱を整えて……)


 項目を並べ直していると、また声が蘇る。


『昨日バイトだったんでしょ?』


 美鈴の無邪気な響き。

 彼女は悪くない。

 優しい子だ。

 誰にでも笑顔で話しかけられて、空気を柔らかくする。


——だからこそ、近い距離で話す姿が眩しい。


 指先が、紙の端でちいさく震えた。


(私は委員長。嫉妬なんて、そんな、子どもみたいな――)


 脳内の琥太郎が、ふっと笑った。

 昨日、赤ペンのキャップを回していた自分を見ていた顔と、同じ笑い方。

 やや俯いて、目だけを上げる、不器用な笑い方。


『委員長、三行。覚えてるから』


(字の練習の話……! 本当にやるのかな……)


 ペンを持つ琥太郎の手を想像する。

 強い筆圧。

 曲がる線。

 でも、昨日より迷いの少ない文字。

 三行の先に、誰かのための丁寧さが増えていく未来。

 その未来に、自分が少しでも関わっているのだとしたら——。


(やめ、やめ、やめ! 今はテスト!)


 自分の頬を軽くつねって、視界を白黒に戻す。

鉛筆の芯の匂い、紙の乾いた手触り。

 窓の外で風が旗を鳴らし、誰かの笑い声が一瞬だけ混じり、すぐ遠のいた。


———


 テストが終わると、教室の空気は一気に色を戻した。

 机のあいだから椅子の脚がこすれる音がいくつも立ち上がり、プリントを前から後ろへ回す手の群れが波のように動く。

 先生がプリントの束を抱えて出ていくと、教室のざわめきは廊下へ溢れていった。


 真白は自分の席に座ったまま、ペンケースを開けたり閉めたりした。

 中の赤ペンのキャップを、親指でそっと押して、ぱちん、と音を立てる。

 昨日、琥太郎に「どっちだよ」って言われたことを思い出してしまい、慌ててペンケースを閉じた。


(……見に行くつもりは、ない。ないけど……廊下に出るのは自由。廊下の掲示は風紀委員の仕事)


 自分に理由を作り、立ち上がる。

 ドアを開けると、廊下の空気は少し涼しかった。

 床のワックスの匂いと、遠くの音楽室のピアノが混じる。

 曲がり角に、さっきと同じ二人の影はない。

 ほっとしたような、残念なような、訳の分からない呼吸が喉を出入りする。


 掲示板の画鋲を直して、端の丸まりかけた紙に軽く手を当てた。

 紙の角がぴしっと真っ直ぐに戻る。

 その指先に、昨夜の紙の手触りが重なってしまう。


——硬い横罫。


 筆圧の跡。

 黒いインクの乾いた脳内の匂い。


(あのとき、“急ぎますか?”って、二回も聞いちゃった)


 問いの先にあった沈黙。

 「癖だよ」と素気に返された声。

 あの素っ気なさは、薄っぺらな紙だった。

 剥がせば、色が出る。

 剥がすべきじゃないとは知っている。

 でも、人としては、ほんの少しだけ、覗いてみたいと思ってしまう。

 誰かの時間の表面に触れて、乱さない程度に温度を確かめてみたい。


(……ダメ。私の仕事は、乱さないこと)


 心の中で自分に印鑑を押し、真白は教室へ戻る。

 ドアを開けた瞬間、向かい側の窓の外を、翼を広げた鳥が横切った。

 一瞬の影が床に落ち、すぐに消える。

消えた影が、胸の内側だけに残った。


———


 二時間目の前。

 クラスの男子が騒ぎながら席を移動し、誰かが消しゴムを落として、別の誰かが笑って拾う。

「ねえ、皆川さんってさ」と近くの女子二人が小声で話す。

 真白は聞くともなしに耳に入れてしまう。


「委員長ってさ、固いのに、最近ちょっと可愛いよね」


「わかる、なんか、頬が赤いときある」


(ひ、頬……!)


「誰かいるのかなー、とか」


「いるわけないでしょ、皆川さんだよ?」


(いません! いませんし、今朝のは暑かっただけで……!)


 机に額をつけ、こっそり深呼吸をひとつ。

 深呼吸をしたら、今度はコーヒーの香りを吸い込む錯覚に襲われた。


――危険だ。


 思考が危険だ。


(発想の転換。夜の仕事に黒シャツは、居酒屋でもある。洗い場でも黒いTシャツ着るところはある。……そう、居酒屋! ホストなんて飛躍、飛躍!)


 そう言い聞かせると、たしかに居酒屋の方が現実味が出てきた。


 がやがやとした店内。

 皿の音。

 油の匂い。

 注文の声。

 忙しく動く琥太郎。

 黒いエプロン。

 手首のタオル。

 髪を後ろでひとつに束ねて、前髪はそのまま。

慣れない笑顔を作って、でも食器を持つ手つきはやたらと丁寧で、

 グラスを置くときに音を立てない。


(うん、そっちの方が、ずっと……)


『すみません、生ひとつ!』


『はい、生ひとつ!』


 低い声が、店の喧騒の中でちゃんと届くように少しだけ張られて——。


 琥太郎は素早くジョッキを取り、レバーを引く。

 泡の比率を正確に整えて、すっと置く。

 客の視線より先に、コースターを置く。


――細部が丁寧。


 そういうところが、琥太郎には似合う。

 似合って、少し、切ない。


(家計のため……なのかな)


 胸の奥で、昨日の黎人の言葉がまだ形にならない影のまま漂っている。


「弟と妹の面倒、見てるんだぜ」


 影は色になりたがっている。

 でも、いま色をつけるのは、私じゃない。


(私は、委員長。仕事をする。彼は彼の仕事をする。……それでいい)


 そう結論づけようとした瞬間、脳内の居酒屋が急に静まった。

 真白の想像の中で、客の声が遠のく。

 琥太郎が、ふとカウンターのこちら側を見る。



そこに座っていたのは——制服姿の自分。


 いつの間にか、校則違反の極みで、放課後に寄っていることになっている。


(ダメダメダメ! 未成年未成年! 風紀委員長どこ行った!)


 脳内の自分は慌てて席を立とうとする。

 けれど椅子の脚が床で変な音を立てて、余計に目立つ。

 カウンターの向こうの琥太郎が、困ったような、でも少し笑ったような目をする。


『委員長、ここはまだ早いな』


(だから、そうです! 早いです! 帰ります!)


『代わりに——』


 琥太郎は、厨房の奥から、小さな透明な袋を取り出す。

 中には、綺麗に角の立った氷が入っていた。

 袋の口を結び直し、こちらに差し出す。


『冷やしとけ。熱、下がるから』


(……熱?)


『頬、赤い』


(わ、わあああ——っ!)


 現実の真白は思わず本当に頬を両手で覆い、机に突っ伏した。

 前の席の男子が振り返って、「皆川、大丈夫?」と訊ねる。

 真白は親指だけ立てて「OK」を示し、そのまま机に顔を埋めた。


(落ち着け……! 氷の袋を渡すのは、現実的! でも、渡す前提が、私が居酒屋にいることになってるのがおかしい!)


 脳内の店が、ふわっと切り替わった。

 今度は明るい。

 音楽が軽い。

 ミルクフォームのふくらむ音。

 スチームの白い湯気。


(カフェ! そう、カフェなら健全!)


 琥太郎は黒いエプロンに白いシャツ。

 髪は後ろで緩く結び、前髪は少しだけ流している。

 表情はさっきよりも柔らかく、でもやっぱり少し不器用。

 ラテアートに挑戦して、見事に失敗して、悔しそうに眉を寄せる。


(なにそれ、かわ……いや、かわ……)


『もう一回』


 琥太郎が牛乳の温度を確かめ、注ぎ口を少しだけ傾ける。

 カップの表面に、丸がひとつ、ふたつ重なって、

 最後に、少し歪んだハートが、なんとか浮かび上がる。

 それでも、彼は小さく「よし」と言って頷く。

 カップの向こう側、誰かがそれを受け取る。

 その“誰か”の手首に、見覚えのある白いカフス。


(はい、私の手首でーす! なんでまた私出てくるの!)


『委員長、練習の成果』


(練習って、字の練習じゃなかったんですか!)


『どっちも、だろ』


(どっちもって何!)


 脳内のカップを受け取った自分は、湯気の向こうでうまく笑えていない。

 目を逸らしつつ、でも勇気を振り絞って小さく言う。


(……おいしい、です)


『それで十分』


 言葉の温度が、湯気に混ざって立ち上る。

 その温度が、現実の頬にまで到達して、真白は机の上で小さく転がった。

 コロコロと、気配を消して、文鎮みたいに。


「……皆川。ほんとに大丈夫?」


「だい、じょうぶ、です……っ」


 声がわずかに裏返る。

 いけない。

 このままでは、風紀委員長の威厳が危機だ。

 威厳が溶けて、ミルクフォームになってしまう。


(よし、現実のタスク。現実。今日の放課後は巡回、書類の整理、そして……)


 そして?

 昨日の彼の「三行」の報告。

 来るのだろうか。

 来ないのだろうか。

 来なくていい。

 仕事があるなら、その方がいい。


――でも、来たら、嬉しい。


 二つの気持ちが、右手と左手で綱引きを始める。


(こういうの、規則に書いておきたい。『心がふらついたときは、まず深呼吸』)


 内心でふざけて、少しだけ落ち着く。

 視界が静かにピントを取り戻し、クラスメイトの笑い声が遠近感を得る。

 窓の光が、机の角を優しく照らす。

 それだけのことで、人は生き延びられる。


———


 三時間目が始まる直前。

 廊下からまた、笑い声がした。

 美鈴の声ではない。

 けれど、明るくて、よく通る声。

 彼女は誰にでも同じ声色で話す。

 それを知っている。

 だから、さっきの胸のちくりは、自分の問題だ。


(美鈴さんは悪くない。優しい。だから、近い。……琥太郎くんも、人がいい。だから、距離が近いと、受け入れてしまう)


 もし、私があそこに立っていたら。

 もし、私があの距離に入ったら。

 受け入れられるだろうか。

 それとも、拒まれるだろうか。


(拒まれるなら、それは、風紀委員長だから? 皆川真白だから?)


 “委員長”という肩書きが、胸の真ん中に名札みたいに重なる。

 名札は便利だ。

 誰が誰か、すぐにわかる。

 でも、名札の下にいる“自分”が、名札の形に押し込まれてしまうこともある。

 角が合わない。

 すり減る。

 名札が、痛い。


(……私は、どう呼ばれたいんだろう)


 脳内の琥太郎が、ゆっくりとこちらを見た気がした。

 昨日、反省文の最後の句点を打ったときの、あの目で。


“委員長”ではなく、“皆川”でもなく、

――“真白”。


 名前で呼ばれるのは、たぶん危険だ。

 危険だけど、温かい。


(危険は、管理できる。……はず)


 小さく息を吐いて、背筋を伸ばす。

 教壇の上で、先生が出席を取り始めた。

 その声を、ひとつひとつ拾い上げる。

 名前は、ここに生きている人を呼ぶための音だ。

 そう思ったら、世界の輪郭が少しだけやわらかくなった。


———


 昼休み。

 購買のパンの甘い匂いが廊下に流れ込み、

 教室の空気は一気に活気を帯びる。


 真白はいつものように弁当を広げ、箸を取りながら、窓の外の光を一度だけ確かめた。

 光は強すぎず、影は濃すぎない。


——ほどよい。


 心のなだらかさも、こうだといい。


 向かいの席の女子が、笑いながら話しかけてくる。


「皆川さん、今日の見回り、私代わろっか?」


「え? いいの?」


「うん。なんか、皆川さん、最近忙しそう」


(忙しいのは、心です。とは言えない……)


「ありがとう。でも、大丈夫。私の仕事だから」


 言ってから、少しだけ胸が温かくなった。



“仕事だから”という言葉に、逃げ込むのではなく、依りかかる。

 そこに立っていれば、迷っても、少しは形を保てる。


 箸を動かしながら、ふと視線が廊下の方へ滑った。

 人の流れの向こう、教室のドアの外に、背の高い影が横切る。


——琥太郎。


 一瞬で、心臓が跳ねた。

 琥太郎は、誰かに呼ばれて立ち止まり、軽く返事をして、すぐに歩き出す。

 足取りに、少しだけ重さ。

 眠気だ。

 昨夜の名残。

 それを思って、箸が空中で止まった。


(……眠い、のに、来てる)


 学校に来て、授業を受けて、人の波の中に混ざっている。

 誰もそれを褒めたりしない。

 でも、誰もがそれに支えられている。


 真白の胸の真ん中が、静かに熱くなった。


(私も、ちゃんと立つ。委員長として。皆川真白として)


 そう思った瞬間、脳内の店の音が、すっと音量を下げていった。

 ミルクの泡も、氷の鈴も、シェーカーの金属音も、遠のく。

 代わりに、現実の音がはっきりと立ち上がる。

弁当箱の蓋が当たる音。

 笑い声。

 パンの包み紙のかさかさ。

 遠くの体育館のホイッスル。

 それらの音の中に、確かな自分の居場所がある。


(……でも、やっぱり少し、見ていたい)


 心の奥の小さな声が、正直に囁く。

 正直は、時々、ルールよりも強い。

 それでも、ルールと喧嘩させない方法はある。

 今日の私は、きっと、それを見つけられる。

昨日より、少しだけ。


 真白は弁当の最後の一口を口に運び、水筒の蓋を戻した。

 机の上を整え、赤ペンのキャップを一度だけカチリと鳴らし、

 胸の中で、たった三行だけの宣言を書く。


――一、仕事をする。

――二、誰にも失礼をしない。

――三、心が揺れたら、深呼吸。


(よし。午後も、いこう)


 窓の外、春の光が、黒板の端で小さな三角を作っていた。

 それは、差し込んだ光が、どこかで反射して生まれる形。

 人の気持ちも、きっとそうだ。

 照らし、照らされ、反射して、思いもよらない場所に小さな光を置いていく。


 その光が、彼に届くかどうかはわからない。

 でも、少なくとも、ここにはある。

 今日の私の机の上に。

 皆川真白の胸の内側に。


 そして——放課後の生徒会準備室に、少しだけ期待を残しながら、昼休みのざわめきへ身を溶かしていった。

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